第24話 亜耶の未投函箱
亜耶が陽だまり縁側堂に持ち込んだ箱は、拍子抜けするほど普通だった。
文具店の包装紙で包まれた、靴箱ほどの紙箱。角は少しへこみ、蓋には紺色のリボンが二重にかかっている。華やかではないが、雑に置くと叱られそうな気配だけはあった。
「重いです」
萌が両手で受け取って、思わず眉を寄せた。
「便箋って、こんなに重くなるんですね」
「言葉はたまると重いんです」
亜耶は涼しい顔で言った。
雄史が胸に手を当てる。
「今の、舞台で言いたい」
「一文字五十円です」
「商売が早い」
「文具店員なので」
縁側堂は半日休みの札を出していたが、相談所の奥の部屋には香織、咲璃、理香、萌、亜耶が集まっていた。真奈美の冊子案は作り直しに入った。風歌は録音の整理で来られず、のあは「直したら読む」とだけ書いた付箋を残して帰った。
机の中央には、春井伯仁の封筒が置かれている。
触れるたびに、紙の乾いた音がする。
その音を聞くだけで、香織は胸の奥に細い針が入るような気がした。
「これを見て、思い出したんです」
亜耶は持ってきた箱のリボンをほどいた。
「うちの店にも、出されなかった手紙があるなって」
蓋が開くと、便箋の匂いがふわりと立った。古い紙の匂いだけではない。わずかにインクと、店の棚に染みついた木の匂いが混じっている。
中には、封筒が何十通も重なっていた。宛名のあるもの。宛名のないもの。切手だけ貼られたもの。封をしていないもの。封をしたまま、角に小さく日付だけ書かれたもの。
「これ、全部お客さんのですか」
理香の声が硬くなる。
「預かり期限つきです。店の帳面に持ち主と日付を書いてあります。勝手に開けません。期限が来たら、出すか、返すか、本人に選んでもらいます」
「返事が来ないのが怖くて出せない手紙、ですか」
咲璃が尋ねる。
亜耶は少しだけ笑った。
「それもあります。謝る手紙、ありがとうの手紙、結婚式に呼ばれなかった友人へ書いた手紙、亡くなった人へ書いた手紙。送れない理由は、それぞれ違います」
香織は箱の中をのぞいた。
白、薄桃、若草色、水色。便箋の色は優しいのに、積もった重さはまったく優しくない。
「亜耶さんは、見切りが早い人だと思っていました」
香織が言うと、亜耶は肩をすくめた。
「早いですよ。売れないペンは場所を変えますし、使いにくい封筒は仕入れ数を減らしますし、迷っているお客さんには別の紙を出します」
「でも、これは置いておくんですね」
「返事が来ない怖さは、急かしても消えませんから」
亜耶の指が、箱の端にある薄茶色の封筒に触れた。
「昔、一度だけ、出すべきだと思って背中を押しすぎたことがあります」
部屋の空気が少し沈んだ。
「相手から返事は来ませんでした。出した人は、返事が来ないことより、自分の覚悟ができていないまま出してしまったことを悔やんでいました。私は、その時に初めて知りました。手紙は、投函すれば終わりじゃないんです」
香織は、春井伯仁の封筒へ視線を戻した。
出されなかった手紙。
出さなかった理由。
出されなかったことで守られたもの。
出されなかったことで傷ついたもの。
どちらも、同じ封筒の中に入っている。
「春井さんの手紙も、これに似ています」
亜耶は伯仁の封筒を手に取らず、横から眺めた。
「紙も、封の折り方も、文具店で一度相談してから選んだ人の手つきです。迷った人の折り方をしています」
「折り方で、そんなことまでわかるんですか」
萌が目を丸くする。
「わかるというより、癖が出るんです。すぐ送る人は、封をまっすぐ折ります。何度も迷う人は、角に薄い折り直しの跡が残ります」
