第23話 悲しみを売り物にしない
真奈美が持ってきた紙袋は、冬の朝に似合わないほど明るい黄色だった。
陽だまり縁側堂の打ち合わせ室へ入ってきた彼女は、いつものように髪をきちんとまとめ、襟元に小さな真珠のブローチをつけていた。紙袋だけが、まるで菓子店の福袋みたいに派手で、心暖が最初に目を輝かせた。
「差し入れですか」
「見本です」
真奈美はさらりと答えた。
心暖の肩が、見事に落ちた。
「見本も、心の差し入れです」
雄史が慰めるように言ったが、萌がすぐに手帳へ何かを書き込んだ。
「食べられない物を差し入れに数えるかは、次回話し合います」
「そこ、議題になります?」
「なります。心暖さんの期待値管理に関わります」
心暖は小さく「期待値……」と呟き、隅の椅子に座った。
真奈美は笑いをこらえながら、紙袋から冊子の見本を取り出した。A5判の薄い冊子が三種類。表紙には、縁側の写真、日記棚の写真、商店街の夕景が使われている。どれも整っていて、手に取った瞬間に「ちゃんとした物」だとわかる仕上がりだった。
香織は思わず背筋を伸ばした。
自分たちが日々あたふたしながら続けてきた時間が、紙の上ではこんなに静かに並ぶのかと思うと、不思議な気持ちになった。
「仮の見出しを三案作りました」
真奈美が表紙の上に付箋を置く。
一枚目には、こうあった。
泣ける商店街、陽だまり縁側堂。
のあが、窓際で即座に顔をしかめた。
「却下」
「早いですね」
「読まなくても嫌いです」
真奈美は眉を少し上げたが、怒らなかった。
「理由を聞いても?」
「泣けるって、誰が決めたんですか。こっちは泣くために来てるわけじゃないし、泣いた人を名物みたいに並べられるの、気持ち悪いです」
部屋が少し静かになった。
香織は表紙の写真を見た。縁側に置かれた座布団。光の中で、誰も座っていない。たしかに美しい写真だった。けれど、この座布団に座った人たちは、美しく泣くために来たわけではない。
割れたマグカップを抱えていた夏未。
日焼け止めと冷感ジェルを取り違えた心暖。
古い学生服をほどいた鳩子。
日記を置いて、指を離せなかった彬子。
どの人の話も、外から見て「泣ける」と飾られた瞬間、少し違う物になってしまう気がした。
「二案目です」
真奈美は付箋をめくった。
思い出を救う町。
今度は、咲璃が静かに首を傾げた。
「救う、でしょうか」
「違いますか」
「直した紙はあります。でも、救えなかったものもあります」
咲璃の声は穏やかだった。けれど、その一言で、香織の胸の奥に祖母の日記の重さが戻ってきた。
読まずに捨てた日記は、戻らない。
春井伯仁が出さなかった手紙も、出されなかったまま時間を越えてしまった。
救えた、と言い切るには、あまりにも取りこぼしたものが多い。
「三案目」
真奈美は慎重に次の付箋を置いた。
あなたの悲しみ、預かります。
「質屋みたい」
のあが言った。
「悲しみを担保にお金借りられそう」
雄史がすかさず立ち上がり、胸に手を当てた。
「いらっしゃいませ。こちら、涙一粒につき拍手三回でお預かりいたします」
「最悪です」
のあが即答した。
心暖が笑いをこらえきれずに吹き出し、萌が「拍手三回は前回の上限です」と真面目に訂正した。真奈美は今度こそ少し笑った。
けれど、笑いが落ち着くと、部屋にはまた別の沈黙が残った。
冊子にする。
形にする。
人に読まれる物にする。
その作業は、相談所を続けるためには必要かもしれない。三月末までに、利用実績も、地域にとっての意味も、外から見える形で出さなければならない。理香が言った期限は、感情だけでは越えられない。
けれど、見せるために誰かの沈黙を勝手に開いてしまえば、春井伯仁の封筒と同じ過ちになる。
香織は三つの見本を並べた。
「真奈美さん。冊子は、必要だと思います」
「はい」
「でも、この場所を『泣ける話が集まる場所』にはしたくありません」
真奈美は頷いた。反論ではなく、続きを待つ顔だった。
「ここに来る人は、泣きたいから来るんじゃなくて、捨てるかどうかを一人で決めきれないから来ます。笑ってごまかす人もいるし、怒って帰る人もいるし、何も言わずに座っているだけの人もいます」
