第十章 里帰り
「紅―、まだかー、待ちくたびれたぞ。」
大きなリュックサックを背負い両手に大きな紙袋を持った蒼がかまどの前で業を煮やしている。
「はいはい。そんなに急がなくても鬼の郷は逃げて行かないよ。」
同じく大きなリュックサックに紙袋を抱えた紅がやって来た。
「忘れ物はないか。着替えと、歯ブラシと、金はあっちでは使えないからな。みんなへの土産は持ったか。」
蒼はかいがいしく紅に尋ねる。
「着替えも、お土産も持った。大丈夫、だと思う。」
二人は顔を見合わせると、思わず顔がほころぶ。久しぶりの帰郷はやはり嬉しいのだ。
よし行こうとかまどの中にお土産の入った袋を押し込んだ。紙袋を入れ終わると、今度は蒼がかまどに頭をつっこみそのまま中へと入って行った。紅も後に続く。
真言坊のかまどは鬼の郷と繋がっていて、二人が里帰りするときにはいつもここから出入りする。かまどを使っていた頃はかまどが冷えるのを待たないと行けなかったが、今はガスを使うのでかまどは調理場の片隅で埃をかぶり、いつでも潜り込むことができる。
かまどから繋がる狭いトンネルを抜けると、それは郷はずれにある滝の裏側の洞窟につながっている。
「いつ通っても狭いな。」
先に出てきた蒼が体についた埃を払いながら言う。
「本当。あのアニメでやってるどこにでも行けるドア欲しいよね。」
紅の体にもあちこちに埃が付いてる。
二人は両手いっぱいのお土産を持って郷に向かい歩き出した。
森の中の山道に時折肌を刺すような冷たい風が吹きつける。
「やっぱりこっちは寒いな。」
蒼が肩を縮こませた。ピンと張りつめた空気の中、辺りは静まり返っている。
紅と蒼が里帰りするのは鬼の郷の年末年始。鬼の郷では二月四日からが新年となり、一年で一番寒い時期だ。
「人の世界とは違うから。」
紅がしみじみ言う。
人間は絶えず発展を続け、生活はどんどん便利になってゆく。車に乗れば雨や風を防ぎ、暑さ寒さも調整し、どこへでも歩くことなく運んでくれる。エアコンは真夏の暑さも真冬の寒さもないかのごとく快適な温度に調整してくれる。蛇口をひねれば水が出て、しばらく前から電気で料理もできる。スマホに至っては海外にいる人とも話ができる上に、知りたいことは何でも調べられる、写真も撮れて、出来ることをいったらきりがない程だ。それに比べ鬼の郷はその反対だ。鬼のモットーは“足るを知る”だ。常に自分が持っている物に注視し、それに感謝をして生きる。だから発展をする必要がない。変化を好まないこともある。
清流沿いの小道をしばらく歩くと小高い丘の上に出る。ぐるっと山に囲まれた盆地には田んぼや畑が広がり、所々にかやぶき屋根の家が点在している。
家のある方に向かってしばらく小道を歩くと、樹齢何千年にもなる栗の大木が左右対になって道を挟んでいる。二本の根は地表を這ってお互いに絡み合い、長く伸びた枝は重なり合って天上を造る。この二本の栗の木が結界となって、鬼の郷を守っている。ここからが鬼の郷だ。
「帰って来たな。」
大きな栗の木を見上げながら蒼が懐かしそうに言う。
「ただいま。」
紅は栗の木に手を添えて挨拶をした。ここまで来れば、家はもうすぐだ。
フッと炭が燃える懐かしい匂いがした。鬼の郷には人間界のような電気はない。冬の間の暖房は囲炉裏の火だ。どこの家でも冬の間は囲炉裏の火を絶やさない、紅と蒼にとって炭の燃える匂いは懐かしい冬の匂いだ。
先に進むと蒼の家が見えてきた。鬼の郷の家は皆かやぶき屋根の日本家屋だ。どの家も大きな違いはなく部屋数が多いか少ないかの違いくらいだ。そしてどの家にも広い庭があり、大概の家は鶏を放し飼いにしている。梅、柿、ビワなど成り物の木が植えられ、温かくなれば様々な花が咲き乱れ庭を彩る。
蒼は紅の方を向くと、
「じゃあな、紅。」
と言って、お土産の入った大きな紙袋ごと軽く手を挙げた。いつも一緒の紅と離れるのは毎年の事ながら蒼にとって何だか不思議な感覚だ。
「ただいまー、帰って来たよー。」
玄関に入ると懐かしい我が家の匂いがして、いつも蒼は胸が熱くなる。
「おかえりー、蒼。」
