2_黒く枯れた白百合
本来ならば、清廉潔白を絵に描いたような公爵家の貴公子である彼が、こんなはしたない振る舞いをするなど、誰も想像すらできないでしょう。
「……レインハルト様、ここは船室です……誰かが来るかもしれません……」
「来させないさ。この部屋の扉には、僕以外誰も開けられない強固な封印を施してある。仮に大砲の弾が直撃しても、この結界はビクともしないよ」
彼は平然と言ってのけ、さらにわたしの太ももの内側へと指を滑らせてきました。
布越しでもはっきりと伝わるその指の熱に、わたしは小さく身をよじりました。
「……君は、僕とこうしているのが嫌だろうか、シャルロット」
「ちが……わたしは、ただ……」
「君のすべてを満たすのは僕の役目だ。いや、僕以外の男に、君の渇きを癒させるものか」
レインハルト様は低く唸るように囁き、わたしの唇を深く塞ぎました。
強引でありながらも、どこまでも甘く、とろけるような口付け。
彼と触れ合うたびに、わたしは彼なしでは生きられない身体へと作り変えられていくような錯覚に陥ります。
実際、わたしは彼の魔力と精気なしには生きていけません。
彼がわたしに命を与え、わたしが彼に愛を捧げる。
それは無自覚な搾取であり、究極の依存関係でもありました。
「んっ……ふぁ……、れ、レインハルト様……っ」
息が続かず、微かに抗議の声を上げると、彼は名残惜しそうに唇を離しました。
彼はわたしの紅潮した頬を撫でながら、ふと邸に残してきた子供たちのことを口にしました。
「可愛い僕の小鳥。邸に置いてきたリオンたちは、今頃アンナたちメイドや父上に甘えているだろうか」
「リオンは六歳になりますし、きっと長男として、アルテミスやサリエス、リリアンたちをしっかり守ってくれていますわ」
「ああ。あの子は生意気だが、僕から君を守ると公言するだけのことはあるからね。少しは安心して留守を任せられる」
双子のアルテミスとサリエスは、お気に入りのミニドールを召喚して遊んでいることでしょう。
聡明な次女のリリアンは、大人しく絵本を読んでいるかもしれません。
賑やかで愛おしい家族の顔を思い浮かべると、自然と唇がほころびます。
レインハルト様はそんなわたしを見てフッと笑みを零しましたが、すぐにその瞳を細め、窓の外へと視線を移しました。
「だが、ここから先は勝手が違う。ノルディアの宮廷には、君の美しさを妬む輩や、あわよくば手に入れようとする愚か者が虫のように湧いてくるだろう」
彼の声は再び低く、凍てつくような冷気を孕んでいました。
「君はただ、僕の腕の中にいればいい。外の世界の穢れた空気に、君を少しでも触れさせたくはないんだ」
わたしは彼から発せられる不穏な警戒心に、胸の奥が微かにざわめくのを感じました。
彼はいつだって完璧で、高潔で、わたしを守ってくれる最強の魔導師です。
けれど、その愛が時折、息が詰まるほどの重さを持ってわたしを縛り付ける。
この海の向こうにあるノルディアという国は、わたしにとって未知の煌めきに満ちた憧れの場所でした。
社交界の華やかなドレス、異国の音楽、氷の魔法で作られたという美しい宮廷。
書物の中でしか知らなかった世界に、自分の足で踏み入れることができるのです。
長年、黄金の檻で守られ続けてきたわたしにとって、それは夢のような体験になるはずなのです。
「心配しすぎですわ、レインハルト様。わたしには、あなたがついていてくださるのですから」
わたしは不安を振り払うように微笑み、彼の大きな手に自分の手を重ねました。
「もちろんさ。君の髪一本、指先一つたりとも、誰にも奪わせはしない」
彼はわたしの指先に口付け、狂おしいほどの愛着を込めて囁きます。
船の窓から差し込む光が、彼が用意した絶対的な安全領域を照らし出していました。
船が波を越えるたびに、わたしの心は期待と不安で小さく揺れ動きます。
ノルディアでの滞在が、どうか穏やかで平和なものになりますように。
わたしはレインハルト様の胸にすり寄るようにして身を預け、彼から漂う上質な香木の匂いを深く吸い込みました。
しかし、彼の強すぎる愛情は、時に予測不可能な嵐を引き起こすことを、わたしはまだ心のどこかで軽視していたのかもしれません。
外の世界への純粋な憧れと、夫の異常なまでの執着。
交わることのないふたつの想いを乗せたまま、船は静かに、氷の国ノルディアへと近づいていきます。
その夜、歓迎の意図で置かれていたはずの美しい白百合が、なぜか一輪残らず黒く変色して枯れ落ちているのを見つけ、わたしは背筋に冷たいものが走るのを誤魔化すことができませんでした。




