一枚の肖像画があった。
一枚の肖像画があった。
長い間使われた形跡のない暖炉の上に、かけられている。
描かれているのは、椅子に座ってはにかんだ若い女性だ。
長い黒髪を襟足でまとめて縛っただけの、シンプルな髪型。
年の頃は、10代後半から20代といったところか。
……これ、が?
「ああ……見るたびに懐かしくなるな」
ガレオ王が、それを見つめながらうっとりとした声で言った。
「これが、そなたにぜひ見せたかったもの……いや、会わせたかった、というべきか」
「……このお方は、ご令嬢ですか? それともご夫人ですか?」
「どちらでもない。余にとって、心の拠り所となった者。支えになってくれた者だ」
妻でも娘でもない、心の拠り所となった人?
ガレオ王は、肖像画を見上げながら遠い目をしていた。
「30年前……余は様々な不幸に見舞われていた。
盟友スコルティウスの死。
愛する我が息子の死。
……大事な者を、ほぼ同時期に失ったのだ。
フェブルの言うことによく考えもせずうなずき、サインをしていたような覚えもある」
そこで、ガレオ王がうつむき、唇を噛んで拳を握った。
……と、思ったら、ふっと力を抜き、口角をわずかに上げた。
「そんなときだ。この者が、私の目の前に現れたのは」
「……現れた」
「ああ。まさしく、どこかから飛ばされてきたかのように、突然の出来事だった」
突然現れた、正体不明の女性。
……妙だな。なにか、違和感がする。
「この者は、余が何者かわかっていなかったようでな。
しょげていた余を見かねて、ずいぶん強い言葉をかけてよこしたのだ」
「……気が強いお方だったのですか」
「それもあるやもしれん。
だが、あのときはむしろ……余が弱りすぎていたせいだろうな。
見るにたえないほどだったのだろう。
いい加減たまりかねて、『余を何者と心得る!』と、怒鳴りかえしたときには、『元気になってなにより』などと言って笑っておった」
ガレオ王は、さも愉快とばかりに笑っていた。
……なるほど。
ガレオ王が領主様だと知ったときにどうなったか、想像するのは難しくない。
ひとしきり笑ったガレオ王は、また懐かしむように細めた目で、肖像画を見た。
「……この者の存在が、余の心を癒してくれたのだ。
今までひと時も、忘れたことはなかった」
肖像画から、僕へと視線を移動させた。
「そなたと初めて会って言葉を交わしたとき、どこか懐かしい気持ちになったのだ。
ずっと不思議に思っていたが……やっとわかった。
そなたは、この者――『カオリ』によく似ておる」
「……僕が、ですか?」
……そうか?
顔はあまり似ているとは思えない。そもそも性別が違う。
雰囲気が、という意味の可能性が高いか。
「カオリ様、とおっしゃるのですね」
「ああ。サトウ・カオリと名乗っておった」
……日本人?
だとすれば、よくある名前だ。手がかりは得られそうにない。
でも……なぜだ?
さっきから感じるこの違和感は、なんだ?
「顔は、見てのとおりあまり似ていないだろう。
余が感じたのは、そなたのその理路整然とした喋り方だ。
弱音を吐く余の言葉を、端から論破していったカオリの話し方と、よく似ておる」
「……喋り方、ですか」
うむ、とガレオ王は満足そうにうなずいた。
……突然現れた。
名前は、サトウ・カオリ。
喋り方が僕と似ている。
……なにか、ひっかかる。
「その女性の特徴で、他に覚えていらっしゃることはなにかありませんか?」
「そうだな……ああ。あれだ。ほら、見てのとおりだ」
ガレオ王が、指をさした。
その先、肖像画の女性の口元付近を見る。
小さな黒い……痣、か?
「カオリは、よくあのホクロを気にしておった。
『それもそなたの個性ではないか』と言ったら……『嬉しくない』と怒られてしまってなぁ」
ガレオ王の言うとおり、女性のあごの右あたりに、黒い大きめの点があった。
痣ではなく、ホクロだったか。
「カオリを絵に残したいと言ったときもな。
それ自体は快く承諾してくれたのだが……このホクロだけは絶対描き入れないように、などと何度も念を押しておった。
だからあれは、カオリが余の前から姿を消した後に描き入れさせたものだ。
余にとっては、一目でわかる大事な証であったからな」
ガレオ王の言葉を、ぼんやりとした頭で聞いていた。
肩の上のあんこが、なぜかそわそわしているのもどうでもいいほどに、僕は唖然としていた。
あごにホクロがある女性、サトウ・カオリ。
『はぁ……ほんっとうに、嫌なのよねぇ。このホクロ』
ある女性が、鏡を見ながらあごのホクロを困った顔でなでている。
それは、僕が子どもの頃によく見かけたもの。
……まちがいない。
サトウ・カオリ。
それは――僕の母さんだ。
佐藤とは、紛れもなく母が結婚する前の旧姓。
もちろん、下の名前も一致している。
……そんなことが、あるのか。
母さんが、独身時代にこの世界にきていたなんて。
そして、どうにかして元の世界に戻っていた、なんて。
最初に会ったのは、幸か不幸かガレオ王だった、なんて。
「……姿を消した、とおっしゃいましたが」
「ああ。そのときも突然でな。
元いたところに戻ったのか、また別の場所に行ったのか……なにもわからぬままだ。
今もどこかで幸せに暮らしているのなら、それでかまわぬが」
ガレオ王が、すこしだけ悲しげに、眉を垂らして絵を見つめた。
……脳裏に、この世界に来る前に遭った事故の光景が、浮かぶ。
「だが、まぁ……カオリと似たそなたに会えたのは、嬉しく思っておるぞ。
なんの関係もない赤の他人であろうが……長く生きていれば、このような出会いにも恵まれるものなのだな」
「…………」
僕は、なに一つまともな答えを持ちあわせていなかった。
◇◇◇
ガレオ王との二度目の謁見を終えて、帰宅した。
護衛役の輝一さんからいくつか質問があったけれど、なんて返したのかは覚えていない。
ぼんやりした頭のまま着替えをして、おぼつかない足取りで、縁側に沈みこむように座る。
肩から下りたあんこが、僕の様子が気になってか、顔をのぞきこんできた。
が、すぐに縁側から外に下りて、庭の中をちょこちょこ歩きまわりだした。
その様子を、またしてもぼんやりと眺める。
……母さんが、この世界にきていた。
名前。特徴的な位置にあるホクロ。
それだけで、確定したと言えるほどの証拠になる。
こんな偶然は、あるのか?
