32_ナタリア王女と唾液のひみつ
公爵邸の大きな窓から差し込む午後の陽射しは、今日もひだまりのように子どもたちを照らし出している。
ベビーベッドですやすやと眠る我が子の小さな寝顔を見ているだけで、あっという間に時間が過ぎてしまうのです。
柔らかな頬をつついたり、小さな手を握ったりしていると、世界中のどんな宝石よりも輝いて見えました。
愛する夫との間に授かったこの尊い命は、わたしたち家族にとって何にも代えがたい宝物でした。
そんな穏やかで平和な日常に、突然、華やかで賑やかな嵐が巻き起こりました。
「シャルロット様~!お久しぶりでございますわ……!わたくしもついに降嫁先が決まりまして、支配の極意の続きをお聞きしたく……!」
銀の鈴を転がしたような、よく通る声。
バタンと勢いよく客間に飛び込んできたのは、見事な亜麻色の髪をふわりと揺らし、宝石のように輝く翠の瞳をキラキラとさせた王女殿下――ナタリア様でした。
相変わらずの美しさと、周囲を圧倒するようなエネルギッシュなご様子に、わたしは思わず目を丸くしてしまいます。
以前お会いした時と全く変わらない、太陽のような明るさでした。
さらに驚いたことに、ナタリア様の後ろには、王家の紋章が入った豪奢な箱や包みを抱えた従者たちが、ずらりと列をなして控えていました。
「ナタリア様、お久しぶりですわ……それにしても、そのお荷物は一体……?」
「ふふっ、もちろん!可愛い可愛い赤ちゃんのためのベビー用品ですわ!最高級の絹を使ったお包みに、一流の職人が手彫りした木馬、西の国から取り寄せた特別なオルゴール、それから肌触りの良い特注の産着を百着ほど……ああっ、早く全部見せてさしあげたいですわ!」
「ひゃ、百着ですか!?」
次から次へと運び込まれる豪奢な品々に、わたしは圧倒されて言葉を失いました。
公爵邸の広い客間が、あっという間に大量のベビー用品の山で埋め尽くされていきます。
どれも素晴らしい品ばかりで、王室の財力とナタリア様の情熱には驚かされるばかりでした。
「あ、ありがとうございます。……ですが、こんなにたくさんいただいても、使いきれないかもしれませんわ」
「いいえ、これでも足りないくらいですわ!シャルロット様とお兄様のお子様ですもの、世界中の宝物を集めて献上したって構わないくらいです!」
ナタリア様はそう言って豪快に笑うと、わたしの両手をぎゅっと握りしめ、翠の瞳に切実な光を宿されました。
「それよりもシャルロット様!先ほども申し上げました通り、わたくし、ついに降嫁先が決まりましたの!ですから、嫁ぐ前に是が非でも、シャルロット様に『夫を完全に支配する極意』の続きをお聞きしたく参りましたのよ!」
「えっ、あの、ですから極意なんて……」
わたしが困惑して言葉を濁していると、背後から深く重いため息が聞こえてきました。
「ナタリア王女、またそれですか、支配の極意など無いと何度言えば……」
呆れたような、しかしどこか鋭い声。
振り返ると、公爵であるわたしの夫、レインハルト様が頭痛を堪えるようにこめかみを押さえて立っていらっしゃいました。
どうやら執務の合間に、ナタリア様が来訪したと聞いてわざわざ駆けつけてくれたようです。
「あら、ヴァルテンベルク公……もといお兄様。お気になさらず、これは妻同士の秘密の会話ですわ」
「秘密も何も、僕の妻に妙な吹き込みをしないでいただきたい。そもそも、シャルロットが僕を裏で支配しているなどという、根も葉もない噂を信じるのはやめていただきたいのだが」
「まあまあ、レインハルト様、せっかくこうしてお祝いに来てくださっているのですから……」
わたしは慌ててレインハルト様の腕にそっと手を添え、なだめるように微笑みました。
わたしのその一言と仕草で、レインハルト様は一瞬にして毒気を抜かれたように表情を和らげ、わたしに向かって優しく甘い視線を向けられます。
それは、わたしの前でだけ見せてくれる特別な顔でした。
「……シャルロットがそう言うなら、仕方ないが。君があまり困るようなら、相手が王女殿下であろうと僕は容赦しないからね」