蒼の声を聞きつけて、母の紺が満面の笑みで出てきた。有無を言わせず蒼を力いっぱい抱きしめる。
「蒼、元気にしてたかい。会いたかったよ。」
「うう、母ちゃん苦しい。」
照れてそんなことを言っているが、蒼は大好きな母親に抱きしめられ満更でもないようだ。
「母ちゃんも元気だったか。お土産いっぱい持ってきたぞ。」
そう言って蒼は両手の紙袋を母に見せた。
「いつもありがとう。その気持ちが嬉しいよ。それにしてもたくさんだね、用意するの大変だったろう。」
紺は家族を思う蒼の気持ちが嬉しい。
「立ち話もなんだ、さあ中にお入り。今晩は蒼の好きな物をいっぱい作るからね。」
二人は囲炉裏のある居間へと上がって行った。
「父ちゃんは。」
「父ちゃんは郷の寄り合いに行ってるよ。夕方には帰ってくるだろう。」
紺は囲炉裏の火が当たる温かい場所にふかふかの座布団を敷いた。
「さあ、蒼ここにお座り。外は寒かっただろ。」
かわいい娘の帰省が嬉しくて、紺は顔がゆるみっぱなしだ。
「ありがとう、母ちゃん。じゃお土産を出すぞ。」
そう言って、蒼は袋の中身を全部出して並べた。
「まずは、母ちゃんにはこの毛糸の赤いガーディガンだ。寒い時にはこれを着ればぽかぽかだ。それから母ちゃんと父ちゃんに毛糸の靴下もあるぞ。家の中で履いてれば足があったかいからな。」
蒼はニコニコしながら紺にカーディガンと靴下を渡した。
「まあ、これはあったかそうだね。早速着させてもらおう。」
紺はお土産のカーディガンを羽織り、靴下を履いた。
「本当に背中がぽかぽかするよ。足もこれなら冷えなくて済むね。ありがとう、蒼。」
そう言って紺は嬉しそうに頭を下げた。
「お土産買ってくるのなんて、あったりまえだよ。母ちゃんが喜んでくれて良かったよ。」
蒼は少し照れながら嬉しそうに笑った。
「もっといろいろあるけど、後は父ちゃんが帰って来てからにするか。」
それがいいと、お土産は一旦袋に戻された。
「一年ぶりだけど、特に変わったことはなかったか。」
鬼は変化を好まないので、一年たってもいつも変わりないのが定番だ。だが今年は違ったようだ。
「それがね、ちょっと面倒なことが起こっているようなんだよ。いやね、うちがどうこうって訳ではないんだけどね。」
紺は囲炉裏に手をかざして温めながら話し出した。
「鬼の郷に水の管を通そうって話が出ていて、それに賛成する者と反対する者がいて仲たがいみたいになってるんだよ。それで今日もみんなが寄り合い所に集まってるんだ。」
紺は困った顔をして手をさすっている。
「水の管ってのは、水道のことか。」
蒼が紺に聞いた。
「水道。人間の世界ではそう言うのかい。何でも郷外れの湧き水のところから竹の筒をずっと伸ばして、一軒一軒の家に湧き水を配れるようにするってことらしいんだよ。」
「それは水道のことだな。確かになあれがあればだいぶ便利になる。川や井戸まで水を汲みに行かなくてよくなるからな。」
蒼は良い考えだと首を縦に振った。
「ところがね、そう単純な話じゃないんだよ。鬼は変わることをきらうだろう、そのうえ頑固だし。だからね、いくら便利だって言ったって今までなくてもやってこられたものを作る必要はないだろう、っていう鬼もいるんだ。それで賛成派と反対派が対立してね。」
どうしたものかと紺はますます困った顔になった。
「現状を変えたくないのも、頑固なのもどっちも鬼らしいな。」
蒼はくだらないと言い放った。
「くだらない話なんだけどもさ、青磁が反対、白磁が賛成でこれまた兄弟で仲たがいしていてね。」
「え、青磁兄と白磁兄も喧嘩してんのか。いつもあんなに仲が良いのに。」
青磁は蒼の上の兄、白磁は下の兄で二人はいつも仲が良く、妹の蒼をかわいがっている。優しい二人の兄が仲たがいと聞いて、蒼は驚いた。
「そうなんだよ。いつも穏やかで優しい二人が、この水の管の話になると納まりがつかなくなってしまってね。」
「そうなのか…。」
兄同士が仲たがいと聞いて他人事でなくなり、蒼も困ったことになったなと思い始めた。そこへ父の鉄が寄り合いから帰って来た。
「ただいま。戻ったぞ。」
