今まで食べた甘味が、脳裏をよぎる。
今まで食べた甘味が、脳裏をよぎる。
……しばらくは、控えなければ。
収入が見込めない今は。
ゆっくり歩きながら考えていると、あっという間についた。
糖明神殿に続く階段。
「……帰れ」
甘味はしばらくお預けだ。
ひもじい思いをしたくないのなら、元いた場所に帰るのが得策。
しかし……あんこは、ぴくりとも動かなかった。
頭をつまんで何度か引っ張ったが、僕の首元に吸盤でぴったりくっついていて離れない。
……連れていくしかないか。
ため息をついて、また歩きだした。
しばらくは野宿。衛生面を考慮した上で、雨風をしのげれば問題ない。
出国して別の国に行くのも手だが、簡単に出られるのか怪しい。
以前、大福さんにもらった地図を見ながら、東の森を目指す。
あそこから、飲み屋街につながっている路地がある。
かつて炭焼き職人が使っていた通路だったと、以前みたらし団子さんが言っていたところだ。
ならば、職人用の小屋がどこかに残っていても、おかしくはない。
人通りのすくない道を選びながら歩いて――森の手前、町はずれまでやってきた。
「……?」
ふと見上げた先に、なにかの建物があるのが見えた。
興味をそそられて、そちらへむかう。
敷地内は、雑草が生い茂っていて荒れ放題だった。
当然、人気はない。
建物は、寺の本堂のような造りになっていた。
木造。屋根瓦はまだ残っている。
障子があちこち破れていて、かなり汚れている。
まさしく廃墟だった。
……ここは、さすがに住むにはふさわしくないな。
踵を返した――直後。
ぽつっと雨粒が落ちてきて、やがて降りだした。
条件反射で、その建物の屋根の下に入る。
まもなく、傘があっても外に出るのは危険なほどの強い降り方になってしまった。
不運……いや。
森に入ったあとではなく、建物を見つけたあとだったので、むしろ幸運だ。
空には、分厚い黒い雲。
当分やみそうにない。
「人か?」
背後から、だれかの声。
肩の上のあんこが、びくりと体を震わせて、襟の中へ入る。
振りかえった先――ボロボロの障子のむこう側に、なにか動くものがいた。
「珍しいなぁ……こんなところに客人か?」
とたとた、と歩みよってくる、その人。
障子に、手がのびた。
ガラッと開いたその先にいたのは……
なんとも、みすぼらしい格好の人物。
顔には無精ひげ。
着物は、ツギハギだらけ。
しかし、なぜか髪だけは違った。
刈りあげスタイルで、もみあげもきちんと整えられている。左右非対称で若干いびつ。
……髪は気にするのか。妙な人だ。
「雨宿りか?」
観察するような目をむけられながら聞かれ、うなずいた。
「……ここは、なんの建物ですか?」
「旧糖明神殿跡地だよ。今のとこに移転したあと、ほったらかしになっちまってんだ」
刈りあげ頭の彼は、胸元に手を入れてぼりぼりかきながら答えた。
……なるほど。
それなら、寺のような造りなのも納得できる。
上をむいていたその人の目が、再びこちらをむいた。
「お前、よそ者じゃねぇな?」
「……なぜそう思うのですか」
「糖明神殿の名を、知ってるんだろ?」
そう言いながら、僕の左側に座った。
「迷子か? それとも、逃亡者か?」
「……どちらかといえば、後者です」
「どちらかといえば?」
「追いだされたので」
刈りあげ頭の人は、「ほぉん?」と言って、あぐらの上に肘をついた。
こちらを興味深そうに見つめている。
「わけありってことか……まぁ、そういう俺もだけどよ」
ニヤリと不敵に笑う。
しかし、襟の中からゆっくり顔を出したあんこを見ると、目を丸くして手をのばしてきた。
「なんだ、そりゃ」
頭をつまみ、引っ張っている。
あんこは、吸盤を駆使して離れないようにしている。
加えて、男の手を触手で叩いて、「離せ」とばかりに抵抗していた。
「生き物か? おもしれぇな、こりゃ!」
あんこから手を離しつつも、なおもニヤニヤしながら見つめている。
「奇妙な生き物を連れた浮浪者か……退屈しのぎにはいいかもな。お前、名は?」
「……蜜森風です。こいつは、あんこ」
「餡子? 全然違うじゃねぇか。
蜜森……も、聞かねぇ名だな。どこの家のもんだ?」
「どこかに仕えていたわけではありません。預かりの身だったので」
「預かり……? だれの」
「粕谷輝一さんです」
「粕谷ぁ? ウソつけ。あの家はだいぶ前に途絶えたはずだろ」
ニヤニヤした男の顔が、次第に不審者を見るような、険しいものになっていく。
……輝一さんを知らない?
甘誠組の副長たる彼を。
この人は、それより前からここに住んでいる?
