21_「浮気は許します」
公爵邸の門をくぐるなり、馬車が完全に止まるのも待たずに、レインハルト様はわたしを抱きかかえて飛び出しました。
急な動きにわたしは小さく悲鳴を上げ、しかし彼に抱きすくめられたまま、濡れた土を一度も踏むことなく本館を通り抜けました。
向かったのは、わたしの生活空間である別館の奥にある、広大な大浴場。
大理石で造られた豪奢な浴室内には、冷え切った空気が満ちており、巨大な浴槽にはまだ湯が張られていませんでした。
しかし、レインハルト様はわたしを横抱きにしたまま歩みを止めることなく、浴槽の前に立って短く詠唱しました。
「――源泉よ、沸き立て」
その低く響く声とともに、空っぽだった浴槽の底から、清らかな湧き水が一瞬にして溢れ出しました。
透明な水はみるみるうちに満たされ、同時に湯気を上げる適温の熱い湯へと変わっていきます。
パチン、と彼が指を鳴らした瞬間。
わたしたちの身体を包んでいた、雨の冷たさと泥の汚れが染み付いた衣服が、魔法の余波でふわりと霧散し、跡形もなく消え去りました。
身一つとなったわたしの肢体を力強く抱え直したまま、彼は躊躇いなく熱い湯船へと足を踏み入れました。
ざばり、と豊かなお湯が溢れ、凍えていた肌がじんわりと温かな温度に包まれていきます。
「身体が冷えている、シャル。……なるべくなら、別館から出ないでほしい。君は、外の世界にはあまりにも無防備すぎる」
彼はわたしの背中を大きな手で支えながら、湯の中でわたしを自らの膝の上へと座らせました。
その黄金の瞳は、わたしの信頼を失うかもしれない恐怖からまだ完全に抜け出せていないのか、どこか痛ましげに揺らいでいます。
「……はい……」
湯気に包まれながら、わたしは少しだけ潤んだ瞳で彼を見上げました。
小屋での出来事は誤解なのだとわかっています。
リオンが言ってくれたように、あの女性が勝手に誘惑しようとしただけなのだと、頭では理解しているのです。
それでも、他の女性が彼の肌に触れていたという事実は、わたしの胸の奥に小さな棘のように刺さり、ズキズキと痛みを放っていました。
レインハルト様は、濡れた薄紫の髪をそっと耳に掛け、わたしの頬を愛おしげに撫でながら問いかけてきました。
「まだ……僕が信用できない?」
その声は、泣き出しそうなほどに切実でした。
わたしは小さく首を振り、彼の広い肩に額を預けながら、ゆっくりと本音を零しました。
「……。あなたが浮気をするのを、わたしが止めることはできません。ただ、わたしが哀しいだけで……。もし、あなたが寄り道をしても、最後にはただ、まっすぐにまたわたしの元へ戻ってきていただけたら……それでいいの」
それは、妻としての誇りを捨てたような、情けない諦観の言葉だったかもしれません。
わたしは魔法も使えない、ただの淫魔の血を引く女です。
彼のような最強の魔導師であり、国中から渇望される美しい貴公子を、一生涯わたし一人に縛り付けることなど、到底不可能なことのように思えてしまうのです。
だからせめて、最後にはわたしの元に帰ってきてほしい。
その聖母のような、けれどあまりにも寂しげなわたしの言葉が、彼の地雷を踏み抜いたことなど、露ほども知らずに。
ブツン、と。
レインハルト様の脳内で、何かが音を立てて切れるのがわかりました。
周囲の湯気が一瞬にして弾け飛び、彼の体から立ち昇る凄まじい魔力が、浴室の空気をビリビリと震わせます。
「……。全然わかってないな、シャルロット」
それは、怒りというよりも、果てしない絶望と狂気が入り混じった声でした。
わたしは自分の愛を、そして彼の愛を、根本から過小評価しているのです。
他の女に寄り道をするなど、彼にとっては自分の心臓を抉り出し、自ら命を絶つことよりも考えられない、絶対的な不可能事だというのに。
