18_匂いたつ色気 レオノーラside
「ああっ、閣下! 申し訳ございません、あたしとしたことが……!」
狭い山小屋に、わざとらしいあたしの悲鳴が響き渡った。
手から滑り落ちたカップは床で乾いた音を立てて転がり、温かい琥珀色のお茶は、公爵様が身につけている最高級の純白のシャツから、仕立ての良いスラックスにかけて、無惨な染みを作っていた。
あたしは慌てふためくふりをして、手持ちのハンカチを取り出し、公爵様の胸元へと手を伸ばした。
「すぐにお拭きいたします! ああ、なんという失態……閣下の大切なお召し物が……」
言葉とは裏腹に、あたしの指先は確信犯だった。
ハンカチ越しに、男の分厚い胸板を撫で回す。
服の上からでもはっきりとわかる、鍛え上げられた筋肉の硬い感触。
そして、染み込んだハーブティーの熱さと混ざり合う、彼自身の高い体温。
あたしはさらに身体を密着させ、ブラウスの隙間から覗く豊かな胸の谷間を、彼の腕へとこれ見よがしに押し付けた。
普段なら、男という生き物はここで呼吸を荒くし、あたしの胸元に視線を釘付けにする。
そして、申し訳なさそうに上目遣いで見つめるあたしの潤んだ瞳に、完全に理性を溶かされてしまうのだ。
(さあ、どうかしら? 妻しか愛さないなんて高潔ぶっている公爵様。こんな狭い密室で、極上の女が身体をすり寄せているのよ。理性の糸なんて、簡単に千切れてしまうでしょう?)
あたしは甘い香水と女の匂いを彼の鼻先に充満させながら、彼が欲情に顔を歪める瞬間を待ち構えた。
――しかし。
あたしの期待を裏切るように、公爵様の黄金の瞳には、焦りも、そして欲情の色すらも一切浮かんでいなかった。
彼はピクリとも動じず、ただ冷ややかな視線をあたしの手元へと向けている。
そして、ゆっくりとハンカチを握るあたしの手首を掴むと、それ以上触れるなとばかりに静かに引き剥がした。
公爵閣下は濡れた黒髪の前髪を気だるげにかきあげ、ため息を漏らした。
「はあ……。仕方ないな」
狭い小屋の淀んだ空気に、深く、重厚なため息が落ちる。
それはあたしの誘惑に対する反応ではなく、単に服を汚されたことへの純粋な呆れと、面倒な事態に対するため息だった。
あたしの手首を解放した彼は、お茶で濡れて張り付いた首元を煩わしそうに指でなぞった。
シュッ。
絹が擦れる上品な音とともに、タイトに結ばれていたネクタイが乱暴に緩められる。
続けて、首元の第一ボタン、第二ボタンが外された。
はだけた純白の襟元から、息を呑むほどに美しい、引き締まった鎖骨が覗いた。
濡れたシャツが彼の身体にぴたりと張り付き、完璧に鍛え抜かれた大胸筋と腹筋の陰影を、いやらしく浮き彫りにしている。
黒髪から滴り落ちた水滴が、なだらかな首筋を伝い、鎖骨のくぼみへと消えていく。
上質な香木のような彼の体臭が、ハーブティーの甘い香りと混ざり合い、強烈なフェロモンとなってあたしの鼻腔をくすぐった。
(……っ!)
あたしはごくりと喉を鳴らした。
濡れた主人のあまりにも色っぽい仕草に、一瞬自分の仕事を忘れて見入ってしまったのだ。
今まで、ノルディアで数多の男を見てきた。
金に物を言わせる醜い豪商も、血筋だけを誇る傲慢な貴族も、そしてあの次期国王であるジュリアン殿下でさえ、あたしの前ではただの発情した獣に過ぎなかった。
けれど、こんなに極上の男など、いただろうか。
公爵という王家に次ぐ最上位の地位を持ち、神がかり的に美しい顔立ち。
そして、濡れて浮き上がった筋肉から想像する彼の身体は、間違いなく素晴らしいに違いなかった。
三億フランの報酬など関係ない。
ただ一人の女として、この圧倒的な男に組み敷かれたい。
あたしの身体の奥底が熱く疼き、甘い痺れが走るのを感じた。
「君も、そこまででいい。魔法を使う」
「……えっ……」
甘い妄想に浸りかけていたあたしの耳に、冷ややかな声が突き刺さった。
公爵様は立ち上がり、指先に微かな魔力の光を集めようとしている。
馬車の車輪修理には、使用人の仕事を奪わないためだと言って魔法を使わなかったくせに。
自分の服の汚れを乾かすためなら、あっさりと魔法を使うというのか。
(冗談じゃない、せっかく苦労してこの密室の場面まで作り出したのに!)
ここで魔法を使われて彼が綺麗に乾いてしまえば、この極上の色気も、彼に触れる口実も、すべてが水の泡だ。
「お待ちください、閣下!」
あたしは咄嗟に立ち上がり、自身のブラウスのボタンに手をかけた。
一つ、二つと、引きちぎらんばかりの勢いでボタンを外し、そのままブラウスを両肩から床へと滑り落とす。
「なっ……」
公爵様がわずかに目を見開いた隙を突き、あたしはタイトなスカートのホックも外し、それも足元へと蹴り落とした。
現れたのは、昨日王都の高級下着店で新調したばかりの、黒いレースの際どいランジェリー姿だ。
豊満な胸は今にも零れ落ちそうで、くびれた腰から太ももへのなだらかなラインは、どんな男も一瞬で狂わせる絶対の自信があった。
ノルディア一と謳われた、あたしの完璧な肉体。
これを目の前で見せつけられて、理性を保てる男などこの世に存在するはずがない。
「お慕いしておりました……!」
あたしは熱に浮かされたような声で叫び、そのまま公爵様の広い胸へと勢いよく縋り付いた。
豊かな胸を彼の硬い筋肉に直接押し付け、素肌の熱と匂いで彼の思考を完全に焼き切ろうとする。
「君……!」
公爵様の声が低く唸る。
(さあ、あたしを押し倒して! その冷たい仮面をかなぐり捨てて、獣のようにあたしを貪りなさい!)
勝利を確信し、あたしは目を閉じて彼の力強い腕が背中に回ってくるのを待った。
彼が理性を手放し、あたしをこの埃っぽい床に組み敷く瞬間を。
しかし、予想に反して、彼の両手はあたしの肩を強く、ひどく冷たく掴んだ。
それは愛撫でも抱擁でもなく、あたしを乱暴に突き放し、押し除けようとする明確な拒絶の力だった。
「閣下……?」
あたしが戸惑いの声を上げた、その時だ。
ガチャリ。
背後で、錆びついた小屋の重い木の扉が開く音がした。
風の音とともに、外の明るい光が薄暗い密室に差し込んでくる。
「レインハルト様……? 使者から馬車が立ち往生していると聞き、すぐそこだったのでリオンと一緒に来てしまいましたわ。…………えっ……?」
透き通るような、鈴を転がすような甘い声。
振り返ったあたしの目に飛び込んできたのは、眩しいほどの陽光を背に受けた、一人の女の姿だった。
薄紫の美しい髪を風に揺らし、緋色の瞳を大きく見開いている。
その隣には、公爵と瓜二つの黒髪を持つ、生意気なあのガキが立っていた。
半裸の姿で夫に縋り付く女と、はだけたシャツ姿の夫。
誰がどう見ても、決定的な不貞の現場だった。
あたしの描いた完璧なシナリオが、思惑とは違う形でついに完成の時を迎えたのだ。




