19_異常な夫であり、父 レオノーラside
錆びついた小屋の重い扉が開かれた先には、あまりにも残酷で、そしてあたしにとって完璧すぎる光景が広がっていた。
風とともに差し込んだ眩しい陽光の逆光の中に立つ、薄紫色の髪の奥様。
彼女は息を呑んだまま、まるで石像のように固まっている。
その緋色の瞳が捉えているのは、濡れたシャツをはだけさせ、色気たっぷりに鎖骨を晒した公爵様。
そして、その広い胸元にすがりつく、黒いレースのランジェリー姿のあたしだ。
どう言い逃れようとしても無駄だ。
誰がどう見ても、弁解の余地など一切ない、決定的な不貞の現場がそこには完成していた。
「れ、レインハルトさま……、あ、わたし、あの、……あ、あぁ、ごめんなさい。……ふえぇぇぇん……!!」
沈黙を破ったのは、奥様の悲痛な泣き声だった。
彼女の大きな緋色の瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちる。
まるで、信じていた世界が音を立てて崩れ去るのを見てしまったかのように、彼女はパニックに陥り、意味のわからない謝罪の言葉を口にしながら後ずさった。
そして、両手で顔を覆うと、子供のように声を上げて泣きながら、小屋から背を向けて駆け出していった。
(完璧だわ……!)
あたしは公爵様に肩を掴まれたまま、見えない角度で口の端を吊り上げた。
温室育ちの奥様の心は、たった今、完全に砕け散った。
もう後戻りはできない。
あとは、この公爵様があたしの極上の身体の誘惑に負けて、己の欲情を認めて完全に堕ちるのを待つだけ……。
そうほくそ笑んだあたしの身体は、次の瞬間、凄まじい力で床へと突き飛ばされていた。
「きゃあっ!」
受け身も取れず、冷たく埃っぽい土の床に尻餅をつく。
「ち、違う!シャルロット、誤解だ!!」
頭上から降ってきたのは、余裕のある色男の言い訳ではなかった。
まるで、世界の終わりを告げられたかのような、悲痛で、焦燥に駆られたみっともない叫び声だった。
公爵様は、突き飛ばしたあたしを一瞥すらせず、はだけたシャツを直すことさえ忘れて、扉の方へと身を乗り出した。
あのむせ返るような色気も、高潔な冷徹さも、そこには微塵も残っていない。
ただ、愛する妻を失う恐怖に錯乱した男が一人いるだけだ。
だが、その男の行く手を塞ぐように、小さな影が立ち塞がった。
六歳になる黒髪のガキ――長男のリオンだ。
「……最低です……父上。見損ないましたよ」
子供とは思えないほど冷めきった、氷のような声だった。
小さな騎士は、実の父親を軽蔑しきった瞳で睨みつけている。
「だから違うと言っているだろう!!……シャル、待ってくれ!」
公爵様は息子の冷たい言葉に言い訳をする余裕すらなく、乱暴に払い除けることもしないまま、ただ血相を変えて小屋を飛び出していった。
残されたのは、冷たい木の床に半裸でへたり込むあたしと、小さな長男だけだ。
(ふふっ、まあいいわ。どんなに取り繕って言い訳しようと、あの奥様の絶望した顔を見れば、夫婦の亀裂は決定的よ)
あたしはゆっくりと立ち上がり、床に落ちたブラウスを拾い上げながら、口の中に広がる勝利の味を噛み締めていた。
男の浮気現場を目撃した女の心に刻まれた傷は、そう簡単に癒えるものではない。
三億フランはもうあたしのものだ。
そして、いずれあの極上の男も、傷心のあまりあたしの胸で泣き崩れることになるだろう。
そう考えていたあたしの背中に、チクリと、物理的な痛みを伴うほどに冷たい視線が突き刺さった。
振り返ると、小屋に残っていたリオンが、父親そっくりの黄金の瞳で、道端の汚物でも見るかのようにあたしを見下ろしていた。
「……あの時の新入りですね」
六歳の子供とは思えない、静かで底知れぬ圧を伴った声だった。
「……ま、まあリオンおぼっちゃま……、こ、これはその……!」
あたしは咄嗟に身を隠すようにブラウスを胸に当て、顔を引きつらせて愛想笑いを浮かべた。
子供相手に弁解などする必要はないはずなのに、その黄金の瞳があまりにも公爵様の冷酷な部分と似ていて、本能的な恐怖を感じてしまったのだ。
リオンはあたしの見苦しい半裸の姿になど一切興味を示さず、ただ冷たく鼻を鳴らした。
「フン……、父上の異常さを知っていたらこんな無駄なことをしようと思わなかったでしょうけどね……」
「……!?」
異常さ?