だとすると、30年近く前から、ということになる。
「……輝一さんは移住者で、その途絶えた粕谷の名を受け継いだお方です」
「はぁ?」
「甘誠組の副長をやられているお方なので、調べていただければすぐにわかるかと」
男が、びくりと体を震わせた。
そして、目をそらす。
……今、「甘誠組」に反応したな。
罪人、または前科者の可能性が出てきた。
「……なるほど。よくわかった」
刈りあげの男は、大きくため息をついてから、その場に横になった。
「はぁ。世間に疎くて困るなぁ……いや、別に困りはしねぇんだけどよ」
「……それで、あなたは?」
「俺か? 俺は……」
そこで彼は言葉を切って、尻のあたりをぼりぼりかいた。
「……人に名乗るなんざ、久しぶりだな。名乗りたくねぇなぁ……」
「……では、勝手に呼ばせていただきます」
「おう、そうしろ。好きに呼べ」
「刈りあげ頭さん」
「……ふざけてんのか」
「勝手に呼べと言ったのはあなたです」
「やめろ。好きでこんな頭にしてるわけじゃねぇんだよ。失敗したんだよ、察しろ」
彼は、口元をひくひくさせながら起きあがり、にらみつけてきた。
……感情が豊かな人だ。
その人は舌打ちをして、また横になった。
「……笑いやがったら、承知しねぇぞ。俺は……金田椿っていうもんだ」
「……金田、椿」
男性に花の名前とは、洒落ているな。
金田椿、ときたか。
「……きんつばさんですか」
菓子名で呼んだら、彼は目を丸くして、固まった。
すると、次第に表情がほぐれ、破顔した。
「懐かしいなぁ。昔はよくそう呼ばれてたっけなぁ」
きんつばさんは、独り言のようにそう言って、頭の後ろに手を置いてあおむけになった。
「……先程、名乗りたくないとおっしゃっていましたが。それはなぜですか」
「なぜって、わかるだろ? 野郎なのに花の名前なんて、恥ずかしいったらありゃしねぇ。
おまけに、椿ときた」
「……椿が、なにか?」
「お前、知らねぇのか。椿の花がどんなもんか」
知っている。知っているが……
なるほど。そういうことか。
「散り方が不吉で……特に武士の間では縁起の悪い花とされていますね」
「……なんだよ。知ってんじゃねぇか」
不機嫌そうに、きんつばさんがぼやいた。
「百歩譲ってよ。花の名を野郎につけることがあっても……まぁ、おかしくはねぇ場合もあるだろうよ。知らねぇけど。
にしても……それにしたってよ。うちのクソ親父は、よりにもよって『椿』を選びやがった。
禁忌を犯したようなもんだろ」
……禁忌を犯した。
この人の家は、武士の家系か。
「……お父上を、恨んでいるのですか」
「恨んでもしょうがねぇ。もうとっくの昔に死んじまってるしな」
きんつばさんは、ふん、と鼻を鳴らしていた。
椿。
香りはほとんどなく、首から落ちるように散る花。
気味が悪いとか、縁起が悪いと評されるのも理にかなっている。
……けれど。
「僕は、一貫性があっていい花だと思いますが」
「……あ?」
背をむけたきんつばさんが、くるっとこちらをむいた。
その顔には、なぜか動揺が浮かんでいた。
「どういう……意味だ?」
つぶやいた言葉も途切れ途切れで、様子がおかしい。
……なんだ?
「一貫性って、なんだ? どういう意味だよ、おい」
「……どうかされましたか」
「いいから話せよ!」
きんつばさんが起きあがり、詰めよってきた。
さらに、僕の着物の裾をつかんで引っ張っている。
……どうやら、彼の地雷的なものを踏んでしまったようだ。
落ちつくようにと、つかんでいる手に触れ、離すよう促した。
「……香りがほとんどない理由を、姿だけで引きよせられると自負しているからだと仮定します。
だとすれば、あのような散り方をするのも当然です」
「……なんでだよ?」
一旦言葉を切って、未だ降りしきる雨を見つめる。
そして、またきんつばさんへと顔をむけた。
「その自慢の美しさを、最後まで失わないようにするため」
「……っ」
「これが、一貫性です」
きんつばさんが、息をのんだ。
唇が、若干震えている。
「……あなたのお父上が、そう思っていたかは不明です。でも、その解釈は成立します」
きんつばさんが、顔をうつむけた。
かまわず続ける。
「『最後の最後まで、己の信念を貫ける者になれ』
……僕なら、そういう意味を込めて名づけると思います」
最後にそう締めくくり、雨音に耳をすませた。
……やむ気配はない。
ここまで長く降るとは。想定外だ。
すると、雨音にまじって、すすり泣く人の声が聞こえてきた。
横をむくと、きんつばさんが震えながら泣いていた。
「……っちきしょう。あんのクソ親父……っ! そういうことかよ。
もっとちゃんと言ってくれよぉ……っ! わかるわけねぇだろ。こんちきしょうが……っ」
「…………」
「八重の奴もよぉ……っもったいぶらねぇで、さっさと教えてくれりゃよかったのによぉ。
ふざけんなよ、どいつもこいつも……っ!」
きんつばさんの、嗚咽まじりの声が響いている。
顔を手で押さえて、鼻水までたらしている。
……長年、抱えていたつっかえがとれたような気分を感じているようだ。
この程度の解釈。
思いついて、教えてくれる人が周りにいなかったのか。
……ん? 待て。
八重、だって?
「八重、とおっしゃいましたか?」
「……ああ。お前は知らねぇだろうけどな。いたんだよ。めちゃくちゃ強い女武士が」
「あなたは、甘誠組の隊士だったんですか?」
「そうだよ。もう30年以上も前になるけどな」
きんつばさんが、腕で涙をぬぐい、鼻をすすりながら答えた。
……今度は、こちらが知る番だった。
「その人の、本名は?」
聞いた瞬間――例のあの人の、核心に近づけるような気がした。
きんつばさんが、ゆっくりとこちらをむく。
「……橋本八重。『薄紅の女傑』って呼ばれてた剣豪だよ」