蒼の父、縦にも横にも大きい大柄の青鬼鉄がのっしのっしと居間に入って来た。
「おお、蒼帰って来たか。」
蒼の姿を見つけると鉄は笑みを浮かべた。
「父ちゃん、只今。父ちゃんにもお土産買ってきたぞ。」
蒼は立ち上がって父に走り寄り抱き着いた。鬼の世界は家族の結びつきが強く、愛情深い。鬼のスキンシップは西洋風である。蒼は袋から毛糸の靴下を取り出すと鉄に渡した。
「父ちゃん、これを履けば冬もあったかいからな。母ちゃんとお揃いだぞ。」
蒼は父にも自分が選んだお土産を渡して嬉しそうだ。
「これはあったかそうだな。早速履いてみようか。」
そう言って鉄は座って毛糸の靴下を履いた。
「おお、これは良い、冬の間重宝する。蒼ありがとう。」
そう言って目に涙を浮かべている。
「なんだ父ちゃん、泣いてんのか。」
蒼は照れくさく父の背中を叩いた。
「かわいい娘が大きくなって、こんな土産まで用意してくれて嬉しくてな。」
久しぶりの親子水入らずで、鉄の家に温かい空気が流れる。
「そう言えば母ちゃんから聞いたけど、水の管で郷がもめてるらしいな。」
「もう聞いたか。今もなその件で寄り合い所に行っていたんだがな…。」
鉄は囲炉裏に手をかざしながら困り顔で続けた。
「水の管が出来ればみんなが便利になる。特に女衆は水汲みに行かなくてよくなるからな。しかし反対派の意見も最もだ。まず管をどう取り付けるのか。嵐の日にも壊れないような管を取り付けるのはそうとう難しい。もし管が壊れたらどうするのか。水の管が壊れたからじゃあ井戸を使えばとは簡単にはいかない。井戸は一度使わなくなると水が悪くなってしまうから、すぐにどうこうできない。水汲みが大変だというが、人間などと違って鬼は力があるからそこまでの負担ではない。今のままで何も不自由はないというんだ。」
確かに反対派にも説得力がある。
「確かに説得力あるな。母ちゃんはどうだ、いつも水汲みして大変か。」
実際はどうなのかと蒼は聞いた。
「そうだね。確かに鬼は力があるから水汲みがそこまで大変ではないけど、中には病気の鬼や年寄りもいるからね。そんな鬼は水の管があると助かるだろうね。」
蒼も鉄もその通りだと思った。
蒼は囲炉裏の火を眺めながら兄たちの顔を思い浮かべた。いつも自分を間に挟んで笑っていた二人が、今は向かい合って言い争っているという。
「明日、兄ちゃんたちの所に行ってみるか。」
蒼がつぶやくと、紺が静かに頷いた。
「久しぶりに蒼の顔を見たら二人とも喜ぶよ。」
「兄ちゃん達にも土産を持ってきたからな。明日にでも持っていくわ。」
そんな蒼を見て鉄と紺は微笑んだ。
青磁と白磁は結婚してそれぞれの所帯を持ち、実家から少し離れたところに家を建てて住んでいる。蒼はまず上の兄青磁の家に向かった。
「こんちはー。青磁兄いるかー。」
お土産の袋を下げ玄関口で蒼が声をかける。
「蒼ちゃん、帰って来たの。」
出てきたのは青磁の嫁紫だ。
「紫姉さん、久しぶりです。昨日帰ってきました。」
紫は青磁同様蒼を実の妹のようにかわいがってくれる。優しくて気遣いのある良い姉だ。
「姉さんと兄ちゃんにお土産を持ってきたんで渡そうと思って。」
「あら、いつも悪いわね。気にかけてもらってありがとう、どうぞ上がって。今青磁さん呼んでくるわ。」
そう言って紫は庭に青磁を呼びに出て行った。
「蒼、帰って来たのか。元気だったか。」
青磁は巻き割りの手を止めて、蒼のいる居間に入って来た。
「おかげさまで元気だったよ。青磁兄さんも変わりなかった。」
聞いてから蒼は水の管の話を思い出し、しまったと思ったが遅かった。
「変わりはないがな、今ちょっともめ事があってな。聞いてるか。」
そう言って青磁は渋い顔をした。
「ちょっと聞いたけど、その前に土産を持ってきたんだ。」
そう言うと蒼は袋から毛糸の靴下を二組出した。
「これ、兄ちゃんと姉さんに。これを履けば冬の間も足があったかいぞ。父ちゃんと母ちゃんにも持ってきたからみんなでお揃いだ。それから、これはカレーっていう食べ物であっためてご飯にかけて食べるんだ。人間界のだから口に合うかわからないが食べてみてくれ。」
