20_苦しい言い訳 レインハルトside
錆びついた小屋の扉が開かれた瞬間、僕の心臓は文字通り氷のように凍りついた。
そこには、陽光を背にして立つ愛しい妻、シャルロットの姿があったからだ。
そして、彼女の緋色の瞳が捉えているのは、はだけた僕のシャツと、無様にすがりついてくる半裸の女。
誰がどう見ても、弁明の余地のない決定的な「裏切り」の構図だった。
僕は全身の血が逆流するような感覚に襲われ、咄嗟に目の前の使用人の女を床へと突き飛ばした。
「れ、レインハルトさま……、あ、わたし、あの、……あ、あぁ、ごめんなさい。……ふえぇぇぇん……!!」
シャルロットの大きな瞳から、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちる。
彼女は錯乱したように意味不明な謝罪を口走ると、顔を覆って背を向け、走り出していってしまった。
僕の築き上げた完璧な「黄金の檻」が、音を立てて崩れ去っていく音がした。
「ち、違う!シャルロット、誤解だ!!」
僕はシャツのボタンを留めることすら忘れ、血相を変えて彼女の後を追おうとした。
だが、その行く手を塞ぐように、小さな影が立ち塞がった。
「……最低です……父上。見損ないましたよ」
僕たちの息子、リオンだった。
その黄金の瞳は、僕を汚物でも見るかのように冷え切っている。
だが、今は息子の誤解を解いている余裕すらない。
「だから違うと言っているだろう!!……シャル、待ってくれ!」
僕は息子を避け、なりふり構わず小屋を飛び出した。
いつの間にか空は鉛色の雲に覆われ、冷たい雨が降り始めていた。
森の木立を抜け、ぬかるんだ道を必死に走る。
少し先の木の陰で、シャルロットが力尽きたようにしゃがみ込み、泥だらけの地面に泣き崩れているのを見つけた。
僕は彼女の前に滑り込むように膝をつき、冷たい雨に打たれ、ぬかるんだ土の上で泣き崩れるシャルロットを、なりふり構わず抱きしめた。
「僕が浮気などするはずがないと、君が一番よく知っているだろう……!」
悲鳴に近い僕の声が、雨音に混じる。
公爵としての威厳も、魔導師としての冷静さも、今の僕には微塵も残っていない。
高級な衣類が泥にまみれようと、そんなことはどうでもよかった。
ただ、愛する妻が傷つき、自分を疑っているという絶望だけが、僕の魂をジリジリと焼き焦がしていた。
彼女に拒絶されれば、僕は文字通り生きてはいけないのだ。
「ううっ、ふうぅっ……だって……あぁ、だって……は……裸の女性があなたに縋り付いて……っ!」
か弱い力で僕の胸を押し返すその仕草に絶望しながら、それでも彼女のドレスの裾に縋りついて顔色を伺う。
シャルロットの緋色の瞳から溢れる涙は、泥に汚れた頬を伝い、まるでダイヤモンドが砕けたかのような輝きを放っていた。
その雫一つさえも、僕にはこの世の何よりも愛しく、そして残酷な刃となって僕の胸を抉る。
「なにも、なにもしていないし、するつもりもない、誤解なんだ、シャル、どうか僕を見て」
彼女を泣かせるものはすべて排除すると誓ったのに、あろうことか僕自身が彼女を泣かせている。
その事実が、発狂しそうなほどの自己嫌悪を呼び起こした。
「……はあ、はぁ、はぁ……」
「ひっく……ひっく……」
しかし、状況的にどう説明すればいいのか。
新入りのメイドが突然全裸になり、僕に抱きついてきた。
そこへ運悪く君が現れた。
真実を語れば語るほど、それは浮気を誤魔化す男の、見え透いた三流の言い訳じみて聞こえるのではないか。
そもそも、あの女の不穏な気配に気づきながら、密室で二人きりになる隙を与えてしまった僕の落ち度だ。
