33_母の決意
そんな時です。
客間の扉が少しだけ開き、ひょっこりと小さな顔が覗きました。
「母上」
「リオン!」
愛らしい声に呼ばれ、わたしは振り返ります。
リオンが少し困ったような、でもしっかりとした足取りでわたしのもとへ歩み寄ってきました。
すっかりお兄ちゃんらしくなった彼の成長も、わたしの日々の喜びの一つです。
「どうしたの?一人でここまで来たの?」
わたしがしゃがみ込んで目線を合わせると、リオンはわたしの袖をきゅっと掴んで言いました。
「赤ちゃんが、……イリスが泣いています。おなかがすいたのではないかと」
「まあ、大変。教えてくれてありがとう、リオン。いいお兄ちゃんね」
リオンの頭を優しく撫でると、彼は少し照れくさそうにはにかみました。
わたしは立ち上がり、レインハルト様とナタリア様に向き直ります。
「申し訳ありません、ナタリア様。子が泣いているようなので、わたしは少し席を外させていただきますね」
「ええ、ええ!もちろんですわ!赤ちゃんのことが最優先ですもの。わたくしはもう少し公爵と『極意』について議論させていただきますから、ごゆっくり!」
「だから極意などないと……。シャルロット、無理はするなよ。リオン、母を頼むぞ」
「はい」
夫の優しい気遣いに微笑み返し、わたしはリオンと手を繋いで客間を後にしました。
廊下を歩き出し、子ども部屋へと向かおうとしたその時でした。
ふと、ショールを客間のソファーに置き忘れてきたことに気がついたのです。
さっき、ナタリア様からの贈り物を見せていただく際に置いてしまったのでした。
「あ、いけない。リオン、わたしショールを忘れてきてしまったわ。すぐ戻るから、ここで少し待っていてね」
「はい、わかりました」
わたしは小走りで客間へ引き返しました。
扉は、わたしが先ほど出た時にきちんと閉まりきっていなかったらしく、ほんの数ミリだけ隙間が空いていました。
「失礼しま――」
声をかけて中に入ろうとした瞬間。
中から聞こえてきた声のトーンが、先ほどまでの明るく賑やかなものから、氷のように冷たく、張り詰めたものへと急変していることに気がつきました。
わたしの手は、扉の取っ手にかかったままピタリと止まります。
「――公爵。先ほどの話の続きですが」
ナタリア様の声でした。
社交界の華とうたわれる、無邪気で明るい王女殿下の面影はそこにはありません。
国を背負う王族としての、威厳と緊迫感に満ちた重い声です。
「ベルツが、我が国に対して脅迫まがいな書状を送り付けて来ましたわ。油断なさいませんよう」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てました。
ベルツ。
我が国と国境を接する、好戦的な軍事国家です。
その名を聞くだけで、背筋にぞくりと冷たいものが走ります。
近頃、国境付近で小競り合いが起きているという不穏な噂は、わたしの耳にもわずかに届いていました。
しかし、レインハルト様はいつもわたしを不安にさせまいと、わたしの前ではそんな素振りを微塵も見せなかったのです。
深い沈黙が流れた後、低く、力強い声が響きました。
「……分かっている」
それは、わたしに向ける甘い声でも、ナタリア様と呆れながら話す声でもありません。
戦場を駆ける、冷酷無比な将としての、鋭く冷たい声でした。
「国境付近の兵はすでに増強させている。だが、連中がどのタイミングで本格的に仕掛けてくるか……。書状の内容を見る限り、奴らは開戦の口実を探しているに過ぎない。ナタリア殿下も、ご自身の降嫁の件、時期が時期だけに移動の際など警戒を怠らぬよう」
「ええ。わたくしとて王族の端くれ。いざとなれば国のために身を捧げる覚悟はできております。……公爵、いざ戦となれば、貴方が我が軍の要です。どうか、万全の準備を」
「承知している。……ただ、シャルロットには、このことは」
「分かっていますわ。あの方は、今が一番幸せな時。あの優しい笑顔を曇らせるような無用な心配は、ギリギリまでかけたくありませんものね。わたくしもお口にはチャックをしておきますわ」
わたしは音を立てないように、そっと扉から手を離しました。
ショールを取りに戻ることなどできず、待っていたリオンのもとへ無言で引き返します。
「母上?ショールは?」
「……ううん、やっぱりやめたわ。新しいものを出せばいいもの。さあ、早く赤ちゃんのもとへ行きましょう」
わたしはリオンの小さな手を、先ほどよりも少しだけ強く、決して離さないように握りしめました。
リオンが不思議そうにわたしを見上げましたが、わたしはただ微笑むことしかできませんでした。
平和で、暖かくて、幸せな日常。
ナタリア様の底抜けの明るさも、レインハルト様のわたしへの惜しみない愛情も。
すべてはこの薄氷のような平穏の上に成り立っているのだと思い知らされたのです。
わたしの知らないところで、レインハルト様は過酷な現実と戦ってくださっている……。
わたしたちの、この居場所を守るために。
彼はその重荷を、ひとりで背負い込もうとしていました。
公爵邸の窓から見える空は、どこまでも澄み切っていました。
けれど、その向こうには確実に、黒い戦雲が迫りつつあるのです。
子ども部屋に近づくと、微かに赤ちゃんの元気な泣き声が聞こえてきました。
わたしは立ち止まり、深く深呼吸をします。
もし本当に戦争が避けられないのだとしても。
愛する夫が、国のために剣を抜き、血塗られた戦場へ向かう日が来るのだとしても。
わたしは、ただ守られて泣いているだけの妻でいるつもりはありませんでした。
わたしは、この子たちを守らなければならないのです。
レインハルト様がいつ帰ってきても安心できるような、暖かく笑顔の絶えないこの居場所を、何があっても守り抜かなければならないのでした。
それこそが、わたしにできる最大の戦いなのだと、自分に言い聞かせます。
「おなかすいたね、今行くからね」
胸の奥で静かに、けれど決して揺るがない決意を固めながら、わたしは足早に愛する我が子たちの待つ部屋へと進んでいきました。




