12_壊れた王太子 レオノーラside
あたし、レオノーラ・ハーゼンは、この氷の国ノルディアで最も美しく、最も高価な女だ。
透き通るような金髪に、宝石よりも輝く碧眼。
男たちがこぞって金を積む豊満な胸と、蕩けるような極上のテクニック。
王族から大商人まで、あたしのベッドに跪かなかった男はいない。
だからこそ、目の前の光景が信じられなかった。
「……殿下? あたしの撫で方が、お気に召しませんでしたか?」
「今日はいい……。すまない、やめてくれ」
高級娼館の最上階。
分厚いベルベットの天蓋ベッドの上で、あたしは己の耳を疑った。
この国の次期国王であり、あたしの上客でもあるジュリアン王太子殿下が、あたしの手を振り払ったのだ。
いつもなら、あたしが豊かな胸の谷間を押し付け、その首筋に甘い吐息を吹きかけるだけで、殿下は理性を飛ばしてあたしを貪り喰ってきたというのに。
今日の殿下はひどく様子がおかしかった。
頬はげっそりとこけ、目の下には濃い隈ができている。
青色の瞳には血走った狂気が宿り、どこか遠くの――あたしではない誰かの幻影を必死に追い求めているようだった。
最近、殿下が夜会で倒れてからというもの、めっきり元気がなくなったという噂は聞いていた。
だけど、まさかあたしの極上の身体を前にして、まともに機能することすらできないほどに「壊れて」いるとは。
(あたしを見てもその気にならないなんて……プライドが傷つくわ)
あたしは内心の不満を隠し、蠱惑的な笑みを浮かべて殿下の胸元にすり寄った。
「お疲れなのですわ、殿下。あたしがゆっくりと、殿下の疲れを……」
「触るなと言っている!!」
ビクッ、と肩が跳ねた。
殿下はあたしを乱暴に突き飛ばし、ベッドの端で頭を抱え込んだ。
「ちがう……こんな金髪など見たくない……。あの美しい薄紫の髪……あの甘い匂い……。おお、シャルロット夫人……私だけの女神……っ」
ギリギリと歯軋りをする殿下の口から漏れたのは、見知らぬ女の名前だった。
(……シャルロット?)
聞いたことがない。
少なくとも、ノルディアでは名付けないような響きだ。
殿下は己の下半身を恨めしそうに叩きながら、うわ言のように繰り返している。
「よくも……あの憎き黒髪の悪魔め……。私からすべてを奪い、こんな……こんな惨めな身体にしおって……っ!」
男のプライドをへし折られ、満たされぬ渇望に脳を焼かれた哀れな男の姿がそこにあった。
だが、ただの狂人になり果てたわけではないらしい。
殿下は突然、血走った青色の瞳をギラつかせてあたしを振り返った。
「……レオノーラ。お前は、このノルディアで一番の美女だな?」
「ええ、殿下。あたし以上の女がこの国にいるとお思いで?」
あたしが豊満な胸を反らして自信たっぷりに答えると、殿下は懐から分厚い小切手の束と、一枚の紙切れをテーブルに放り投げた。
「お前に、仕事を頼みたい。ノルディア一の娼婦であるお前の、そのすべての魅力と技量を使って、ある男を破滅させてほしい」
「破滅、ですか?」
あたしはテーブルの上の紙切れを手に取った。
そこには、同盟国であるシルバード王国の『ヴァルテンベルク公爵』という男の名と、その妻である『シャルロット』の情報が記されていた。
「その公爵に近づき、誘惑し、不貞を働かせろ。そして、あの忌々しい夫婦を破局させるように仕向けるのだ」
殿下の声には、ドロドロとした怨念が煮えたぎっていた。
「あの男は、妻に異常なほどの執着を抱いている。妻しか愛さない、妻以外の女には見向きもしないなどと、高潔な聖人を気取っているが……所詮は男だ。お前ほどの女が身と心を尽くして誘惑すれば、必ずボロを出す」
あたしは紙切れから視線を上げ、テーブルの上の小切手の束を見た。
「報酬は……?」
「前金として一億フラン。見事あの夫婦を破局させ、夫人の心を公爵から引き剥がすことができたら、成功報酬としてさらに二億フランを出そう」
「……さんおく!?」
あたしは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
三億フラン。
一生遊んで暮らしてもお釣りがくる、頭の狂いそうな大金だ。
一国の王太子が、たった一組の夫婦を別れさせるためだけに提示する金額ではない。
「どうだ? あの男を泥沼に引きずり込み、夫人を絶望の淵に突き落とすことができるなら、安いものだ。……あの女神が夫に裏切られ、泣いてすがる姿を想像するだけで……ああ、私は……っ」
殿下は組んだ手に力を込め、ひどく歪んだ悦びに顔を歪ませた。
どうやら、その想像だけで少し血の巡りが良くなったらしい。
(なるほどね。要するに他国の、それも格下である公爵に女を取られて、その腹いせに夫婦の絆を壊したいってわけね)
男の嫉妬とは、なんてみっともなくて、そしてなんて金になるのだろう。
「妻しか愛さない」なんて、この世にそんな都合の良い男がいるわけがない。
どんなに貞淑を気取った男でも、あたしのような極上の肉体とテクニックを前にすれば、最後には理性を手放して獣のようになり下がるのだ。
これまでも、数え切れないほどの「良き夫」たちを家庭から引き剥がしてきたあたしにとって、こんなに美味しくてやりがいのある仕事はない。
「引き受けましょう、殿下。このレオノーラ・ハーゼンにお任せを」
あたしは小切手の束を胸元に滑り込ませ、真っ赤な唇を艶やかに舐め上げた。
「シルバードの公爵様がどれほどの堅物か知りませんけど、あたしの虜にして、その『シャルロット』とかいう奥方から完全に奪ってさしあげますわ。……その時は、殿下が傷心の奥方を慰めて差し上げればよろしいのではなくて?」
「ああ……ああ! そうだ、その通りだレオノーラ! 私は彼女を慰め、永遠に私のものにするのだ……!」
殿下は狂ったように笑い声を上げた。
哀れな王太子殿下。
あたしは殿下の狂態を冷ややかに見下ろしながら、まだ見ぬシルバードの公爵に思いを馳せた。
愛妻家で高潔な貴族様。
(せいぜい、あたしの前でその仮面がいつまで保つか見物ね。たっぷりと可愛がってあげるわ、ヴァルテンベルク公爵様)
あたしは絶対の自信とともに、シルバード王国へと足を踏み入れる準備を始めた。




