23_黄昏、王宮の惨劇 レオノーラside
ドボッ、という鈍い音が夜の王宮庭園に響き渡った。
それは、重い木のタガが外れ、中にたっぷりと詰まっていた高級な赤ワインが解き放たれた奔流の音。
血のように鮮やかで、ひどく濃厚な葡萄の香りが立ち込める液体が、宙を舞う。
スローモーションのように弾けたその赤い飛沫は、この夜のために誂えたばかりであろう公爵の漆黒の礼服と純白のシャツを、そして何より、奥様の純白に近い真珠色のマタニティドレスを、容赦なく真っ赤に染め上げていった。
「……あっ!」
奥様の、短くも悲痛な悲鳴が上がった。
美しいドレスの裾から、豊かな胸元にかけて、おぞましい赤黒い「汚れ」がべったりと広がっていく。
周囲を取り囲んでいた各国の招待客たちからは、息を呑む音とともに、「おかわいそうに……」「なんて無礼な不手際を!」という、驚きと非難の声が一斉に上がる。
しかし、そんな同情の声に混じって、一部の貴婦人たちからは「しかし、ワインに濡れた公爵様は、かえって色っぽいわね」と、不謹慎な熱い視線を送る囁きも聞こえてくる。
暗い庭園の物陰でその一部始終を凝視していたあたしは、こみ上げる暗い歓喜に肩を震わせた。
(ふふ、いい気味だわ!王城の入り口で、まるで血塗れの罪人みたいじゃない!)
あたしはドレスの裾を強く握り締め、暗がりの中で満面の笑みを浮かべた。
どれほど強大な魔力を持っていようと、どれほど完璧な愛を見せつけていようと、物理的な汚れと衆人環視の恥辱からは逃れられないはず。
(高貴な公爵夫妻も、これでただの汚れた笑い物よ!たっぷりと恥をかいて、惨めにあの気取った屋敷へ逃げ帰るがいいわ!)
舞踏会の貴賓となるはずだった彼らは、一番の晴れ舞台で最悪の屈辱を味わったのだ。
あたしの胸の内で、三億フランを失った怒りと、プライドを傷つけられた恨みが、最高のエクスタシーとなって弾けた。
「閣下! 大丈夫ですか、すぐにお召し替えを……!」
公爵家の御者が真っ青な顔をして、慌てふためきながら主人へと駆け寄ろうとした。
当然だ、一国の公爵夫妻がこのような姿を晒すなど、前代未聞の不祥事なのだから。
しかし、当の公爵であるレインハルトは、「大丈夫だ、動くな」と、片手で御者の接近を完全に制止した。
あたしは目を疑った。
公爵は、怒りに我を忘れて業者を怒鳴りつけることも、狼狽えて慌てて馬車に戻ることも、一切していなかった。
ただ、自分の隣で肩を震わせ、ワインの染みで台無しになってしまった真珠色のドレスを悲しそうに見つめる奥様を、まるで世界で一番壊れやすい硝子細工を扱うような、ひどく優しい手つきで引き寄せた。
「シャル、ドレスが台無しになってしまったね。……すぐに、綺麗にしてあげるから」
その声は、数百人の招待客のざわめきなど一切耳に入っていないかのように、ただ腕の中の妻だけに向けられた、甘く蕩けるような響きだった。
「レインハルト様……」
奥様が、涙ぐんだ緋色の瞳で夫を見上げる。
「ああ、不謹慎だが……その、濡れた君の姿は、あまりにもそそられる」
公爵は、衆人環視の王宮の入り口であることなど完全に忘却したかのように、奥様の濡れた髪にそっと口付けを落とした。
「……だが、他の者にまで、その無防備な姿を見せたくはないからね」
独占欲に満ちた低く重厚な声が、夜気に溶け込む。
そして、公爵閣下が、その長い指先を天にかざした。
彼が静かに目を閉じ、たった一小節、聞き取れないほどの小さな呪文を口にした、その瞬間。
キィィィィン……ッ!
王宮の広場全体が、耳鳴りのような、あるいは天使の歌声のような、高周波の共鳴に包まれた。
(え……な、なに……!?)
あたしは思わず耳を塞ぎ、目をすがめた。
レインハルトの身体から、目を開けていられないほどの眩い黄金の魔力が、まるで太陽が爆発したかのように溢れ出したのだ。
それは細かな、まるで星の屑を砕いて散りばめたような黄金の粒子となって、夜の闇を真昼のように照らし出し、身を寄せ合うふたりを優しく、そして神聖に包み込んでいった。
そしてその魔法の光の中で、信じられないことが起こった。
ドレスと礼服を醜く染め上げていたワインの赤い染みが、その黄金の粒子に触れた瞬間、ジュワッという音すらせずに、一瞬で蒸発するように消えていったのだ。
ただの汚れ落としの魔法、それだけでも高度な技術、しかし奇跡はそれだけでは終わらなかった。
「……えっ?」
奥様が、信じられないものを見るように目を大きく見開く。
黄金の粒子は、消えたワインの代わりに、ドレスの繊維そのものへと複雑に編み込まれていったのだ。
元の真珠色の生地は、より一層深い輝きを放つ、神々しい「星糸のドレス」へと、見る間にその姿を作り替えていった。
豊かな胸元には、ダイヤモンドが、公爵の指先の動きに合わせて一粒、また一粒と空中で結晶化し、ドレスの首周りを飾る。
足元へと流れる真珠色の裾には、黄金の魔力が刺繍となって生きているかのように這い回り、見事な冬薔薇の花を次々と咲かせていく。
レインハルト自身のタキシードもまた、濡れた跡は完全に消え去っていた。
深淵のような漆黒の生地の中に、金糸で繊細な魔法陣の意匠が浮かび上がり、それは王族の正装さえも凌駕するほどの、圧倒的な威厳と美しさを放つ装いへと変貌を遂げていた。
「すごいわ……おとぎ話の魔法使いみたい」
奥様が、新しく生まれ変わった眩いドレスを身に纏い、感動に震える声で夫を見上げる。
「魔法使いなんだよ。……君のためだけのね。ふふっ」
公爵は、黄金の光の余韻の中で、世界で一番幸せな男の顔をして、優しく微笑んでいた。
(な、なんなのよこれ……!!信じられない……!!)




