15_満たされない渇望 レオノーラside
それは間違いなく、あの冷徹で高潔なヴァルテンベルク公爵、レインハルトの声だった。
普段の使用人に向ける氷のような声音とはまるで違う。
熱を孕み、理性をかろうじて保っているような、男の欲情がむき出しになった声。
「!……あぁっ……。クッキーを届けに来ただけですのに……っ、ここは執務室ですわ……。それに、今はシュルツ先生に言われた通りに……」
続いて聞こえてきたのは、鈴を転がすような、甘く愛らしい女の声だった。
これが噂に聞く「奥様」、シャルロット夫人の声に違いない。
「わかっている。君の身重の身体に、無理をさせるつもりはないよ。……だが、こうして君を膝に乗せているだけで、理性が悲鳴を上げているんだ。君の柔らかな髪、吸い付きたくなるような肌の温もり……ああ、少しくらいなら……」
「んっ……!……いけません。シュルツ先生から『安定期に入るまでは絶対安静、過度な接触も禁止』と、あれほどきつく言われたではありませんか」
「……あの藪医者め。僕の魔力があれば問題ないはずなのに」
「我が家で一番優秀なお医者様を藪医者呼ばわりしないでくださいな。……もう、仕方ありませんわね。そんな風に、雨に打たれる子犬のような眼をされては……。ちゅっ……」
「っ……シャル……。それだけじゃ、足りない。もっと……」
「駄目です。レインハルト様の手は、そのまま机の上に置いていてください。わたしに触れるのは禁止です」
「……拷問だ。目の前に愛しい妻がいるというのに、指一本触れられないなんて」
「ふふっ。その代わり……わたしがあなたに、触れさせてください」
しゅるりと衣擦れの音が聞こえ、あたしは思わず顔を赤らめた。
扉の向こうで行われている行為が、手に取るように想像できたからだ。
奥様は現在、五人目の子供を妊娠中である。
そして初期の時期だろうし、当然ながら激しい愛の行為は制限されているはずだ。
「あぁ……、う、シャル、シャルロット……」
「可愛いですわ、レインハルト様。さあ、お首とお胸にわたしの印をつけて差し上げましょうね」
「っ……、はぁ、……やっぱり、僕で遊んでいるだろう。辛いのに……酷いよ、シャル……」
「まあ。わたし、あなたの真似をしているだけですのよ。ふふふふ、欲しがりさんですね」
「……っ!……ふ、……っ……」
(なるほどね、そういうこと)
あたしは扉から耳を離し、音を立てないように口元を覆って、くすくすと笑い声を漏らした。
高潔な公爵様も、噂の美しい奥様も、蓋を開けてみればなんてことはない。
ただの、欲求不満をこじらせた凡庸な男女の姿がそこにあった。
高級娼婦として数え切れないほどの男を相手にしてきたあたしには、一つの絶対的な真理がある。
――妊娠中の妻を持つ夫が一番浮気しやすいのよ。
高貴な血筋と絶大な魔力を持ち、国中の尊敬を集める英雄。
そんな男が、妊娠中の妻を気遣うあまり、己の欲望の逃げ場を失い、寸止めを食らって悶え苦しんでいる。
あの行き場のない濃厚な色気も、ただ単に性欲を持て余して限界を迎えている証拠に過ぎない。
妻への罪悪感なんて、極上の快楽を与えてやれば瞬間消し飛ぶ。
飢えきった砂漠に極上の甘露を垂らしてやれば、彼は必ず理性を手放し、あたしの足元に這いつくばるはずだ。
(なんだ、もっと手強いかと思っていたけれど)
あたしは拍子抜けしたような気分で、身だしなみを整え直した。
誰もいない廊下を、ヒールを鳴らさないように気をつけながら、軽やかな足取りで歩き出す。
公爵が纏っていたあの圧倒的な色気も、ただ単に性欲を持て余していただけだとわかれば、恐れるに足りない。
あの冷ややかな黄金の瞳が、あたしの胸の谷間に釘付けになり、欲情に濁る日も近いだろう。
三億フランのため、そしてあたしの女としてのプライドのために、あの男を完全に狂わせてやる。
あたしはメイドの制服のスカートを翻し、本館の裏口へと向かった。
今日は非番の時間を狙って、ジュリアン殿下への報告係であるグレンと会う手はずになっている。
厨房の裏手から屋敷の外へ抜け、指定された街の路地裏へと急いだ。
薄暗い石畳の冷たい陰に、見慣れた陰気な男の姿があった。
「遅かったな、レオノーラ」
グレンは不機嫌そうに鼻を鳴らし、周囲を警戒するように見回した。
「あら、ごめんなさい。公爵邸は広すぎて、抜け出すのにも一苦労なのよ」
あたしは悪びれることなく微笑み、制服のポケットから小さく折りたたんだ伝言メモを取り出した。
「それより、ジュリアン殿下への良い報告があるわ」
グレンがメモをひったくるように受け取り、怪訝な顔で中身を盗み見た。
「……『堅固な城壁にひび割れあり。陥落は時間の問題』……だと?」
「ええ、その通りよ」
あたしは自信に満ちた声で答えた。
「公爵様は今、奥様の妊娠のせいで、とてつもない欲求不満を抱えているわ。ただの発情期を持て余した犬と同じよ」
グレンは目を丸くし、それから意地の悪い笑みを浮かべた。
「なるほどな。殿下もさぞお喜びになるだろう。だが、油断はするなよ。相手は王国最強の魔導師だ」
「わかっているわ。あたしが近いうちに、極上の快楽であの男を骨抜きにして差し上げるから、安心して三億フランの準備をしておいてって伝えてちょうだい」
グレンはメモを懐にしまい込み、足早に路地裏の奥へと消えていった。
あたしはその背中を見送りながら、再び公爵邸へと視線を向けた。
巨大な屋敷の向こうにそびえる、奥様を閉じ込めた「別館」。
あの分厚い愛の結界も、あたしの手にかかれば内側からあっけなく崩れ去る。
この国で一番の力を持つ美しい男を、あたしの指先一つで狂わせてしまう快感。
ジュリアン殿下からの報酬も魅力的だが、それ以上に女としての征服欲がひしひしと満たされていくのを感じる。
美しい奥様には少しばかり同情してあげてもいい。
信じていた夫の愛情が、実はただの「我慢」の上に成り立っていた薄氷のようなものだったと知った時、彼女はどんな顔をするだろう。
夫の裏切りを知って泣き叫ぶ姿を想像すると、胸のすくような優越感が湧き上がってきた。
「さあて、公爵様の好みそうな下着でも見繕ってこようかしら」
あたしは鼻歌を歌いながら、シルバードの街の華やかな通りへと足を向けた。




