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黄金の檻 〜冷淡だった最強魔導師が理性を失った理由〜  第三部  作者: 雪白めると
【第二幕:指令、「公爵夫妻を破局させよ」】
11/35

11_間に合ったはずなのに



 暗い、泥のような闇の中。



 青色の瞳が、ねっとりとわたしを絡め取る。


 冷たい手が足首を掴み、乱暴に引き寄せられる感覚に、声にならない悲鳴が喉の奥でつかえた。



 (ちがう、やめて、来ないで……っ)



 ビリッ、とドレスの裂ける音が耳元で響き、男の荒い息遣いが頬にかかる。


 レインハルト様は、冷たい地下の牢獄で眠らされている。


 誰も、わたしを助けには来てくれない。





「――いやああぁぁっ……!」


 わたしは弾かれたように身を起こし、シーツを固く握りしめた。

 ハァ、ハァ、と浅い呼吸を繰り返すわたしの耳に、聞き慣れた深く甘い声が届きました。


「シャルロット。大丈夫だ、僕がここにいるよ」


 すかさず逞しい腕が伸びてきて、わたしを力強く抱きしめます。

 ふわりと香る上質な香木の匂いと、圧倒的な魔力の温もりに、そこがノルディアの氷の宮廷ではなく、我が家の見慣れた寝室であることにようやく気がつきました。


 「レインハルト、様……」

 「また、あの愚か者の夢を見たのかい?」


 彼はわたしの背中を優しく撫でながら、寝間着越しでも伝わるほどの熱い体温でわたしを包み込みました。

 彼が間に合ってくれたのだから、わたしは決して傷つけられてなどいないのです。

 それなのに、あの男の下卑た視線と手の感触が、悪夢となってわたしを苛んでいました。


「ごめんなさい……、ただの夢なのに、なんだかとても恐ろしくて……」


 わたしが彼の広い胸に顔を埋めると、彼はわたしの薄紫の髪に何度も口付けを落としました。


「謝る必要なんてない。君の美しい心に傷跡を残したあの男を、八つ裂きにしなかった僕の甘さを呪いたいくらいだ」


 彼の声はひどく甘く、それでいて、底知れぬ暗い情念が渦巻いていました。


 帰国してからの彼は、公務以外の時間は文字通り片時もわたしのそばを離れようとしません。

 わたしが少しでも不安げな表情を見せれば、過剰なほどの魔力と口付けを与え、わたしの思考を甘く溶かしてしまおうとします。

 それは無上の優しさであると同時に、決して逃げ出すことの許されない強烈な執着でもありました。


「シャル、君を傷つけようとする者は僕が絶対に許さない……。君を不安にさせるものはすべて、この世界から消し去ってしまいたいよ」


 彼はわたしの耳朶を甘く噛みながら、狂おしいほどに囁きます。

 優しさと執着の境界線が完全に溶け落ちたその愛撫に、わたしは小さく喘ぎながら身を委ねるしかありませんでした。


 ***


 次の日の朝。

 レインハルト様は、軍議の報告を受けるため、執務室へと向かいました。


「すぐに戻るから、良い子でベッドで休んでいるんだよ」


 そう言って、寝室から出ていったのを見届けたあと。

 わたしは大人しくベッドに横たわっていましたが、お茶のおかわりをもらおうと、ふと廊下に通じる扉へと近づきました。

 すると、扉の向こうの微かな話し声が耳に届きました。


 どうやら、レインハルト様は執務室ではなく、すぐ外の廊下で側近からの報告を受けているようでした。


「……ノルディアからの急報にございます、閣下」


 緊張を孕んだ女騎士の声に、わたしは思わず足を止めました。


「ジュリアン王太子の件か。手短に頼む」


 レインハルト様の声は、わたしに向ける甘いものとは全く違う、冷徹な響きを持っていました。


「はい。ジュリアン殿下は夜会の日を境に、突如として激しい錯乱状態に陥られたとのこと。夜な夜な幻の女性の名を呼び、壁に頭を打ち付けるなどの自傷行為を繰り返しておられるようです」


 騎士の報告に、わたしは息を呑みました。


「見かねた王室が、国中で最も美しい娼婦や貴族の娘たちをあてがったそうですが、殿下は彼女たちを見るなり『違う、こんなものはいらない!』と激怒し、完全に正気を失って暴れ回る始末……。事実上、王太子としての執務は不可能、もはや廃人も同然とのことでございます」


(廃人、同然……?)


 背筋に冷たいものが走りました。


「そうか。同盟国の王太子の御乱心、誠に痛ましいことだ」


 レインハルト様は、抑揚のない声で淡々と応じました。


「あちらは次期国王の件でしばらく混乱するだろうが、我が国への支援要請はこれまで通り対応しろ。彼らが自滅しようがどうなろうが、僕の知ったことではない」

「はっ! 承知いたしました」


 騎士の足音が遠ざかり、わたしは扉からそっと離れました。

 心臓が早鐘のように打ち鳴っています。


(まさか、あの方に飲ませていたあの小瓶は……)


 『ただの惚れ薬だよ』

 そう言って微笑んでいた夫の顔が脳裏に蘇ります。


 他国の王太子を殺すことはできないと言いながら、彼はもっと恐ろしい、永遠に続く地獄の苦しみをあの男に与えたのです。

 他の女性を抱くこともできず、叶うはずのない幻影を追い求め、正気を失うまで渇望させ続ける呪い。


(本当は、あの小瓶の中身は惚れ薬などではなく――まさか、わたしの……)


 淫魔の血を引くわたしの体液が、どれほど強烈な催淫作用と宿主への絶対的な渇望……呪縛を孕んでいるか。

 そして、レインハルト様自身が、その呪いの楔を喜んで自らの心臓に打ち込み、地獄に堕ちる覚悟を決めた狂気の人であることなど、わたしは知る由もありません。

 ただ、断片的な彼の紡ぐ「君の毒」という言葉、そして年月を追うごとに苛烈になるあの執着は、愛情以上の何かがあると思わざるを得ません。


 わたしを穢そうとした代償として、彼はそこまで苛烈な報復をやってのけたのでした。


(レインハルト様は……本当に、恐ろしい方)


 わたしは自分自身の腕を抱きしめ、微かに震えました。

 しかし、その恐ろしさは、すべてわたしへの愛ゆえの行動なのだと思うと、震えは次第に甘い疼きへと変わっていきました。


 彼はわたしのための絶対的な守護者であり、誰よりもわたしを愛して狂ってしまった人。

 この黄金の檻の中で、彼の差し出す恐ろしくも甘い毒を飲み続けるしか、わたしに生きる術はないのです。


 ガチャリ、と扉が開き、見慣れた漆黒の髪と黄金の瞳が姿を現しました。


 「どうしたんだい、シャルロット。そんなところで立ち尽くして。顔色が悪いよ」


 彼は心配そうに眉を寄せ、すぐにわたしを抱き上げてベッドへと運びました。


 「……いいえ、なんでもありませんわ。ただ、レインハルト様がいないと、少し肌寒くて。……それより、あなたこそ執務室に行かれたのかと」


 わたしは嘘をついて、彼の胸に顔を埋めました。


 「うん。なんとなく、もう一度だけ君の顔が見たくなってね。すぐ出るよ。……しかしそうか。僕がもっと、君を温めてあげなければいけないね」


 彼が紡ぐ甘い囁きに、わたしは思考を手放し、ただ彼から与えられる愛という名の牢獄に身を委ねました。





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