レインハルト様は、お湯の中でわたしの背中をグイと引き寄せ、逃げ場のないほどに密着させました。
「きゃっ……」
四人の子を産み、さらに五人目の命を宿しているわたしの身体は、少女の頃のような華奢さはなく、彼に愛されるためだけに存在するかのように、以前よりも芳醇に、甘く熟れきっています。
豊かに膨らんだ胸が彼の硬い大胸筋に押し付けられ、ふくよかな太ももが彼の下半身とぴったりと重なりました。
「君以外に、僕を狂わせるものなど、この世のどこにも存在しないんだ。他の女の肌など、路傍の小石にしか思えない。僕が欲しくて欲しくて、狂おしいほどに求めているのは、君のこの柔らかい身体と、甘い匂いだけだというのに……」
彼の熱い手が、お湯の中でわたしの背骨をなぞり、そのまま豊かな胸のふくらみへと這い上がってきました。
手のひらから流し込まれる濃厚な魔力が、わたしの皮膚を通り抜け、直接神経を甘く焼いていきます。
「あ……んっ、れ、レインハルト様……っ」
「君のその自信のなさは、僕の愛し方がまだ足りないからだろうか。ならば、君の魂の底まで僕の魔力で満たして、二度とそんな寂しい言葉を吐けないようにしてあげようか」
彼の囁きは、耳からではなく、直接わたしの脳髄に響き渡りました。
魔力を含んだ、甘く蕩けるような声。
それは強力な催眠魔法のように、わたしの思考を端から白く焼き切っていきます。
「いや……んっ、ぁ……!」
「……可愛いシャル。もっと貪欲に僕を欲しがってくれないか……」
「あぁっ、だめ……っ、わたし、おかしく……なってしまいます……っ」
「いいよ。僕だけを見て、僕の愛に溺れて、思考も理性もすべて手放してしまえばいい。君のすべては僕のものだ……」
脳髄を蕩かす彼の魔力の声に、わたしはもう抗うことなどできません。
彼に首を預け、されるがままに愛欲の波に呑まれようとしていました。
「――夕食の準備が整いましたよ」
浴室のすりガラスの向こうから、一切の感情を排した、冷徹なリオンの声が響き渡りました。
「……っ!!」
ビクッと肩を震わせたのはわたしだけではありませんでした。
レインハルト様の動きが、まるで時を止められたかのようにピタリと硬直します。
甘く蕩けきっていた空間の空気が、一瞬にして日常へと引き戻されました。
「父上、まさか母上が雨で冷えた身体を温めているお風呂場で、獣のような真似をしようとしているわけではありませんよね? 母上はお腹に赤ちゃんがいるんですよ。早く上がってきてください」
すりガラスの向こうに立つ小さな影は、微動だにせず、淡々と正論を突きつけてきます。
「……くそっ……あの小僧……」
レインハルト様は額をわたしの肩に押し付け、ギリギリと歯軋りしながら、深すぎる絶望の溜息を漏らしました。
白く焼き切れていたわたしの思考も徐々に正常に戻り、カァッと顔が林檎のように赤く染まるのがわかりました。
黄金の檻の中で、最強の魔導師の狂気を唯一止めることができるのは、我が家の小さな騎士様だけなのです。
第二章はこのエピソードで終了となります。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
この章では、レオノーラの目を通して、ヴァルテンベルク家の「甘く、美しく、けれどどこか歪な日常」が少しずつ露わになっていきました。
外から見れば理想の夫婦に見えるふたりが、内側ではどれほど濃く、危うく結びついているのか。
そして、その結びつきに割って入ろうとする者が、どれほど常識の通じない世界に呑み込まれていくのかを書いていた章でもあります。
シャルの不安も、レインハルトの異常さも、ここまではまだ「黄昏」の段階。
この先、いよいよ第三幕の章タイトル通り、「惨劇」へと近づいていきます。
引き続き見守っていただけたら嬉しいです。




