第22話 理香の期限
休みの札を出した翌朝、陽だまり縁側堂には、昨日より冷えた空気がたまっていた。
玄関の木札の下には、志龍が置いていったメントール菓子の袋がまだある。銀色の包み紙は、朝日を受けてきらきらしていたが、香織にはそれが「休んだ証拠」のようにも見えた。
後ろめたさを捨てる箱があれば、真っ先にそこへ放り込みたい。
けれど、そんな都合のいい箱は、陽だまり縁側堂のどの棚にもなかった。
「本日の議題は三つです」
理香は、打ち合わせ室の中央に茶封筒を三つ並べた。
白い机の上に置かれたそれは、日記の封筒よりずっと現実的で、情緒の入り込む隙間がない顔をしていた。
「一つ目、建物の安全。二つ目、保険。三つ目、三月末までの継続判断に必要な書類」
「朝から重いですね」
雄史がマントを肩に引っかけたまま言った。今日は伯爵の帽子をかぶっていない。帽子の代わりに、頭に寝癖がひとつ立っている。
「軽くすると事故になります」
理香は即答した。
雄史は胸に手を当てて大げさに倒れかけたが、萌が無言で椅子を引いたため、芝居の着地点を失って普通に座った。
「今のは、受け止められない種類の倒れ方でした」
「萌さん、舞台に厳しくなりましたね」
「予定外の転倒は議題にありません」
そのやり取りに、心暖が小さく笑った。けれど、理香の表情は動かなかった。
香織は湯呑みに手を添えた。
昨日休んだからといって、何かが解決したわけではない。むしろ、体を横にした分だけ、避けていた数字がくっきり見えるようになっていた。
理香が一つ目の茶封筒を開く。
中から出てきたのは、敬基が作った簡易点検の報告だった。柱、床、階段、縁側、雨漏り跡。赤い丸がついた箇所が、思ったより多い。
「二階は、当面、人数制限が必要です。階段は手すりの追加だけでは足りません。縁側も、見た目より床下が弱っています」
香織は、縁側の座布団を思い浮かべた。春から何度も人が座った場所。泣く人も、笑う人も、怒る人も、言葉をなくす人も、まずあそこに腰を下ろした。
「縁側は……使えなくなるんですか」
「今のままなら、いつか使えなくなります」
理香は言い切った。
言葉は冷たいのに、机に置かれた指先だけが少し白い。
「残すなら、残せるように変えます。けれど、変えるまでは使い方を絞る必要があります」
香織の胸の奥で、反論が立ち上がった。
この場所は縁側があってこそだ。そこに座って、誰かが物を置いて、急がず話す。二階の打ち合わせ室だけでは、陽だまり縁側堂ではなくなる。
そう言いかけた時、澄麗が静かに口を開いた。
「香織さんが今言いたいのは、『縁側を閉めたら、この場所らしさが消える』でしょうか」
香織は息をのんだ。
「……はい」
「理香さんが言っているのは、『縁側を使い続けるために、今の使い方を変えたい』ですね」
「そうです」
理香は短く答えた。
澄麗は、二人の言葉を同じ机の上へ並べるように、ゆっくり頷いた。
「閉めたい人と残したい人が争っているのではなく、残し方で意見がずれているのだと思います」
その言葉で、香織の肩から力が少し抜けた。
理香が二つ目の封筒を開く。保険の見積もりと、利用人数の記録と、過去の事故例の資料だった。紙の厚さが、そのまま不安の厚さに見えた。
「ここは相談所として動き始めています。来客が増えるほど、責任も増えます。善意で開けていました、では済みません」
「わかっています」
香織の声は少し硬くなった。
「わかっているなら、数字を見てください」
理香は厳しい。
けれど、突き放すために資料を出しているのではないことを、香織はもう知っていた。
夜に一人で申請書類を直していた背中。売れ残りパンの袋を開けずに、赤ペンを握っていた手。厳しい言葉の後ろには、いつも次の道があった。
「利用実績は足りていますか」
香織が尋ねると、萌がすぐに別の紙を出した。
「相談件数は足りています。ただし、記録の形式がばらばらです。心暖さんの司会メモが混じっています」
「えっ、役に立ってませんか」
「役には立っています。ただ、『本日も心をこめてどうぞ』は記録欄ではありません」
心暖は耳まで赤くなった。
「勢いで書きました」
「勢いは別紙へ」
萌が真顔で言うと、雄史が小声で「名台詞だ」と呟いた。
理香は三つ目の封筒を開いた。
そこには、三月末までの予定表が入っていた。十二月、耐震の再点検。一月、改修案の仮見積もり。二月、地域協同組合との相談。三月、継続判断。紙の上では、季節があまりにも早く過ぎていく。
「三月末までに、ここを続ける根拠を出します。根拠が出せなければ、閉鎖です」
閉鎖。
その二文字が、部屋の空気を一段冷やした。
咲璃が日記の保存箱に触れた。のあは窓際で腕を組み、何も言わない。鳩子は膝の上で端切れを丸めたりほどいたりしている。志龍は今日は来ていないのに、メントール菓子の銀色だけが玄関で光っている気がした。
「理香さんは、閉めたいんですか」
香織は、聞かない方がいい言葉だとわかっていても、聞いてしまった。
理香はすぐには答えなかった。
机の上の紙をそろえ、角をぴたりと合わせる。その仕草が、かえって迷いを隠しているように見えた。
「閉めたいわけではありません」
理香の声は、いつもより少し低かった。
「でも、事故で終わるくらいなら、私が嫌われてでも止めます」
香織は何も言えなかった。
「ここで誰かが怪我をしたら、みんな『あの時、無理をしてでも残さなければよかった』と言います。そうなったら、春井伯仁さんの封筒も、彬子さんの沈黙も、香織さんが作ってきた時間も、全部、事故の話に塗り替えられます」
理香は唇を結んだ。
「私は、それが嫌です」
怒っている声ではなかった。
泣いている声でもなかった。
ただ、何かを必死に踏みとどまらせている声だった。
香織は、春に初めて理香から期限を聞いた日のことを思い出した。使えない物は捨てればいい、と言いかけた自分。縁側に差していた光。あの時は、理香がただ現実を持ち込む人に見えた。
今は違う。
理香は、この場所に現実を置いていく人だった。重くて、固くて、見たくないものを、机の上に並べる。それを避けたままでは、大切なものほど簡単に壊れてしまうから。
「残したいです」
香織は言った。
声は震えたが、逃げなかった。
「でも、今のまま残したいわけじゃありません。残せる形に変えたいです」
理香が、ほんの少し目を伏せた。
「では、次の手順です」
「早いですね」
「泣かせるなら、最後まで聞きなさいと言ったのは私です。残すなら、最後まで書類を出しなさい」
香織は思わず笑った。
笑う場面ではなかったのに、笑ってしまった。心暖もつられて笑い、雄史が小さく拍手をし、萌が拍手の回数を三回で止めた。
理香は呆れた顔をしたが、頬の端が少しだけゆるんでいた。
その日の夕方、縁側には新しい札が置かれた。
縁側のご利用は、一組ずつ。
長く座りたい方は、予約時にお知らせください。
大切に残すため、少しずつ直しています。
最後の一行は、理香が書いた。
字は硬く、飾り気はない。けれど、香織にはそれが、今まで見たどの看板よりやさしく見えた。
閉じるための期限ではない。
続ける形を選び直すための期限。
香織はその札を木枠に差し込み、縁側の座布団を一枚だけ陽の当たる場所へ戻した。




