17_愛する妻のために レオノーラside
ターラント一色に染まったシルバードの王都は、浮かれた男女で溢れかえり、熱病にかかったような賑わいを見せていた。
あたしは仕立ての良い外出着に身を包み、公爵様の一歩後ろを歩きながら、周囲の女たちの羨望と嫉妬が入り混じった視線を一身に浴びていた。
なんといっても、隣を歩いているのは王国最強の魔導師にして、絶世の美貌を誇るヴァルテンベルク公爵なのだから。
彼が纏う高貴な気配と、あたしの放つ蠱惑的な香水の匂いが混ざり合い、周囲の空気をピリピリと緊張させているのがわかる。
「……この花屋の薔薇は、見事だな。シャルロットの髪に飾ってやったら、さぞかし似合うだろう」
公爵様は足を止め、店先に並ぶ、朝露に濡れた淡い色合いの薔薇に見入っている。
黄金の瞳が、蜂蜜のように甘く蕩けているわ。
(花なんて、一週間もすれば枯れてちりあくたになる地味なもの、あたしの計画の邪魔よ。もっと夫婦の間に決定的な亀裂を入れるような、とびきり悪趣味なものを買わせなくちゃ)
あたしはすかさず公爵様の腕に、シルクの手袋越しにそっと手を添え、強引に花屋から引き剥がした。
「閣下、お花も素敵ですけれど、形に残るものの方が奥様もお喜びになりますわ。あちらに、素晴らしい革製品を扱うお店がございますの」
公爵様を誘導したのは、王都でも一、二を争う最高級ブランドの鞄屋「ル・モンド・エスタ」だ。
店内には、選ばれた者しか手にできない、宝石を散りばめた派手な品々が、美術館のように並んでいる。
「ほら、閣下。こちらなどいかがでしょう?」
あたしが棚から手に取ったのは、ゴテゴテと大粒のルビーやエメラルドで飾り立てられた、真っ赤なハンドバッグだった。
「……これは、いくらなんでも派手すぎやしないか? シャルロットはもっと、控えめで上品なものを好むのだが「……これは、いくらなんかでも派手すぎやしないか? シャルロットはもっと、控えめで上品なものを好むのだが」
公爵様は美しい眉を顰め、難色を示した。
「あら、閣下。女心というものをわかっていらっしゃいませんのね」
あたしはクスクスと、鈴を転がすような声で笑い、さらに猛プッシュをかける。
「普段ご自分では選ばないような華やかなものこそ、特別な日に贈られると嬉しいものですわ。それに、ご懐妊中の奥様は、少し気分が落ち込みがちになることも。こういう明るいお色を持てば、きっと心も晴れやかになりますわ」
公爵様は「なるほど……そういうものなのか?」と、真剣な顔で悩み始めた。
魔法の事なら何でも知っている大賢者も、女の流行や心理となるとからきしらしい。
「でも、さすがにこの赤は少し……」
「でしたら、こちらはいかがです?」
公爵様の言葉を遮り、あたしが次に突きつけたのは、ショーケースの最上段に鎮座していた、ひときわ異彩を放つバッグだった。
それは、目が痛くなるようなショッキングピンクの最高級クロコダイル革に、これでもかとばかりにダイヤモンドが、隙間なく敷き詰められた一品だった。
(……嘘でしょう。これ、伝説の『ピンク・エトワール』じゃない!)
あたしは内心で息を呑んだ。
ノルディア一の高級娼婦として、数々の宝飾品を見てきたあたしでさえ、実物を見るのは初めてだ。
その値段は……っ、王都の郊外に、小さな庭付きの家が買えてしまうほどの暴利だ。
あたしが死ぬ気で働いても、一生手が出せない、まさに至高の品。
(これが欲しい。どうしても欲しい! あたしのものにならなくても、目の前でこの最高傑作が動く瞬間を見たい! そして……あたしの魅力で、この男にこれを買わせてみせる!)
娼婦としてのプライドと、女としての底知れぬ物欲が、胸の奥でゴウゴウと燃え上がった。
あたしは震える指先で(許可を得て)バッグを手に取り、その重厚感と、眩いばかりの輝きを公爵様の目の前に突き出した。
「閣下! これですわ、これしかありません! ターラントの特別な贈り物ですもの、奥様への愛の深さを示すのに、これ以上のものはありませんわ! このピンク色はご懐妊中の奥様の心を明るく照らし、ダイヤモンドの輝きは奥様の美しさをさらに引き立てます! きっと奥様も、閣下の熱い想いに感動なさいます!」
あたしは潤んだ瞳で公爵様を見つめ、声に熱を込め、最大限の賛辞を並べ立てた。
(そうよ、あたしが認めた、あたしが喉から手が出るほど欲しいこの最高級品を買うのよ! あなたの大金を、あたしの指先一つで動かしてみせる!)