咲璃が小さく頷いた。
「紙も、直す人の指の迷いが残ります」
「ほら、専門家が怖い」
亜耶が言うと、咲璃は真面目な顔で「亜耶さんも怖いです」と返した。
理香が咳払いをしたが、口元は少しだけ緩んでいた。
香織は、笑いかけて、すぐに唇を引き結んだ。
彬子はまだ縁側堂へ来ていない。春井伯仁の封筒を前に、彬子が帰った日から、彬子の湯飲みは棚の端に伏せられたままだ。春井伯仁の封筒はここにある。けれど、それをどう渡すかは、誰も決められずにいた。
「亜耶さん」
香織は両手を膝に置いた。
「彬子さんに、手紙を渡す言葉を一緒に考えてほしいです」
亜耶はすぐに返事をしなかった。
いつものように軽く「いいですよ」とは言わない。箱の中の封筒を一通ずつ揃えながら、慎重に息を吐いた。
「渡す、という言葉がもう強いかもしれません」
「強い?」
「はい。彬子さんに必要なのは、渡されることではなく、選べることだと思います」
香織は言葉を失った。
理香が机の端のメモ用紙を引き寄せる。
「選択肢を先に整理しましょう。読む。読まない。誰かに読んでもらう。封をしたまま預ける。持ち帰る。ここで保管する」
「燃やす、は?」
萌が恐る恐る言う。
香織の胸が小さく跳ねた。
けれど、亜耶は頷いた。
「それも選択肢です。ただ、今すぐではなく、日を置いてから選べるようにしたいです」
咲璃は薄い和紙を取り出した。
「手紙を傷めない包み方ならできます。封を開ける場合も、元の形に戻せるように記録を残します」
「記録は必要。でも、内容の記録は本人の許可が出るまで残さない」
理香が続ける。
「はい」
香織は頷いた。
「内容を見たいのは、私たちの都合です。彬子さんの都合じゃない」
その言葉を口にして、香織は自分の声が少し震えていることに気づいた。
祖母の日記を捨てた時、自分は読まないことを選んだつもりだった。けれど、本当に選んだのは祖母ではない。自分だった。
戻らない後悔が、机の下で足首に絡む。
亜耶は便箋を三枚選んだ。白、薄い灰色、淡い藤色。
「彬子さんへ渡す紙は、このあたりでしょうか。甘すぎる色は違う気がします」
「手紙を書くんですか」
「説明を書きます。感動的な文章ではなく、選択肢の紙です」
亜耶はペンを持った。
紙の上に、短い言葉を置いていく。
ここに、春井伯仁さんが残した封筒があります。
読むかどうかは、彬子さんが決められます。
今日決めなくてもかまいません。
亜耶はそこで手を止めた。
「かまいません、だと少し上からですね」
「大丈夫です、は?」
萌が言う。
「それも慰めっぽい」
理香が腕を組む。
咲璃がしばらく考えた後、静かに言った。
「今日決めなくても、封筒はここにあります」
亜耶はその言葉を、丁寧に書き直した。
今日決めなくても、封筒はここにあります。
香織は、その一文を見つめた。
急がせない。
慰めで包みすぎない。
逃げ道ではなく、座る場所を用意する。
それは、陽だまり縁側堂がやっと覚え始めた言葉だった。
夕方、亜耶は未投函箱の蓋を閉じた。
「この箱、置いていきます」
「いいんですか」
「彬子さんに見せてもいいです。手紙は、出すだけが答えじゃないと伝わるなら」
香織は箱を両手で受け取った。
重い。
けれど、その重さは、誰かを押しつぶすためではなく、ここに置いておくための重さだった。
縁側に出ると、冬の日はもう傾いていた。
座布団の上に、細長い影が伸びている。
香織は、春井伯仁の封筒を包んだ和紙と、亜耶の選択肢の紙を並べて置いた。
まだ渡さない。
まだ読まない。
でも、隠さない。
その三つの間に、誰かが座れるだけの余白があった。




