第25話 今度生まれ変わっても好きになる
彬子が陽だまり縁側堂へ戻ってきたのは、年の瀬の匂いが商店街に混じり始めた昼下がりだった。
軒先の小さな布旗が、冬の風でかすかに鳴っている。香織は棚の前に立ち、和紙に包まれた封筒を見つめていた。春井伯仁の封筒。亜耶が整えた選択肢の紙。咲璃が用意した白い手袋。理香が作った閲覧記録。どれも淡々とした道具なのに、机に並べると、息の仕方まで慎重になる。
「緊張してます?」
心暖がほうじ茶の盆を持って入ってきた。声が少し上ずっている。
「心暖さんのほうが緊張していませんか」
「してます。お茶、熱すぎませんか。湯飲み、これで大丈夫ですか」
「一つずつ聞かれると、全部不安になります」
「すみません!」
湯飲みがかちんと鳴った。奥で紙を整えていた咲璃が、やわらかく顔を上げる。
「少し音があるほうが、かえって息がしやすいです」
香織は、手紙の包みをほんの少しだけ手前へ寄せた。渡すためではない。押しつけるためでもない。彬子が座った時、目の届くところにあるようにするだけだ。
「そこ、三ミリ動かしても結果は変わらないと思う」
入口から理香が言った。手には閲覧手順の紙がある。内容を読む前に本人の意思を確認すること。途中で止められること。読まないまま預け直せること。感動的な言葉ではない。けれど、逃げ道がある。その逃げ道が、今日いちばん大事だった。
戸が鳴った。
香織が玄関へ出ると、彬子は薄い灰色のコートで立っていた。首元には淡い藤色のマフラー。手には何も持っていない。代わりに、湯飲みを握る時のように両手を胸の前で重ねている。
「こんにちは」
「寒い中、ありがとうございます」
「寒いほうが、歩きやすい日もありますね。暑いと、言い訳が増えますから」
彬子は小さく笑った。香織は何も飾らず、戸を大きく開けた。
今日は必要な人数だけにしていた。咲璃、亜耶、理香、萌、心暖。そして香織。雄史は向かいの店先で待機のはずだったが、窓の外を黒いマントの端が横切ったので、完全には守れていない。
彬子はそれに気づき、ふっと息を漏らした。
「春井さんも、ああいう人が近くにいたら、噂に困らなかったかもしれませんね」
その一言で、部屋の空気が少し揺れた。
心暖がほうじ茶を置く。
「彬子さん、どうぞ」
声は震えていたが、名前はきちんと先に出た。彬子は湯飲みに両手を添え、「ありがとう」と言った。
香織は和紙の包みを見た。ここから先は、急がない。
「彬子さん。ここに、春井伯仁さんが残した封筒があります。中には、切り取られた日記のページと、手紙があります。読むかどうかは、彬子さんが決められます。今日決めなくても、ここにあります」
彬子の指が、湯飲みの側面で止まった。湯気が眼鏡の端を少し曇らせる。
亜耶が紙を差し出した。
「声に出して読むこともできます。彬子さんがご自分で読むこともできます。途中で閉じてもいいです。包みを見るだけでもいいです」
長い沈黙が落ちた。
外で、風歌が誰かに「今日は録音しないって言われてるから」と小声で説明している。たぶん雄史にだ。続いて、「我は歴史的瞬間の空気だけでも」と聞こえ、理香が無言で立ち上がった。
彬子が、くすりと笑った。
「読ませてください」
咲璃が手袋を差し出し、亜耶が封筒の向きを整えた。香織は彬子の前に包みを置く。
古い便箋は、端が黄ばみ、折り目だけが細く白くなっていた。彬子はゆっくり文字を追った。写真の中の作り笑いとは違う。笑っていない。泣いてもいない。ただ、一つずつ、昔の言葉を受け取っている顔だった。
途中で、唇がわずかに動いた。
「今度生まれ変わっても好きになる」
声に出たのは、その一文だけだった。
春井伯仁は、彬子の幸せを壊さないと書いていた。いまの暮らしを奪うために言うのではなく、言わないまま置いていくために書いたのだと、古い文字は伝えていた。
好きだったから身を引いた。そう言えば、綺麗に聞こえる。けれど、その綺麗さだけで片づけた瞬間、今ここで湯飲みを握っている彬子の時間が置き去りになる。
春井伯仁は何も奪わなかったのかもしれない。けれど、何も残さなかったわけでもない。出さなかった言葉も、人を傷つけることがある。
読み終えた彬子は、便箋を膝の上に置いた。
「怒ればいいのかしら」
誰も答えなかった。
「許せばいいのかしら。ありがとうと言えばいいのかしら。若い頃の私に、あなたは愛されていたのよ、と言ってやればいいのかしら」
理香が膝の上の書類を強く押さえている。咲璃は目を伏せ、亜耶はペンを持たない手で自分の指を握っていた。
彬子は長く息を吐いた。
「どれも、今日は違いますね」
「はい」
香織の返事は短かった。慰めでも、解説でもない。ただ、彬子の言葉をそのまま置くための返事だった。
「持って帰ることはできますか」
「できます」
理香がすぐに答える。
「保管用の包みも、持ち帰り記録もあります。ここに預けたままでも大丈夫です」
彬子は香織を見た。
「あなたは、前ならすぐに処分できますと言ったでしょうね」
「言いました。でも今は、処分することも残すことも、私が急がせていいものではないと思っています。私も、まだ途中なので」
彬子は、ふっと目元を緩めた。
「途中なら、いいですね。終わった人より、話しやすい」
香織は不意に泣きそうになった。けれど泣かなかった。ここで泣けば、彬子の沈黙を自分の感情で包んでしまう気がした。
亜耶が薄い藤色の便箋を一枚差し出す。
「何か書きたくなった時のために。返事でも、返事ではないものでも、白紙のままでも」
「商売上手ね」
「白紙を見るだけなら無料です」
彬子は今度こそ、少し声を立てて笑った。
手紙は、今日は縁側堂に預け直されることになった。咲璃が和紙で包み、理香が記録に書き、亜耶が藤色の便箋をその上へそっと載せる。
「返事を書くかどうかは、まだわかりません」
「書かないままでもいいと思います」
亜耶が言った。
「書かないことと、なかったことにすることは違いますから」
彬子は静かに頷いた。
帰り際、玄関で待っていた雄史が、マントを脱いだ状態で深々と一礼した。
「本日は、民衆代表として、お帰りの安全を祈るのみです」
「その言い方だと、少し危険な道みたいですね」
「人生とは、常に危険な道であります」
「それは春井さんより危険ね」
雄史は胸を押さえ、見事に傷ついた顔をした。彬子は冬の商店街へ出ていく。その背中は軽くなったようにも、重くなったようにも見えた。香織には、どちらなのか決められなかった。
部屋へ戻ると、机の上には湯飲みの跡が丸く残っていた。棚には古い手紙が戻り、その上で藤色の便箋が静かに眠っている。
許すとも、責めるとも言わないまま残る言葉がある。
捨てられないから尊いのではない。捨てれば楽になるとも限らない。
ただ、今日決めなくても、ここにある。
香織は棚の扉を閉めず、少しだけ開けておいた。冬の薄い光が、隙間から封筒の端に触れていた。