レトルトのカレーを見て青磁と紫は不思議そうにしていたが、二人を思い出しお土産を持ってきてくれた蒼の気持ちがたいそう嬉しいらしい。
「ありがとう、蒼。何よりもその気持ちが嬉しいよ。いつもありがとう。早速靴下を履いてみるか。」
青磁と紫は毛糸の靴下を履いて、温かいと喜んでいる。
「ところで、水の管の話は聞いたか。」
青磁が聞いた。
「うん。賛成と反対がいるって聞いたよ。」
青磁は頷いた。
「水の管なんてな、今までもなかったんだからこれからもなくていいんだよ。今のままが一番いいんだ。」
賛成派との諍いを思い出したのか、青磁の語気が荒くなる。
「白磁まで水の管を作るべきだとぬかしやがる。あいつもなにもわかっちゃいない。」
そう言って首を振った。
「俺は昨日来たばかりだから何もわからないけど、何だか大変そうだな。」
いつも穏やかな青磁から怒りがにじみ、思ったよりも事態が深刻なことが蒼にもわかった。兄さんと姉さんの顔が見られて良かったと、蒼は青磁の家を後にした。
続いて蒼は白磁の家を訪ねた。
白磁とその嫁の墨も蒼が訪ねてきたことにいたく喜んだ。
皆とお揃いの毛糸の靴下を渡すと、早速その場で二人も靴下を履いて温かいと嬉しそうだ。
「父ちゃんと母ちゃん、青磁兄ちゃんたちにも同じ物を持ってきたから、みんなでお揃いだぞ。」
蒼がニコニコしながらそう言うと、
「蒼は水の管のことを聞いたか。」
と白磁はため息をついた。
「俺は昨日来たばかりだからな。よくはわからないが少しだけ聞いたよ。」
蒼が遠慮がちにそう言うと、
「みんなわかってない。変わらないことがいつも正しいわけじゃないのに。」
やはり諍いのことを思い出したのか、白磁は手を握りしめて怒りを露わにしている。白磁も普段は温厚な人柄だ。そんな兄が変わってしまっている。これはなかなか深刻だなと蒼は思った。
二人の兄の家を周り蒼が家に帰ると、ちょうど鉄が出かけるところだった。
「父ちゃん只今。どっかでかけるのか。」
「ああ。今日もまた寄り合い所で水の管の話し合いだ。」
「そうか、大変だな。少し雪が降り出したぞ。」
「雪が降って来たか。じゃあこいつを持っていくか。」
そう言って鉄は蛇の目傘を手に取った。
「俺も、行ってもいいのか?寄り合い所。」
蒼はふと思いついて聞いてみた。
意外な申し出に鉄は一瞬驚いていたが、
「大勢集まっているから、一人くらい増えても大丈夫だろう。じゃあ一緒に行くか。」
かわいい娘と一緒に出掛けられて鉄は嬉しいようだ。
「母ちゃん、父ちゃんと寄り合い所に行ってくるからな。」
大声を聞きつけて、家の奥から紺が出てきた。
「何だい、蒼もついて行くって。」
「ああ、一人くらい増えても大丈夫だろう。あまりかかるようなら先に帰ればいい。」
鉄と蒼は連れだって寄り合い所に向かった。
外は小雪が舞い始め、冷たい風が吹きすさんでいる。
家を出て郷の中心に向かう。中心に向かうにしたがってのどかな田園風景から少し賑やかな雰囲気になる。鬼たちは基本的に自給自足だが郷の中心には数件の店もある。洋品店、食料品店、小間物屋、時にはこれらの店を利用して鬼たちは日々の暮らしを営んでいる。
郷の中心の一角に“鬼の郷寄り合い所”がある。かやぶき屋根の大きな建物だ。決め事などをする時には皆がここに集まることになっている。
鉄と蒼が入っていくと、もう話合いは始まるようだった。50人くらいの鬼が集まり中央の囲炉裏を囲んで何重もの輪になって座っている。見渡すと、青磁と白磁の姿もあった。さらに集まった鬼を眺めていると、紅の姿を見つけた。どうやら蒼同様父親について来たらしい。蒼に気が付き小さく手を振っている。入口近くに鉄と蒼は腰を下ろした。
輪の中心にいた鬼の郷の長老が口を開いた。
「では、本日も水の管について議論するとしよう。意見のあるものは申してみよ。」
鬼の郷には赤鬼と青鬼がいるが、今の長老は青鬼だ。白髪に長い白髭を垂らしている。鬼も人間同様年をとれば白髪になったり髪が薄くなりもする。
一人の赤鬼が立ち上がった。
