13_噂の魔導公爵 レオノーラside
シルバード王国へと向かう客船の甲板で、あたしは潮風に金髪をなびかせながら、手すりにもたれかかっていた。
「本当にあのヴァルテンベルク公爵を落とせると思っているのか、レオノーラ」
背後から声をかけてきたのは、ジュリアン殿下との連絡係を務める陰気な男、グレン。
「殿下は三億フランも積んだんだ。失敗は許されないぞ」
グレンの横では、スパイの補助役として同行している大柄な男、アジールが腕を組んで鼻を鳴らした。
「公爵夫人はこの世のものとは思えないほどの美女らしいからな。いくらお前でも、堅物の公爵の目を向けさせるのは骨が折れるんじゃないか?」
あたしはふふっと鼻で笑い、振り返って二人を見据えた。
「あたしを誰だと思っているの? ノルディア一の高級娼婦、レオノーラよ」
あたしは豊かな胸の谷間を強調するように、ショールを少しだけずらして見せた。
「どんなに高潔を気取った男でも、結局は男。下半身の欲望には逆らえないわ」
男たちの視線があたしの胸元に吸い寄せられるのを確認し、あたしは勝利を確信したように唇の端を吊り上げた。
「奥様がどれほどの美女か知らないけれど、温室育ちの退屈なお姫様に、男を狂わせる本当の快楽が与えられるわけないじゃない」
あたしは海風の向こうに見え始めたシルバード王国の陸地を、獲物を狙う雌豹の目で見つめた。
「たっぷり可愛がって、骨の髄まであたしに依存させてあげるわ」
***
シルバード王国の王都は、ノルディア王国とは対照的に、洗練された美しさと魔導の光に満ちていた。
その中でも一際異彩を放つ、高く聳え立つ尖塔を持つのがヴァルテンベルク公爵邸である。
幸運にもターゲットであるヴァルテンベルク公爵家で、新たな女性給仕を五名、急募していたのだ。
聞けば、公爵夫人が五人目のお子を懐妊されたため、身の回りの世話や邸内の雑務を増員する必要があるとのこと。
「五人目ですって? まあ、随分と子沢山なご夫婦だこと」
あたしは呆れながらも、宿屋で最高級の化粧を施し、地味ながらも清潔感のある「使用人志望の娘」を装った。
そして、用意されていた完璧に偽造した身分証と経歴書を手に、公爵邸の呼び鈴を鳴らした。
公爵邸本館の執務室は、重厚な調度品で統一された、息が詰まるほど立派な空間だった。
「レオノーラ・ハーゼン。……ノルディアからの出稼ぎか」
分厚いデスクの向こう側から、書類から目を上げることなく発せられた声は、深みのあるバリトンで、冷たい美しさを湛えていた。
あたしは顔を上げ、ヴァルテンベルク公爵であるレインハルトの姿を初めて視界に収め、息を呑んだ。
(……なんて、綺麗な男。……これが、大陸中にその名が轟く魔導公爵?)
そこにいたのは、ジュリアン王子など比べるのも不敬と思えるほどの美丈夫だった。
夜の静寂を溶かしたような艶やかな黒髪。
理知的で涼しげな目元には、すべてを射抜くような金色の瞳が。
整った鼻梁と、薄く形の良い唇は、禁欲的でありながらも隠しきれない色気を滲ませている。
それは長年、数え切れないほどの男たちを相手にしてきたあたしでさえ、本能的な震えを覚えるほどの雄の匂い。
そしてその周囲には、圧倒的な魔力による威圧感と、どこか近寄り難い神聖な空気感が漂っている。
「はい、閣下。身寄りがなく、少しでも条件の良い働き口を探して、こちらの国へ参りました」
あたしは必死に動揺を隠し、打ち合わせていた通りに、健気で従順な娘を演じて答える。
「以前は、子爵家で奥様の身の回りのお世話をしておりましたので、細やかな気配りには自信がございます」
閣下は手元の経歴書に視線を落としたまま、静かに頷いた。
「手際が良いのは結構だが、我が家では何よりも『口の堅さ』と『余計な詮索をしないこと』を重視する」
公爵閣下はようやく顔を上げ、あたしをその鋭い金色の瞳で捉えた。
その視線が全身を這い回るような錯覚に陥り、あたしは思わず膝をすり合わせた。
この男の視線に射抜かれるだけで、身体が熱を持って疼き出しそうになる。
(……これが、妻しか愛さない堅物? 冗談でしょう)
こんなにも濃密な色気を垂れ流している男が、たった一人の女で満足できるはずがない。
あたしの娼婦としての勘が、この男の奥底に潜む果てしない渇望を察知し、激しく警鐘を鳴らしていた。
「問題ない。採用だ。今日からメイド長の下で働いてもらう」
「ありがとうございます、閣下。粉骨砕身、お仕えいたしますわ」
あたしは深く頭を下げながら、胸の谷間をわざとらしく見せつけた。
しかし、公爵の視線はあたしの胸元に一ミリも留まることなく、すでに別の書類へと移っていた。
(……まあいいわ。これからたっぷり時間をかけて、あたしの身体を刻み込んであげる)
こうして潜入に成功したのだが、働き始めてすぐに、この公爵邸の異常さに気がついた。
「レオノーラ、あちらの渡り廊下から先へは、絶対に入ってはいけないよ」
先輩のメイドに厳しく注意されたのは、別館へと続く美しいガラス張りの回廊の前だった。
「あちらは『奥様』のプライベートエリアなの。掃除や食事の運搬も、古参の限られた使用人しか許されていないわ」
あたしは首を傾げ、不思議そうな顔を作って尋ねた。
「新入りは駄目なのですか? 奥様がご懐妊されて、人手が足りないからあたしたちが雇われたのだと思っていましたけれど」
「もちろん、本館の雑務や、お子様たちの世話の一部を手伝ってもらうためよ。……でも、奥様ご自身に触れることができるのは、本当に一握りの人間だけ」
先輩メイドは周囲をキョロキョロと見回し、声を潜めた。
「閣下の、奥様へのご執心は尋常じゃないの。奥様が外の風に当たるだけでご機嫌を損ねられるし、素性の知れない新入りが奥様の視界に入るなんてもってのほかよ」
あたしは背筋に冷たいものを感じながら、別館の方角を見つめた。
別館の周囲には、目に見えないほど高密度な魔力の結界が何重にも張り巡らされており、空気が陽炎のように歪んでいる。
それは外敵から守るためのものというより、奥様を世界から完全に隔離するための「檻」のように見えた。
夕刻。
本館での執務を終えた公爵閣下が、別館へと向かう廊下を歩いていく後ろ姿を見かけた。
彼の足取りは、執務室で見せた冷徹な公爵のものとはまるで違っていた。
ただ一つの光を求める信者のように、あるいは飢えきった獣のように、ひどく急き立てられた、狂おしい足取り。
別館の扉が開いた一瞬、彼から溢れ出したのは暴力的とも言えるほどの重い愛情の気配だった。
(……なんて異様な夫婦なの)
あたしは壁の影に隠れながら、己の爪を強く噛んだ。
あの男の心臓は、完全にあの「奥様」という鎖で縛り上げられている。
普通の誘惑では、その鎖にヒビを入れることすら難しいかもしれない。
(でも、だからからこそ燃えるわね。あの端正な無表情を壊して、あたしの手のひらで踊らせてみせる)
あたしは金髪を掻き上げ、誰にも見えない暗がりで唇を舐め上げた。