シャルロットを失うかもしれない恐怖で、思考が完全に空回りし、僕は考えあぐねて苦渋の表情で眉間を指で押さえた。
その時だった。
「……もう帰りましょう。母上、父上」
背後から、静かな、けれど有無を言わせぬ重みを持った声が響いた。
振り返ると、そこには齢六歳とは思えない落ち着きを払い、僕たち二人に一本の傘を差しかけて立つリオンの姿があった。
その小さな手には、僕が失ってしまった「冷静さ」がしっかりと握られていた。
***
シャルロットたちが乗ってきたであろう新しい馬車に、家族三人が乗り込む。
狭い車内には、濡れた衣服が放つ湿り気と、重苦しい沈黙が充満していた。
僕はシャルロットを自分の膝の上に乗せ、分厚い毛布でくるんで、魔力で少しずつ彼女の冷えた身体を温めていた。
だが、彼女の細い肩は、まだ時折、しゃくり上げるように小さく震えている。
僕の腕の中で、彼女の心が僕から遠く離れてしまっているような気がして、恐ろしくてたまらなかった。
そんな重苦しい空気を切り裂くように、向かいの席に座るリオンが、場を収めるように口を開いた。
「母上。たぶんですが、あの金髪の使用人が、父上を誘惑しようとしたのです。……そうですよね、父上」
息子の言葉は、深い絶望の淵に垂らされた一筋の蜘蛛の糸だった。
「あ、ああ、そう! リオン、その通りだ。シャル……ごめん。彼女の邪な気配を、もっと早く察して排除しておくべきだった」
僕は、救い主を見るような目で息子を見つめ、心の底から胸を撫でおろした。
さすがは我が息子だ。
この絶望的な状況の「正解」を、瞬時に導き出してくれた。
第三者である子供の口から告げられる客観的な事実は、僕が必死に弁解するよりも何百倍も説得力を持つ。
「そうなの……? ひっく……ひっく……」
リオンの冷徹な肯定を受け、シャルロットの疑念が、ようやく朝霧のように霧散し始めたようだった。
薔薇の花びらのように可憐な唇が、まだ少しだけ不安げに震えながらも、僕を見上げてくる。
そのあどけなくも色香を含んだ涙顔は、狂おしいほどに庇護欲と独占欲を掻き立てるものだった。
僕はふと、向かいの席のリオンを見た。
リオンはその様子を静かに眺めながら、幼い胸の内で独り、静かな誓いを立てているようだった。
僕にはわかる。
彼もまた、僕と同じ血を引く男だからだ。
リオンの金色の瞳が、僕譲りの鋭利な光を宿して一瞬だけ細められる。
「……これでは、父上はおろか、外の世界にいる有象無象の男たちが、この母上に溺れるのも無理はない」
雨音と馬車のきしむ音にかき消されるような小さな声で、しかし僕の耳にははっきりとその言葉が届いていた。
「でも、レインハルト様も衣服が乱れて……」
シャルロットが、毛布の隙間から僕のはだけた胸元を指差して、まだ少しだけ拗ねたような声を出した。
「……茶を、頭からかけられたんだ。不手際を叱責しようとした瞬間に、君が来た。それだけなんだ、シャル」
僕は彼女の額に滲んだ雨水を指で優しく拭いながら、真実を告げた。
「そう……なんですの……」
ようやく完全に納得したように、シャルロットはふうっと安堵の息を吐き、僕の胸に深く顔を埋めてきた。
僕のシャツに残るハーブティーの染みと香りが、僕の言葉を裏付けていたのだろう。
彼女の柔らかな体温と、甘い香りが僕の腕の中に戻ってきた瞬間、僕はすべての機能が停止しそうになるほどの安堵を覚えた。
「ああ、シャルロット……愛している。君だけだ。君以外、僕の視界には入らない」
僕は彼女の薄紫の髪に何度も口付けを落とし、二度と離さないとばかりに強く抱きしめた。
妻の心を取り戻した安堵の裏側で、僕の腹の底には、氷のように冷たく、どす黒い殺意が渦を巻いていた。




