7_下劣な恋慕
重くのしかかる泥のような眠りの中から、ふっと意識が浮上しました。
ひどく頭がぼんやりとして、手足には鉛を詰められたように力が入りません。
ゆっくりと重い瞼を持ち上げると、視界に入ってきたのは見知らぬ豪華な天蓋でした。
どうやら、どこかのベッドの上に寝かされているようです。
(レインハルト様……?)
夫の名前を呼ぼうとしましたが、喉が干からびたように張り付き、掠れた吐息しか漏れませんでした。
記憶を辿り、夜会でジュリアン殿下に勧められた甘い果実酒を口にした直後、視界が暗転したことを思い出す。
隣で倒れ伏したレインハルト様の姿が脳裏を過り、血の気が引きました。
「お目覚めですか、美しい人」
不意に横から滑らかな声が響き、ビクッと肩が跳ねました。
ベッドの傍らには、空色の瞳に甘い熱を帯びさせたジュリアン殿下が立っていました。
彼はひどく優しい手つきで、わたしの頬にかかる髪を梳きました。
「殿、下……ここは……レインハルト様は、どこに……っ」
「あの公爵なら、地下の冷たい牢獄で心地よい夢を見ているはずですよ。なにせノルディア秘蔵の『眠り雪』の蜜ですからね」
ジュリアン殿下はふわりと微笑み、ベッドの端に腰を下ろしました。
その態度はひどく穏やかで、まるで傷ついた小鳥を労わるかのようです。
「あなたには気付け薬を嗅がせて差し上げたので、こうして早く目を覚ましてくれて嬉しいですよ。あのような無骨な男の横で冷たい床に寝かせておくには、あなたはあまりにも美しすぎる」
「近寄らないで……っ!」
わたしは必死に身体を引き摺って逃げようとしましたが、痺れた手足は思うように動きません。
殿下は逃げようとするわたしを無理に引き止めることはせず、ただ熱に浮かされたような瞳でわたしを見つめました。
「怖がらなくていい。私はあなたを救い出しに来たのですから」
「……救い出す?」
「ええ。最強の魔導公爵に無理やり婚姻を結ばされ、邸に監禁されている可哀想な夫人……それが、各国の貴族たちが面白おかしく噂しているあなたの境遇です」
殿下は恍惚とした溜め息をひとつこぼし、熱を帯びた視線でわたしの全身をなぞりました。
「ガラス細工のように艶やかに煌めく薄紫色の髪、真珠のように発光するがごとき肌、そして星屑を砕いた輝きを持つ緋色の瞳……それに、その愛らしい花びらのような唇。ノルディアにはいない……いや、世界中を探してもこれほど類まれなる絶世の美女はいないでしょう。……あのヴァルテンベルク公爵も同じように、この美しさに目がくらみ、誰の目にも触れさせまいとあなたを監禁しているのですね」
殿下は、同情と下劣な恋慕が入り混じったような顔で語りかけます。
いくら外見を褒め称えられ、優しい言葉をかけられようと、わたしの心には微塵も響きませんでした。
見知らぬ部屋にジュリアン殿下と二人きりにされている恐怖が、ただただ胸を締め付けます。
それに、彼が口にした推測は、まったくの的外れなのです。
わたしのこの美しさは、決して生まれ持ったものではありません。
これは全て、レインハルト様がご自身の強大な魔力と精気を惜しみなく注ぎ込み、長い時間をかけてつくり上げてくださった『淫魔の完成形』に他ならないのです。
けれど、そんな親にも言えないふたりだけの秘密を、このような男に投げつけるわけにはいきません。
「……誤解です。最初に彼を好きになったのは、わたしの方ですわ。彼はわたしの恩人なのです」
わたしが必死に反論すると、殿下の顔からスッと余裕の笑みが消えました。
「ならば、なぜ、あなたは公爵邸を出ることさえ自由にできないのですか?」
その鋭い問いかけに、わたしは息を呑みました。
(それは、淫魔の血が誰かを殺してしまうかもしれないから……そして、わたしが不用意に誘惑の香りを撒き散らさないために、彼は……わたしを閉じ込めているのです)
喉元まで出かかった真実の言葉を、わたしはぐっと飲みこみました。
沈黙しながらも、彼を納得させる言葉を必死に探します。
「………………、彼は、わたしを愛してくださっているからです」
震える声でそう告げると、ジュリアン殿下は憐れむように首を振りました。
「嘘だ。そんなのは愛じゃない。愛とは、もっと自由で、お互いの権利を尊重する関係であるべきだ。好きな場所へ自由に行き、見知らぬ誰かと友人になる……、そんな普通のことさえできないのはおかしいでしょう」
「……いいえ、いいえ……っ」
ぽろりと。
なぜだか分からないけれど、わたしの目から涙がぼろぼろと溢れ落ちていきました。
悲しいわけではありません。
ただ、彼の言葉がすべて間違いだとも思えなかったからです。
外の世界を自由に歩き、誰かと他愛のないおしゃべりをする……そんなありふれた幸せに、ほんの少しだけ焦がれてしまう自分がいたのも事実だからです。
けれど、レインハルト様の愛だけは、絶対に否定したくありませんでした。
わたしのために全てを捧げ、その生命さえ差し出そうとする、狂おしいほどの彼の愛。
彼がわたしを閉じ込めるのは、わたしを守り、そして世界からわたしを隠すためなのだと知っているからです。
わたしはとめどなく溢れる涙を拭いもせず、ただ首を横に振りました。
「ちがう……っ、わたしは……レインハルト様を愛しています……!」
その涙を見た瞬間でした。
ジュリアン殿下の青い瞳に、理性を焼き切るような暗い炎が宿りました。
優しく説得しようとしていた王太子の仮面が剥がれ落ちていく。
「ではその涙はなんなのですか……! 美しいあなたを泣かせているあの男のやり方は異常だ。私なら、あなたにもっと素晴らしい世界を見せてあげられるのに!」
ドンッ、と強い力で肩を突き飛ばされ、わたしはベッドの上に仰向けに倒れ込みました。
「っ……!?」