香織は、窓の外の縁側を見た。
いまは一組ずつしか使えない座布団が、陽の当たる場所に一枚だけ置かれている。冬の光は薄いが、その薄さがかえって長く見えた。
「泣いた場面だけ抜き出すと、嘘になります」
「笑った場面だけでも、嘘になりますね」
真奈美が言った。
その言葉に、風歌が録音機を抱えて顔を上げた。学校帰りの制服の上に、鳩子が縫った小さな旗のブローチをつけている。
「あの、私の録音、使えませんか」
「録音?」
「嘘の実話祭りの時のです。笑い声とか、パンの袋を開ける音とか、オフィスチェアが変な音立てたところとか」
「そこ、必要?」
のあが眉を寄せる。
「必要です」
風歌は珍しく即答した。
「泣いてる声だけだと、重くなりすぎるし、きれいになりすぎる気がします。ここ、けっこう変な音が多いんです。雅道さんが顔パックの袋を開ける音とか、志龍さんのメントール菓子の包み紙とか、雄史さんのマントが棚に引っかかった音とか」
「最後のは事故音だ」
雄史が胸を押さえた。
「でも、そういう音があるから、沈黙も怖くなりすぎないんです」
風歌は録音機を両手で持ち直した。
「彬子さんが話せなくなったところも録れています。でも、そこだけ載せたくないです。その前にみんなが笑っていたことも、その後に誰も急かさなかったことも、一緒に残したいです」
香織は、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
風歌は、ただ記録係をしていたわけではなかった。場の温度を、音で覚えていたのだ。
真奈美は、三冊の見本を閉じた。
「わかりました。泣かせる見出しはやめます」
「売れなくなりませんか」
心暖が心配そうに尋ねる。
真奈美は少し考えた後、はっきり言った。
「売るために傷つけたら、次の冊子は作れません」
その言い方には、編集者としての計算も、誠実さも、両方あった。
のあが窓際から机へ近づいた。
「見出し、私も考えていいですか」
「辛口で?」
「普通に」
のあは真顔で言い、付箋を一枚取った。ペン先をしばらく止めた後、乱暴な字で書く。
捨てる前に、座る場所。
誰もすぐには何も言わなかった。
派手さはない。泣ける、とも、救う、とも、預かる、とも言っていない。
ただ、座る。
その言葉だけが、陽だまり縁側堂の縁側に置かれた一枚の座布団と、ぴたりと重なった。
「……いいですね」
咲璃が静かに言った。
「地味ですけど」
のあはそっぽを向く。
「地味なくらいが、ここには合います」
真奈美が付箋を見本の表紙に貼った。
「冊子名は、これで作り直します。中身は、許可を取れた品物だけ。名前は本人の希望に合わせる。沈黙した場面は、勝手に言葉で埋めない。写真は、物と手元を中心にする。顔は必要な場合だけ」
「顔パックの顔は?」
心暖がつい聞いた。
その瞬間、雅道が入口から現れた。なぜか片頬だけ白い。
「呼んだ?」
「呼んでません!」
心暖が椅子から半分立ち上がる。
雅道は平然と紙袋をのぞき込んだ。
「私の顔パック写真は、照明次第で使用可。半顔は不可。左右の情報量が不公平だから」
「そういう問題じゃありません」
香織が言うと、部屋のあちこちから笑いがこぼれた。
真奈美は新しいノートを開き、表紙に大きく書いた。
捨てる前に、座る場所
香織は、その文字を見つめた。
悲しみを売り物にしない。
笑いを飾りにしない。
沈黙を空白扱いしない。
その三つを守れた時、この冊子は初めて、陽だまり縁側堂の一部になれるのだと思った。
夕方、真奈美が帰った後、のあは見本の一冊を手に取った。
「まだ嫌いなところ、いっぱいあります」
「直します」
香織が言うと、のあは少しだけ口元をゆるめた。
「じゃあ、また文句言いに来ます」
「助かります」
「文句なのに?」
「文句の中に、直す場所が入っているので」
のあは何か言い返そうとして、やめた。代わりに、付箋をもう一枚貼る。
そこには、小さくこう書かれていた。
泣けなくても、来ていい。
香織はその付箋を、そっと表紙の裏に移した。
外には、冬の夕方が来ていた。縁側の座布団は一枚だけ。けれど、その一枚の余白が、前より少し広く見えた。




