第21話 閉じる勇気
十一月に入ると、陽だまり縁側堂の縁側は、日なたよりも影の方が早く伸びるようになった。
座布団は相変わらず古い。けれど、その上に置かれる物は、春よりずっと増えていた。割れたマグカップ、学生服の端切れで縫った旗、写真を包んだ薄紙、切り取られた日記の封筒、そして「持ち帰る勇気がまだない」と書かれた付箋つきの小箱。
香織は朝から、予約表の端を指で押さえながら、鉛筆で時間を書き直していた。
「十時、相談。十一時、写真の保存方法。十二時、休憩。十二時十分、休憩短縮。十二時二十分、緊急相談。十三時、緊急ではない緊急相談……緊急ではない緊急って、何ですか」
「本人にとっては緊急だけど、建物は燃えてない、という意味です」
萌が真顔で答えた。
「それ、分類として強いんですか弱いんですか」
「中くらいです」
「中くらいの緊急」
香織は鉛筆を置き、額を押さえた。
奥では咲璃が、日記を包む紙の湿気を見ている。理香は暖房費と保険料を確認し、みづきは保管棚の仮番号を貼り替えている。心暖は来客用の湯呑みを並べながら、なぜか司会練習のように「本日はお越しいただき」と呟いていた。
誰も遊んでいない。誰も手を抜いていない。
なのに、縁側堂は少しずつ呼吸が浅くなっていた。
来る人が増えるのは、うれしい。必要とされるのは、ありがたい。三月末までに利用実績を示すという意味でも、数字は悪くない。
それなのに、香織の胸の奥は、朝から細い糸で引っ張られているようだった。
「香織さん、この箱、どこに置きますか」
「棚の右から二番目に……いえ、彬子さんの封筒の横は避けて。写真の隣も違う。あの、少し待ってください」
「香織さん、午後の方、十分早く来てもいいかって」
「十分なら……いいです。でも、十一時の方が押したら」
「香織さん、理香さんが、記録票の言葉が情緒に寄りすぎって」
「後で見ます」
「香織さん、志龍さんからメントール菓子が届いてます。差し入れって書いてあります」
「なぜ菓子だけ先に来るんですか」
言いながら立ち上がった瞬間、床が少し傾いた。
いや、床は傾いていない。古民家だから多少の傾きはあるが、いま目の前が斜めになったのは、自分の方だ。
香織は柱に手をついた。指先が冷たい。息を吸うと、胸の奥で硬い紙がこすれるような感じがした。
「香織さん?」
萌の声が遠くなった。
次の瞬間、誰かが椅子を引く音がして、香織は無理やり座らされていた。
「倒れる前に座れたので、今日はぎりぎり勝ちです」
聞き慣れない基準を口にしたのは、達貴だった。
スポーツ整体師の彼は、いつの間にか玄関に立っていた。肩から大きな布バッグを下げ、片手にノートを持っている。予約の依頼人ではなく、様子を見に来ただけだと顔に書いてあった。
「勝ち、なんですか」
「倒れてから座るのは負けです。倒れる前に座るのは、まだ判断が残っている状態です」
達貴はそう言って、テーブルにノートを開いた。そこには、人間らしき丸と、建物らしき四角が描かれている。丸の横には「香織さん」、四角の横には「縁側堂」と書かれていた。
「何の図ですか」
「今の状況です」
「丸と四角で?」
「本当は筋肉も描きたいんですが、理香さんに『申請書に載せられない絵を増やさないで』と言われました」
「正しい判断です」
理香が淡々と言った。
達貴は気にせず、丸と四角のあいだに何本も線を引いた。
「人の悲しみを受け止める場所にも、休む時間がいります。ここは倉庫じゃない。香織さんも棚じゃない。全部を載せ続けたら、どちらかが先に歪みます」
「でも、予約が入っています」
「だから、半日だけ閉めます」
香織は反射的に首を振った。
「無理です。今、閉めたら、来ようとしてくれた人が」
「来ようとしてくれた人に、倒れかけた店主を見せる方が怖いです」
理香の声は鋭かった。
香織は言葉を失った。
春から、何度も「捨てなくてもいい」と言ってきた。急がなくていい、今日決めなくていい、置いていくだけでもいい。そう言いながら、自分だけは一度も置かなかった。疲れも、後悔も、怖さも、全部持ったまま立っていた。
閉めることは、負けだと思っていた。
必要とされなくなることが怖かった。三月末の期限に追いつけなくなることも怖かった。誰かの話を聞けなかった一回が、取り返しのつかない一回になるかもしれないと思うと、胸の中で祖母の日記の燃える音がした。
「香織さん」
咲璃がそっと湯呑みを置いた。
「紙も、湿ったまま触り続けると破れます。乾く時間を置くのは、放っておくことではありません」
その言葉は、香織の中にゆっくり沈んだ。
萌がすでに付箋を三色に分け始めている。
「今日の午後の予約者さんには、こちらから電話します。緊急ではない緊急の方は明日の午前へ。写真保存の方は、みづきさんが図書館の資料案内だけ先に送れます。相談内容が重い方には、澄麗さんの窓口も案内します」
「早いですね」
「怖いので、早く動いています」
萌は紙を握ったまま、少しだけ笑った。
「でも、香織さんが倒れる方がもっと怖いです」
心暖が湯呑みの列を見つめながら、小さく手を挙げた。
「わたし、張り紙を書きます。字は、司会台本より落ち着いて書きます」
「比較対象が不安ですが、お願いします」
香織が言うと、心暖は真剣な顔で筆ペンを握った。
のあは壁にもたれ、スマートフォンを見ていた。
「ブログには書かないでください」
「書かない。書くなら『休めない相談所ほど信用できない』って書く」
「それは書くんですか」
「褒めてるんだけど」
言い方が下手すぎて、香織は少し笑ってしまった。
笑うと、胸の奥の硬い紙がほんの少しだけゆるんだ。
午後一時、陽だまり縁側堂の玄関に、心暖の字で張り紙が出された。
本日は午後から休みます。
大切な話を、急いで雑に聞かないためです。
明日以降、順番にご連絡します。
最後の一文の横に、心暖がうっかり小さな花の絵を描いていた。理香がそれを見て、「公的文書ではありませんから」とだけ言った。許可の言葉だった。
香織は縁側に座った。外は晴れているのに、風は冷たい。座布団のへたりが、背中に妙にやさしかった。
閉めた途端、罪悪感が来ると思っていた。
けれど、最初に来たのは、静けさだった。
紙をめくる音も、電話の呼び出し音も、誰かが言葉を探す気配もない。縁側堂は空っぽになったのではなく、息を吸っているように見えた。
達貴がノートを閉じる。
「休む姿勢も、続けるための技術です」
「技術、ですか」
「はい。根性より長持ちします」
香織は湯呑みを両手で包んだ。
捨てるか、残すかだけではない。開けるか、閉めるかでもない。
大切に聞くために、今日は聞かない。
そんな選び方があることを、香織は初めて自分に許した。
夕方、志龍が遅れてやって来て、張り紙を読んだ後、なぜか玄関先にメントール菓子を一袋置いて帰ろうとした。
「休みの日の差し入れは、休みを邪魔しないのが礼儀かなと思って」
鈍いのか、鋭いのか。
香織は縁側から手を振った。
「今日は、そこに置いていってください」
「はい」
志龍はうれしそうに頷き、菓子を木札の横に置いた。
本日は休みます。
その張り紙の下で、銀色の包み紙だけが、冬の入口の光を受けて小さく光っていた。




