8_黒い劣情
「夫人は、その涙さえダイヤモンドのように輝くのだな。……たしかに、見れば見るほど、この世のものとは思えないほどの美しさだ。公爵の異常な独占欲も分からなくはない。……が、すぐに私が忘れさせてあげましょう」
「ジュリアン殿下……!?」
「あなたを正妃にしても良い。ノルディアと、シルバード王国の懸け橋になるだろう」
ジュリアン殿下はわたしの両手首を掴み、頭上へ力任せに押さえつけました。
男の重い身体がのしかかってきて、息が詰まる。
「この艶やかな薄紫の髪も、緋色の瞳も、輝くような肌も、あの男にはもったいない。私が本当の愛というものを教えて差し上げたい」
「い、いや……!なにをするのです!!」
殿下の顔が近づき、その荒い鼻息がわたしの頬にかかりました。
ドレスの襟元に乱暴な手がかけられ、ビリッ、と薄い布が裂ける音が響きます。
恐怖で視界が涙に滲み、わたしはきつく目を閉じました。
(レインハルト様……助けて、レインハルト様……っ!)
心の中で、最愛の夫の名前を叫びます。
彼がこんな下劣な真似を許すはずがありません。
彼はいつだって、わたしを絶対に守り抜いてくれる最強の騎士なのですから。
――その瞬間でした。
バリィィィンッ!!
耳を劈くような轟音とともに、部屋の分厚いガラス窓が木端微塵に吹き飛びました。
「なっ……なんだ!?」
ジュリアン殿下が驚愕の声を上げて振り返ります。
粉塵が舞う中、バリバリと小さな雷のような閃光を纏わせた黒い雲のようなものが一瞬で広がったかと思うと、そこに立っていたのは地獄の底から這い上がってきた死神のような、漆黒の魔力に包まれた男でした。
結婚指輪を触媒に、空間を捻じ曲げ、転移の魔法陣を発動させたレインハルト様です。
「……よくも、僕の愛しい妻の柔らかな肌に、その穢れた手で触れてくれたね」
静かに、けれど氷点下よりも冷酷な声が室内に響き渡りました。
「れ、レインハルト様……!」
「ヴァルテンベルク公爵……!? ば、馬鹿な、『眠り雪』を飲んで、なぜ動ける!?」
ジュリアン殿下が恐怖に顔を引きつらせ、後ずさります。
レインハルト様はゆっくりとした足取りでわたしたちがもつれ合うベッドに近づいてきます。
彼の周囲の空間が、強大な魔力の圧によって陽炎のように歪んでいる。
黄金の瞳は、これまでに見たことのないほど昏く、ドロドロとした殺意と狂気に染まりきっていました。
「自然の恵みなどとうそぶいていたが、僕の体内で焼き切ってしまえば、ただの少し苦い水に過ぎない」
彼の口元からは、一筋の赤い血が伝い落ちていました。
おそらく、強引に飲んだ液体すべてを魔力で焼き切るために、自らの内臓をひどく傷つけてしまったのでしょう。
わたしのために、また彼は自分の命を削ったのです。
「ひっ……く、来るな! 私はこの国の王太子だぞ! 私に手を出せば、シルバード王国との同盟は……!」
「同盟? そんな紙切れが、僕のシャルロットの涙一滴に見合うとでも思っているのか」
レインハルト様が指先を軽く振ると、目に見えない巨大な力がジュリアン殿下を床から跳ね飛ばし、壁へと激しく叩きつけました。
「ぐはぁっ……!」
殿下は、そのまま身動き一つできなくなりました。
レインハルト様はそれ以上倒れた男を一瞥することもなく、真っ直ぐにわたしの元へと歩み寄ってきます。
「シャルロット……ああ、可哀想に。僕の可愛い小鳥」
彼はベッドの端に膝をつき、震えるわたしの身体を、壊れ物を扱うようにそっと抱き起こしました。
「レインハルト様……っ、怖かった、怖かったです……っ」
「ごめんね、僕の姫君。到着が少し遅れてしまった」
「ノルディアの王太子殿下がこのような暴挙をなさるなんて……!」
「ああ。……本来なら、殺してやりたいくらいだけれどね」
わたしが彼の広い胸に顔を埋めて泣きじゃくると、彼はわたしの背中をゆっくりと撫で、耳元で甘く重厚な声を響かせました。
「もう大丈夫だよ。君を脅かす害虫は、僕がすべて排除する」
裂けたドレスの隙間から覗く肌に、彼自身の温かい上着が掛けられます。
「ここは君には寒すぎるし、空気がひどく淀んでいる。僕たちの邸へ帰ろう」
彼の香木のような匂いと、圧倒的な魔力に包み込まれ、わたしの恐怖はあっという間に溶けていきました。
この男の愛がどれほど狂気じみて重かろうと、わたしはこの腕の中から決して逃げ出したりはしない。
彼なしでは生きていけないと、淫魔の血が甘く泣きながら歓喜の声を上げていました。