公爵様は腕を組み、難しそうな顔で、ピンク・エトワールを睨みつけた。
長い沈黙の後、彼は小さく溜息をついた。
「……君がそこまで言うのなら。シャルロットが喜ぶ顔が見られるなら、これが一番良いのだろう」
(やったわ……!)
あたしは内心でガッツポーズを決めた。
「店主、これを包んでくれ」
成金趣味の極みのような、高価なバッグ。
控えめで上品なものを好む奥様なら、絶対に喜ぶはずはないだろう。
夫のセンスを疑い、目玉が飛び出るような価格に愛情すら冷めるかもしれない。
小さな、けれど確実な不和の種を蒔くには、最高の品だった。
(馬鹿な男! 結局はあたしの口車に乗って、家一軒分の金をドブに捨てたのよ! あわよくば、計画が成功してあたしが公爵夫人の座を奪った暁には……このバッグは、あたしのものに!)
欲望が満たされた高揚感と、男を意のままに操った優越感に、あたしの身体は甘く震えた。
買い物を終え、公爵邸へと向かう帰り道。
王都を抜け、郊外の静かな森の道に入ったところで、あたしの仕掛けた第二の罠が発動した。
向こうから猛スピードで走ってきた粗末な馬車が、すれ違いざまにこちらの馬車に激しく接触したのだ。
ガコンッ、という鈍い音と共に車体が大きく傾き、あたしはわざとらしく「きゃあっ!」と悲鳴を上げて公爵様の胸元に倒れ込んだ。
「大丈夫か、レオノーラ」
「は、はい……申し訳ありません、閣下」
馬車が停まり、御者が慌てた様子で窓から顔を覗かせた。
「閣下、申し訳ございません! 当て逃げされた上、車輪の軸が外れてしまいました! 修理に少々お時間をいただきます」
「構わない。急いで直せ」
公爵様は冷たく命じると、あたしを伴って傾いた馬車から降りた。
(ふふっ、アジールの奴、うまくやったわね)
あたしは内心で工作員の手際を褒め称えた。
「閣下、あそこに猟師が使うような小屋がありますわ。修理が終わるまで、あちらで休まれてはいかがでしょう」
あたしが指差した先には、丸太で組まれた小さな公共の休憩小屋があった。
公爵様は無言で頷き、小屋へと足を踏み入れ、小さな木の椅子に優雅に腰を下ろした。
「……閣下。あの、閣下ほどの魔導師様でいらっしゃいましたら、馬車の車輪くらい、一瞬で直せてしまうのでは……?」
あたしは不思議そうな顔を作って尋ねた。
わざわざ埃っぽい小屋で待つ理由など、彼にはないはずだからだ。
「僕がいないと何も出来なくなってしまう使用人をつくるわけにはいかないよ。彼らには彼らの仕事がある。僕が魔法で何でも解決してしまえば、彼らの腕は鈍り、公爵家は僕がいなければ回らない脆弱な組織になってしまう」
(やっぱりね。事前の調査通りだわ)
使用人の仕事に対して安易に魔法を使わないという、彼のスタンス。
それが、この密室の二人きりの時間を作り出してくれたのだ。
小屋の外では、御者が必死に車輪の修理に取り掛かっている音が聞こえる。
直るまでには、まだたっぷりと時間がある。
「閣下のその深いお考え、大変感銘を受けましたわ。……喉がお渇きでしょう。お茶をお淹れしますね」
あたしは馬車から持ってきていた水筒とカップを取り出し、甘い香りのするハーブティーを注いだ。
そして、胸の谷間が大きく開くように、わざとブラウスのボタンを一つ外し、公爵様の座る椅子へと近づく。
家一軒分のバッグを、あたしの言葉一つで買い与えた男。
彼への興味と、征服欲が、さらに強まったのを感じる。
「閣下、どうぞ……きゃっ!」
あたしはテーブルの脚に、わざとつまづき、バランスを崩すふりをした。
手にしたカップから、淡い琥珀色のお茶が放物線を描き、公爵様の着ている上等なシャツとスラックスにバシャッと降りかかる。
「ああっ、閣下! 申し訳ございません、あたしとしたことが……!」
あたしは慌てふためくふりをして、手持ちのハンカチで公爵様の胸元や太ももを拭き始めた。
濡れたシャツ越しに伝わる、男の引き締まった筋肉と熱い体温。
わざと身体を密着させ、あたしの豊かな胸を彼の腕に押し付け、甘い香水と女の匂いを彼の鼻先に充満させる。
(さあ、どうかしら? 妻しか愛さないなんて高潔ぶっている公爵様。こんな狭い密室で、極上の女が身体をすり寄せているのよ。理性の糸なんて、簡単に千切れてしまうでしょう?)
あたしは潤んだ瞳で上目遣いに公爵様を見つめ、彼が欲情に顔を歪める瞬間を、今か今かと待ち構えた。




