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陽だまり縁側堂の、思い出の捨て方 ――嘘の実話祭りと危険な伯爵――  作者: 乾為天女


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21/25

第21話 閉じる勇気

 十一月に入ると、陽だまり縁側堂の縁側は、日なたよりも影の方が早く伸びるようになった。

 座布団は相変わらず古い。けれど、その上に置かれる物は、春よりずっと増えていた。割れたマグカップ、学生服の端切れで縫った旗、写真を包んだ薄紙、切り取られた日記の封筒、そして「持ち帰る勇気がまだない」と書かれた付箋つきの小箱。

 香織は朝から、予約表の端を指で押さえながら、鉛筆で時間を書き直していた。

 「十時、相談。十一時、写真の保存方法。十二時、休憩。十二時十分、休憩短縮。十二時二十分、緊急相談。十三時、緊急ではない緊急相談……緊急ではない緊急って、何ですか」

 「本人にとっては緊急だけど、建物は燃えてない、という意味です」

 萌が真顔で答えた。

 「それ、分類として強いんですか弱いんですか」

 「中くらいです」

 「中くらいの緊急」

 香織は鉛筆を置き、額を押さえた。

 奥では咲璃が、日記を包む紙の湿気を見ている。理香は暖房費と保険料を確認し、みづきは保管棚の仮番号を貼り替えている。心暖は来客用の湯呑みを並べながら、なぜか司会練習のように「本日はお越しいただき」と呟いていた。

 誰も遊んでいない。誰も手を抜いていない。

 なのに、縁側堂は少しずつ呼吸が浅くなっていた。

 来る人が増えるのは、うれしい。必要とされるのは、ありがたい。三月末までに利用実績を示すという意味でも、数字は悪くない。

 それなのに、香織の胸の奥は、朝から細い糸で引っ張られているようだった。

 「香織さん、この箱、どこに置きますか」

 「棚の右から二番目に……いえ、彬子さんの封筒の横は避けて。写真の隣も違う。あの、少し待ってください」

 「香織さん、午後の方、十分早く来てもいいかって」

 「十分なら……いいです。でも、十一時の方が押したら」

 「香織さん、理香さんが、記録票の言葉が情緒に寄りすぎって」

 「後で見ます」

 「香織さん、志龍さんからメントール菓子が届いてます。差し入れって書いてあります」

 「なぜ菓子だけ先に来るんですか」

 言いながら立ち上がった瞬間、床が少し傾いた。

 いや、床は傾いていない。古民家だから多少の傾きはあるが、いま目の前が斜めになったのは、自分の方だ。

 香織は柱に手をついた。指先が冷たい。息を吸うと、胸の奥で硬い紙がこすれるような感じがした。

 「香織さん?」

 萌の声が遠くなった。

 次の瞬間、誰かが椅子を引く音がして、香織は無理やり座らされていた。

 「倒れる前に座れたので、今日はぎりぎり勝ちです」

 聞き慣れない基準を口にしたのは、達貴だった。

 スポーツ整体師の彼は、いつの間にか玄関に立っていた。肩から大きな布バッグを下げ、片手にノートを持っている。予約の依頼人ではなく、様子を見に来ただけだと顔に書いてあった。

 「勝ち、なんですか」

 「倒れてから座るのは負けです。倒れる前に座るのは、まだ判断が残っている状態です」

 達貴はそう言って、テーブルにノートを開いた。そこには、人間らしき丸と、建物らしき四角が描かれている。丸の横には「香織さん」、四角の横には「縁側堂」と書かれていた。

 「何の図ですか」

 「今の状況です」

 「丸と四角で?」

 「本当は筋肉も描きたいんですが、理香さんに『申請書に載せられない絵を増やさないで』と言われました」

 「正しい判断です」

 理香が淡々と言った。

 達貴は気にせず、丸と四角のあいだに何本も線を引いた。

 「人の悲しみを受け止める場所にも、休む時間がいります。ここは倉庫じゃない。香織さんも棚じゃない。全部を載せ続けたら、どちらかが先に歪みます」

 「でも、予約が入っています」

 「だから、半日だけ閉めます」

 香織は反射的に首を振った。

 「無理です。今、閉めたら、来ようとしてくれた人が」

 「来ようとしてくれた人に、倒れかけた店主を見せる方が怖いです」

 理香の声は鋭かった。

 香織は言葉を失った。

 春から、何度も「捨てなくてもいい」と言ってきた。急がなくていい、今日決めなくていい、置いていくだけでもいい。そう言いながら、自分だけは一度も置かなかった。疲れも、後悔も、怖さも、全部持ったまま立っていた。

