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6_眠りの杯

 少し冷えた身体をレインハルト様に温めてもらいながら、わたしたちは煌びやかな光に満ちた広間へと戻りました。


 彼のたくましい腕に抱き寄せられている限り、周囲の貴族たちのざわめきや、華やかなオーケストラの調べすらも、遠い別世界の出来事のように思えました。


 わたしたちはこの国へ、両国の友好を深めるための外交使節として招かれています。

 わたしは彼の妻として、そしてかつて侯爵令嬢として培った社交の作法をもって、完璧にこの役目を果たさなければなりません。

 彼の足を引っ張るようなことだけは絶対に避けたいと、わたしは気を引き締め直しました。


 しかし、広間へと数歩進み出たところで、わたしたちの行く手を塞ぐように、ふらりと現れた人影がありました。


「お楽しみのところを申し訳ありません、ヴァルテンベルク公爵閣下、そして美しき夫人」


 滑らかな、それでいてどこか冷ややかな響きを持つ声とともに現れたのは、ジュリアン王太子殿下でした。

 シャンデリアの光を弾いてきらきらと輝く美しい銀色の髪に、北国の冬空を思わせる透き通った青い瞳。

 昨日、到着後の謁見の場で初めてお顔合わせをしたばかりの、この国の次代を担うお方です。

 彼の背後には、豪奢な装飾が施された銀色の盆を恭しく手にした従者が、影のように静かに控えていました。


 殿下の視線は、レインハルト様ではなく、真っ直ぐにわたしへと向けられている。

 その視線に微かな居心地の悪さを覚えながらも、わたしは顔には出さず、完璧な淑女の微笑みを浮かべます。


「ノルディアの夜はいかがですか、夫人」

「はい、冬薔薇がとても美しくて、夢のようなひとときを過ごさせていただいております」


 わたしが夫の背に半分隠れながら礼儀正しく微笑み返すと、殿下は満足げに頷きました。


「それは良かった。美しいあなたに、我が国からささやかな贈り物があります」


 殿下がその白い指先で軽く合図を送ると、背後に控えていた従者が一歩前に進み出ました。

 差し出された銀の盆の上には、見事な細工が施された氷のように透明なグラスがみっつ、静かに載せられています。

 グラスの中には、シャンデリアの光を反射してきらきらと輝く、淡い琥珀色の液体がなみなみと注がれていました。


「これは『雪月花』と呼ばれる、ノルディア王家に代々伝わる特別な果実酒です。アルコールはほとんど入っておらず、花蜜のように甘くて飲みやすいはずです。公爵の就任と、同盟の絆を祝して……乾杯といきませんか?」


 殿下の瞳が、再びわたしをねっとりと絡め取りました。

 レインハルト様は不快感を隠そうともせず、無言でグラスを手に取りました。

 彼は用心深く中身を検分しましたが、魔力的な毒は感知されなかったようです。


 その気配を感じ取り、わたしはホッと胸を撫で下ろしました。

 同盟国の王太子が直々に勧めてくださった祝杯を無碍に断ることは、外交問題に発展しかねません。

 失礼にならないようにと、わたしも促されるままにもう一つのグラスをそっと受け取りました。


 ジュリアン殿下も最後のグラスをご自身の手に取り、乾杯のためにそれをわたしたちへと高く突き出しました。


「友好の証に、乾杯」

「乾杯……」

「殿下のお気遣いに感謝して乾杯させていただきます」


 レインハルト様は自らのグラスを半分ほど飲み干しました。

 わたしもグラスに口をつけ、冷たい液体を喉の奥へと流し込みました。


 仰る通り、それはとろけるように甘く、花の香りが鼻腔を抜ける素晴らしい味わいでした。

 アルコールの強さも全く感じられず、甘いものが好きなわたしにとっては、とても飲みやすい美味しい果実酒に思えたのです。


「いかがかな、夫人」

「とても、美味しくて……あ……れ……?」


 言葉の途中で、不意に、視界がぐらりと大きく揺らぎました。

 天井のシャンデリアが幾重にもブレて見え、煌びやかな音楽が、水の中に潜った時のようにくぐもって聞こえ始めます。

 足元から一気に力が抜け、膝が震え、自力で立っていることすらできなくなってしまったのです。


 ――パリン。


 指先から力が抜け、落としてしまったグラスが大理石の床で粉々に砕け散る音が、異様に大きく響き渡りました。


「シャルロット!」


 倒れそうになったわたしを、レインハルト様が慌てて抱き留めてくれました。

 しかし、わたしを抱き締める彼の腕にも、いつものような力強さがありません。

 彼の身体もまた、大きくぐらつき、額にはじっとりと脂汗が浮かんでいたのです。


「おやおや……大丈夫ですか?」

「きさま、何を……飲ませた……っ」


 レインハルト様が、荒い息を吐きながらジュリアン殿下を鋭く睨みつけます。

 その指先から、攻撃魔法を発動させようとする強大な魔力の光がパチパチと瞬きました。


 しかし、本来なら一瞬で相手を制圧できるほどの威力を持つはずのその魔法は、形になる前に霧散し、ただの空気へと溶けていってしまったのです。


「毒ではありませんよ、公爵。それはノルディアの奥地にしか咲かない『眠り雪』という花の蜜をそのまま絞っただけの、ただの自然の恵みです」


 ジュリアン殿下の声が、遠くから聞こえるような気がしました。

 彼の空色の瞳には、もう微かな温かみすら残っておらず、ただ純粋な悪意と歪んだ欲望だけが渦巻いている。


「まあ、普通なら数滴で巨象を三日は眠らせる代物ですがね。いくら強大な魔力をお持ちの公爵殿であっても、毒でもなく魔法的な効果も持たない、ただの天然の睡眠成分を見抜けないのは無理もないこと」

「ふざけるな……僕の妻に、指一本でも、触れてみろ……っ」


 レインハルト様の黄金の瞳が怒りと焦燥に燃え上がります。

 彼は血が滲むほど唇を噛み締め、必死に意識を保とうと抗っていました。


 それでも、巨象すら倒すという抗い難い強烈な睡魔によって、徐々に彼の瞬きが多くなり、わたしを抱く腕の力が弱まっていきます。

 周囲の貴族たちは、突然倒れ込んだわたしたちを見てざわめいているけれど、王太子であるジュリアン殿下が傍にいるため、誰一人として不用意に近づいてくる者はいない。


 声が、酷く遠くへ遠ざかっていく。


「ご安心を。夫人は私が、王太子専用の特別室の柔らかいベッドで『大切に』お預かりいたしますから。ゆっくりと、ノルディアの夜の続きを楽しんでいただきましょう」


 ジュリアン殿下の口の端が、邪悪な弧を描いて吊り上がりました。

 その勝ち誇ったような残酷な言葉を最後に、レインハルト様の大きな身体が、ついに張り詰めていた糸が切れたように、床へと重く崩れ落ちました。


「レ、イ……ト、さま……」


 わたしは薄れゆく意識の中で、必死に彼の方へと手を伸ばしました。

 

 しかし、彼の温かい頬に指先が触れる直前で、何者かに乱暴に腕を掴み上げられ、わたしは底知れぬ深い深い闇の中へと、為す術もなく引きずり込まれていったのです。







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