「大丈夫ですよ。ナタリア様も悪気があるわけではありませんから」
わたしたちがそうやって見つめ合っていると、ナタリア様が我が意を得たりとばかりに扇で口元を隠して笑われました。
「ほら!ご覧なさいな!今のやり取りがまさにその証拠ですわ!社交界ではもっぱらの噂ですわよ。『魔法省内では冷徹な公爵閣下も、奥様の前では完全な奴隷である』と!あんなにも孤高の貴公子であったお兄様を、たった一言でこんなにも従順な大型犬のように手懐けるなんて……わたくしも、降嫁先の旦那様をそのように完全に支配したいのです!」
「奴隷とはなんだ、奴隷とは。僕はただ、妻を誰よりも愛し、尊重しているだけで……」
「それを世間では尻に敷かれていると言うのですわ!さあさあ、シャルロット様、魔法の言葉があるのでしょう?教えてくださいませ!」
「極意などない」「いや絶対にあるはずだ」という不毛な言い合いを聞きながら、わたしは呆れつつも、この平和な光景に思わずクスリと笑ってしまいます。
レインハルト様は不満そうになさっていますが、わたしを心から大切にしてくれているからこそ、こんな風にからかわれてしまうのです。
それが少し恥ずかしくもあり、同時に胸が温かくなるほど嬉しくもありました。
しかし、今日のナタリア様はそれだけで引き下がるおつもりはないようでした。
バッと勢いよく扇を閉じると、身を乗り出してとんでもないことを口走り始めたのです。
「誤魔化しても無駄ですわ!わたくし、知っておりますのよ!魔法の言葉が無いというのなら、残る手段は……あの『唾液』の秘密ですわね!」
「は!?」
「だ、だえき……っ!?」
突然の単語に、わたしとレインハルト様の声が綺麗にハモりました。
ナタリア様はふんすと鼻息を荒くして、得意げに胸を張ります。
「ええ、以前公爵邸に忍び込んだあの日、わたくしはバッチリ聞いてしまいましたのよ!お兄様がシャルロット様に熱烈な口づけをしながら、『君の唾液は僕を狂わせる……。なんて罪深い、この唇……。君の蜜を混ぜ合わせたこの毒が、僕の理性を焼き切っていくんだ……』と、それはもう妖艶に喘いでいらしたのを!」
「ばっ、ばかなことを、何を公衆の面前で……っ!!」
「いやぁぁぁぁっ!やめてくださいませナタリア様ぁっ!!」
顔から火が出る、どころではありません。
全身の血が沸騰して蒸発しそうなほどの羞恥心に襲われ、わたしは両手で顔を覆ってその場にしゃがみ込みました。
レインハルト様も、普段の氷のような冷静さはどこへやら、耳の先まで真っ赤にして激しく狼狽しています。
数年前の公爵庭園での昼下がり、こっそり忍び込んでいたナタリア様を見つけ、激怒した彼が転移魔法で彼女を邸外へ文字通り「吹き飛ばした」事件の真相が、まさかこんな形で白日の下に晒されるなんて。
「さあ、白状しなさいな!一体何を召し上がったら、冷徹公爵の理性を焼き切るほどの『狂わせる蜜』や『毒』が生成されるのですか!?やはり王都で流行りの媚薬草ブレンドティー?それとも東の国の特別な蜂蜜!?わたくしも嫁ぐ前にその成分を摂取して、旦那様をドロドロに狂わせて差し上げたいのです!」
「いい加減にしなさい!あれはただの……その、僕がシャルロットを愛しすぎているが故の、ただの比喩表現だ!!成分などない!」
「嘘ですわ!あんなにもとろけたお声で『君の蜜が……』と仰っていたではありませんか!お兄様、いくらわたくしが旦那様を支配するのを恐れているからといって、特許を独占しようなどとケチな真似は……」
「誰がケチだ!ええい、つまみ出せ!今すぐこの頓珍漢な王女をつまみ出せ!!」
大広間は、もはや嵐が吹き荒れるどころではない大惨事です。
「成分を教えるまで帰りませんわ!」と食い下がるナタリア様と、「二度と敷居を跨がせるな!」と怒鳴り散らしながら物理的に彼女を追い出そうとするレインハルト様のわちゃわちゃとした攻防戦。
わたしは恥ずかしさのあまり、ただただ床の絨毯の模様を数えて現実逃避することしかできないのでした。