母子そろって、同じくらいの年に、同じ異世界に行くなんて。
……確率的には、ありえない。
なにか、大きな理由があるはずだ……けど。
その先の考えが、まとまらない。
疲れが出たのか、なぜか頭が回らなかった。
「風。どうした?」
輝一さんの声。
左をむくと、すぐそこに輝一さんが立っていた。
……いつの間に。
足音、全然気づかなかった。
「……お疲れ様です」
「いや、私はほとんどなにもしていない。
今回は、前回のように襲撃されるようなこともなかったしな」
「……報告は」
「ああ。今しがた局長に」
「……こちらからするべきところを、申し訳ありません」
「気にするな。
お前は、ずっと気を張っていたのだろう? 疲れているのではないか?」
輝一さんが、横に座りながら顔をのぞきこんでくる。
……気など、まったくと言っていいほど張っていなかった。
けれど、現在進行形でひどい疲労感に襲われているところだ。
「……なぁ、風」
「……はい」
「私はこのところ、よく考えるのだ。お前がここに来たばかりの頃のことを」
「……なぜですか」
なぜ今、そんな話を?
「わからない。
ただ、あの頃は……まさかお前と、こんな仲になるとはまったく思わなかったな、と」
「……じゃあ、どう思っていらしたのですか」
「胡散臭い奴だとしか思わなかった。
お前をこの家に住むように勧めたのも、得体がしれないと怪しんでいたからだ。
副長として、見張っておかねばならないと。
……家族を失ったらしいのに、涙一つも流さない。
この者には情というものがないのかと、不思議に思っていたのだ」
「…………」
「……あっ!?」
庭で遊んでいたあんこが、小さな池の中へ足を滑らせて、落ちた。
輝一さんが慌てて駆けより、引きあげる。
ずぶぬれで、ひどい目に遭ったといわんばかりにしょげている、あんこ。
……タコなのに、水は苦手だったのか?
いや……あれは、タコに似ただけの別物だからか。
輝一さんは、そんなあんこを池から離れた木のそばに置いて、また戻ってきた。
「ふう……ああ。それでな。さっき言った、お前を胡散臭いと思っていた件。
あれはまちがいだったと、だんだんと理解していったのだ。
双甘大試で、養田殿と組んだときも。
姉上と義兄上との件でも。
……情がないなど、ありえない。すくなくとも、風にかぎってはそうだと言えると」
「…………」
……違和感。
「……どうしましたか」
「なにがだ?」
「急にそんなことを言うなんて……腹の調子でも悪いのですか」
「なっ!? なんでそうなる!?」
輝一さんは、ぎょっとして立ちあがった。
しかし、なにもないわけではない様子で、頬をかきながら目を泳がせていた。
「……なぜそう目ざといんだ」
「……なぜと言われましても」
あなたが、わかりやすく変な行動ばかりしているからだ。
「実は……姉上に言われてな。風に、ちゃんとお礼はしているのかと」
「……お礼」
「ああ。今までたくさん助けてもらった礼だ。
ちゃんと言葉で表さなければ、伝わらないのだから、と」
輝一さんは、僕のほうをむいて正座した。
「感謝する。本当に、風と会えてよかった」
膝に手を置き、頭を下げた。
それを、ぼんやりとした頭のまま、しばらく見つめる。
「……それは、フラグになりかねません」
「ふらぐ?」
頭を上げた輝一さんが、不思議そうに首を傾げた。
「悪い意味でのゲン担ぎ……いえ、違いますね。
悪いことが起こる前兆、でもなく……悪いことを引きよせてしまう言動や行動のこと、ですかね……」
「……風?」
怪しむように眉を寄せた輝一さんが、手をのばして額に触れてくる。
瞬間、はっと目を見開いた。
「おい! 熱があるじゃないか!」
「……ありません」
「ある! 待っていろ、すぐ布団を敷いてくる!
あとそうだ、姉上と宇井川先生にも……!」
どたどたと、慌ただしく廊下を走っていく音がした。
……たしかに、頭はぼんやりするし、目の前も若干かすんできた。
なるほど、熱があったのか。なら納得だ。
おそらくこれは、疲れからくるものだと思われる。
……そこで、だれかが触れてくるような感触がした。
あんこだった。
膝の上によじのぼってきて、僕の顔をのぞきこんでいる。
一本の触手をひょっとこ口に添えて、「あらまぁ」といわんばかりのポーズ。
……何なんだ。
そう思ってまもなく――意識を失った。




