9_最も耐えがたい報い
レインハルト様の温かく力強い腕に抱かれ、わたしの震えは少しずつ治まっていきました。
彼が纏う香木の香りと、圧倒的な魔力の気配が、先ほどまでの恐怖を優しく塗り替えてくれます。
しかし、壁際に叩きつけられたジュリアン殿下へと視線を向けた瞬間、レインハルト様の黄金の瞳は再び絶対零度の冷酷さを取り戻しました。
「さて、我が愛しの妻を穢そうとした罪の清算をしようか」
静かに響いたその声は、地獄の底から響く死神の宣告のようでした。
ジュリアン殿下は口から血を流し、恐怖に顔を引きつらせながら這いずって逃げようとしています。
「ま、待て……私は王太子だぞ……!」
「はっ、……三年前、不躾に我が妻に香水瓶と肖像画を送りつけて来たのは貴様だな?」
不意にレインハルト様が放った言葉に、わたしは思わず瞬きをしました。
三年前といえば、わたしが双子のアルテミスとサリエスを産んでしばらくした頃でしょうか。
確かに、白百合の香りの香水と、精巧な筆致で描かれたわたしのミニチュアールがノルディアの王家から送られていたことがありました。
レインハルト様は結局その肖像画を燃やすことができず、主寝室の机の引き出しにひっそりとしまわれていたのを覚えています。
「あ、あれは……美しい夫人への、純粋な敬意の表れで……っ」
「他人の妻に横恋慕する分際で、純粋などと笑わせる」
レインハルト様は冷たく吐き捨てると、ジャケットの内側から小さなガラス瓶を取り出しました。
その中には、ほんのりと桜色を帯びた、とろみのある透明な液体が入っています。
それが何なのか、わたしにはさっぱり見当がつきませんでしたが、なぜかひどく甘く、けれど危険な香りが漂ってくるような気がしました。
「できればこんなものを使う場面に遭遇したくはなかったのだが……」
レインハルト様は小瓶を指先で弄びながら、ひどく憂鬱そうにため息をつきました。
「さすがに僕といえど、他国の王族は殺せないからね……」
彼の言葉に、わたしは少しだけ安堵しました。
彼がわたしのために怒ってくれるのは嬉しいですが、本当に王太子を殺してしまえば、同盟関係は破綻し、シルバード王国にも多大な迷惑がかかってしまいます。
高潔で思慮深い彼が、そんな軽率な真似をするはずがありません。
「では、君の最も欲しているものをあげよう」
レインハルト様は極上の微笑みを浮かべると、見えない魔力の手でジュリアン殿下の顎を無理やり上へと向けさせました。
「な、なにを……やめ、やめろ……っ!」
「僕の妻を欲しがっていたのだろう? ならば、その渇望を永遠のものにしてあげよう」
抵抗する殿下の口が強制的に開かれ、レインハルト様は小瓶の中身を数滴、その口内へと垂らしました。
ゴクリ、と無理やり飲み込まされた殿下は、直後に激しく咽せ返りました。
「かはっ……げほっ、何を、飲ませた……っ!?」
「ただの惚れ薬ですよ。僕の妻を深く愛するあまり、殿下はもう、他のどんな女を抱いても満足できない身体になる」
レインハルト様はわたしを安心させるように、あえて穏やかな声でそう説明しました。
しかし、床でのたうち回るジュリアン殿下の様子は、ただの惚れ薬などという生易しいものではないことを物語っていました。
「あ、ああ……ああっ……!」
殿下の顔が異常なほど赤く染まり、青色の瞳が狂気を帯びて血走っていきます。
身体を大きく震わせながら、よだれを垂らし、まるで獣のような荒い息を繰り返していました。
彼自身の理性と尊厳が、抗いようのない圧倒的な絶望によって内側から焼き尽くされていくのが、何も知らないわたしにも分かりました。
(あれは……魔法薬、なのでしょうか)
わたしは、なにかとてつもなく恐ろしいものを見てしまったような気がして、指先が震えるのを止められませんでした。
「さあ、シャルロット。こんな汚らわしい男のそばに長居することはない」
「あ、あ、でも……ジュリアン殿下のご様子が……」
レインハルト様は、醜態を晒すジュリアン殿下を一瞥すらせず、わたしを横抱きに抱え上げました。
「ひぃっ、あぁ、夫人、ああ……っ!」
床を這い、わたしのドレスの裾に触れようと必死に手を伸ばしてくる殿下の指先を、レインハルト様は容赦なく冷酷な足で踏み躙りました。
「……次に僕の妻の名前を口にしたら、その舌を引き抜くぞ」
その声は、二度と逆らうことのできない絶対的な呪縛となって、殿下の精神を完全に打ち砕いたようでした。
「レインハルト様……」
「大丈夫だよ、シャルロット。僕はただ、少しきつめのお灸を据えただけだ」
わたしを見下ろす彼の瞳は、先ほどの冷酷さが嘘のように、甘く蕩けるような慈愛に満ちていました。
彼がわたしに見せてくれる高潔で優しい顔の下に、どれほどドロドロとした狂気が渦巻いているのか。
わたしはそれに気づかないふりをしたまま、彼の温かい胸にそっと頬を擦り寄せました。