無駄なこと?
どういう意味だろうか。
あたしの頭の中に、疑問符が渦巻いた。
浮気現場を目撃された男が妻に愛想を尽かされるのは、この世の絶対的な摂理だ。
理解できず固まっているあたしを置き去りにして、リオンは踵を返し、小さな背中を向けて悠然と小屋を出ていった。
あたしは慌ててブラウスのボタンを留め、乱れたスカートを身につけると、足音を殺して小屋の外へと出た。
少し離れた遠くの木の陰で、奥様がしゃがみ込み、顔を覆って泣き崩れているのが見えた。
そして、そのすぐそばで、あの王国最強の魔導師であり、誰よりも高潔だったはずの公爵様が、信じられないような姿を晒していた。
彼は泥で純白のズボンの膝が汚れるのも一切構わず、地面に這いつくばり、狂乱したように奥様のスカートの裾にすがりついているのだ。
なにやら必死に叫び、弁明しているが、風のせいでこちらまでははっきりとは聞こえない。
だが、その声の調子と身振りからは、男としての尊厳など微塵も感じられなかった。
王都で買い物をしていた時の、あの優雅で近寄りがたい貴公子と同じ人間とは到底思えない。
浮気がバレた夫が焦って言い訳をするレベルを遥かに超えている。
まるで、唯一の命の綱を断たれそうになっている亡者のような、見ていて寒気がするほどの必死さだった。
(……なんなの、あれ。本当にあの公爵様なの?)
あたしは自分の目を疑った。
そこへ、ゆっくりと歩み寄っていったリオンが、すがりつく父親と泣き崩れる母親の間に割って入るのが見えた。
リオンは泣きじゃくる奥様の背中を、小さな手で優しくポンポンと撫でている。
距離があるため言葉のすべては聞き取れないが、風に乗って、幼い少年の声が微かに届いた。
泣く奥様を、リオンが必死に慰めているようだ。
「……勝手に……だけだよ。父上は……気持ち悪いぐらい……だもん」
「父上が……ありえないよ。……お腹の赤ちゃんが……」
幼い、けれど確信に満ちたその言葉が響くたび、奥様の張り詰めていた肩の力がゆっくりと抜けていくのがわかった。
奥様は涙で濡れた顔を上げ、すがりつくようにリオンの小さな身体を抱きしめた。
公爵様は、息子の言葉に抗議して威厳を保とうとすることもなく、ただ奥様の顔色が少し和らいだことに心の底から安堵したように、彼女の手を両手で包み込んで何度も額を擦り付けている。
そしてリオンは、まるで手の焼ける大きな子供を扱うような大人びた手つきで父親を促し、母と二人で乗ってきたであろう新しい馬車へと、二人を誘導していった。
三人は、再び何事もなかったかのように一つの家族として、馬車の中に吸い込まれていった。
馬車の扉が閉まり、車輪が動き出す。
取り残されたあたしは、冷たい風の吹く森の中で、ただ呆然と立ち尽くしていた。
完璧だったはずの計画。
あれだけ見事に演出した、決定的な不貞の現場。
それなのに、あの夫婦には、ほんのわずかなヒビさえ入らなかったというのか。
あの公爵の、妻に対するプライドを投げ打った異常なまでの依存と執着。
それを「気持ち悪い」と一蹴しながらも当たり前のように受け入れ、母親の誤解を解いてしまう子供。
あたしの高級娼婦としての常識が、経験が、まったく通用しない世界がそこにはあった。
「……なによ、これ……」
勝利を確信していた心は、足元から音を立てて崩れ去っていく。
あたしは己の女としての魅力が否定されたことよりも、あの異質すぎる家族の絆の形に、得体の知れない絶望と恐怖を感じ始めていた。