 閉めることは、負けだと思っていた。

 必要とされなくなることが怖かった。三月末の期限に追いつけなくなることも怖かった。誰かの話を聞けなかった一回が、取り返しのつかない一回になるかもしれないと思うと、胸の中で祖母の日記の燃える音がした。

 「香織さん」

 咲璃がそっと湯呑みを置いた。

 「紙も、湿ったまま触り続けると破れます。乾く時間を置くのは、放っておくことではありません」

 その言葉は、香織の中にゆっくり沈んだ。

 萌がすでに付箋を三色に分け始めている。

 「今日の午後の予約者さんには、こちらから電話します。緊急ではない緊急の方は明日の午前へ。写真保存の方は、みづきさんが図書館の資料案内だけ先に送れます。相談内容が重い方には、澄麗さんの窓口も案内します」

 「早いですね」

 「怖いので、早く動いています」

 萌は紙を握ったまま、少しだけ笑った。

 「でも、香織さんが倒れる方がもっと怖いです」

 心暖が湯呑みの列を見つめながら、小さく手を挙げた。

 「わたし、張り紙を書きます。字は、司会台本より落ち着いて書きます」

 「比較対象が不安ですが、お願いします」

 香織が言うと、心暖は真剣な顔で筆ペンを握った。

 のあは壁にもたれ、スマートフォンを見ていた。

 「ブログには書かないでください」

 「書かない。書くなら『休めない相談所ほど信用できない』って書く」

 「それは書くんですか」

 「褒めてるんだけど」

 言い方が下手すぎて、香織は少し笑ってしまった。

 笑うと、胸の奥の硬い紙がほんの少しだけゆるんだ。

 午後一時、陽だまり縁側堂の玄関に、心暖の字で張り紙が出された。


 本日は午後から休みます。

 大切な話を、急いで雑に聞かないためです。

 明日以降、順番にご連絡します。


 最後の一文の横に、心暖がうっかり小さな花の絵を描いていた。理香がそれを見て、「公的文書ではありませんから」とだけ言った。許可の言葉だった。

 香織は縁側に座った。外は晴れているのに、風は冷たい。座布団のへたりが、背中に妙にやさしかった。

 閉めた途端、罪悪感が来ると思っていた。

 けれど、最初に来たのは、静けさだった。

 紙をめくる音も、電話の呼び出し音も、誰かが言葉を探す気配もない。縁側堂は空っぽになったのではなく、息を吸っているように見えた。

 達貴がノートを閉じる。

 「休む姿勢も、続けるための技術です」

 「技術、ですか」

 「はい。根性より長持ちします」

 香織は湯呑みを両手で包んだ。

 捨てるか、残すかだけではない。開けるか、閉めるかでもない。

 大切に聞くために、今日は聞かない。

 そんな選び方があることを、香織は初めて自分に許した。

 夕方、志龍が遅れてやって来て、張り紙を読んだ後、なぜか玄関先にメントール菓子を一袋置いて帰ろうとした。

 「休みの日の差し入れは、休みを邪魔しないのが礼儀かなと思って」

 鈍いのか、鋭いのか。

 香織は縁側から手を振った。

 「今日は、そこに置いていってください」

 「はい」

 志龍はうれしそうに頷き、菓子を木札の横に置いた。

 本日は休みます。

 その張り紙の下で、銀色の包み紙だけが、冬の入口の光を受けて小さく光っていた。



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― 新着の感想 ―
更新ありがとうございます。「休む姿勢も、続けるための技術です」含蓄があります。確かに根性より長持ちしますね。達貴さん流石です!自分にも丁度欲しかった言葉です。香織さん見習いましょう。
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