「俺は水の管に賛成だ。水はご飯作りはもちろんのこと、洗濯、掃除にも使う。その度に井戸や小川、湧き水から水を汲んで運ぶのは大変なことだ。しかもそれらは女たちがほとんどやっている。これが水の管で運べるようになれば、女たちが楽になって良いじゃないか。」
賛成派の鬼達から拍手が起こった。
「ちょっと待て。」
そう言って、別の赤鬼が立ち上がった。
「便利にはなるだろう。だが、どうやって水の管を造るんだ。この前の集まりでは竹の筒を使うと言っていたが、何十件もの家にどうやって行き渡らせるんだ。そこをはっきりさせられなきゃ作り始めるわけにはいかないだろう。」
今度は反対派の鬼達から拍手が起こった。
「そんなことを言っていたら、何も始まらないだろう。やってみなけりゃわからないことだってあるんだ。」
どこからかヤジが飛んできた。
「そんなことをして失敗したら誰が責任を取るんだ。」
ヤジの応戦が始まった。
「止め、止めい。発言するときには立ち上がってするように。」
長老がヤジを止めに入る。
「毎日これで、先に進まなんだ。」
小さな声で鉄が蒼に言った。こういうことかと蒼は状況がやっとわかった。
その時兄の白磁が立ち上がった。
「皆に聞いてほしい。今日は妹の蒼がここに来ている。蒼は命あって人間界で暮らしている。人間界には水の管が昔からあるんだ。蒼から人間界の水の管のことを聞いてみてはどうだろう。」
賛成派から大きな拍手が起こった。急に白磁からそんなことを言われ蒼は焦った。
「ではどうだろう、今日は紅も来ているな。二人から話を聞いてみるのはどうだ。」
長老がそう言うと、一言ヤジが入った。
「人間界にいるやつの話なんか聞けるか。なんで人間界になんて行ってるんだ。あんな外道の世界に。」
「なんだと。」
蒼が言い返す声にかぶせて、
「誰だ、今言ったのは。立ちやがれ、このやろう。」
「このやろう、俺の妹に向かって許さねえ。」
同時に言ったのは青磁と白磁だ。正しく鬼の形相の二人の兄に驚き、思わずクスっと蒼は笑ってしまった。
「文句があるなら正々堂々と言いやがれ。紅と蒼はな、天之御中主神の命で人間界に行ってんだからな。それに文句つけるってことは神様への不敬ってことだ。覚悟はあんだろうな。」
続けて青磁がそう言うと、場は静まり返った。
「文句はないんだな。じゃあ蒼、それから紅ちゃん、水の管のことを教えてくれ。」
白磁が二人を促した。
静まり返って何とも居心地悪い雰囲気の中、紅と蒼はその場に立ち上がった。二人は顔を見合わせ少し首をかしげたが、蒼が話し出した。
「人間の世界には水道っていう水の管がある。全部の人間の家に管が通っている。人間は家で水を使う時には、その管の根本をひねるだけできれいな水が出てくるんだ。」
鬼たちは黙って話を聞いているが、見たこともない水の管にイメージがわかないようだ。
「その水の管は家のどこにあるんだ。」
ある鬼が聞いた。
「家の中のいくつかの場所にある。まず台所には必ずある。それから風呂場にもある。蛇口をひねるだけで風呂が沸かせる。後はトイレだな。」
鬼たちはその話を聞いてガヤガヤしている。
「その水の管は流れてくる途中で壊れたて漏れたりしないのか。」
また誰かが聞いた。
「人間の世界では鉄のような硬い金属で水の管を造っているから、ほとんど壊れることがないんです。」
今度は紅が答えた。
あー、と鬼達から残念そうな声が漏れた。鬼の郷では包丁や斧などを造りはするが、金属で管を造るような技術はない。
「みんな、聞いただろう。金属で管を作るようなことができなけりゃ、水の管を郷全部に通すことは無理なんだ。そんなことをしなくても今まで通り、井戸や湧き水を汲んで使えばいいじゃないか。」
水の管に反対の青鬼が言った。反対派の鬼はそうだそうだと大声を出し、賛成派は押し黙ってしまった。
「あの、聞いても良いですか。そもそもどうして水の管を作ろうという話になったんですか。」
話を聞いていた紅が質問した。賛成派の鬼たちは顔を見合わせ、白磁が話し始めた。
「そもそもの発端は、郷の外れに住んでいる藍ばあさんなんだ。ばあさんは年をとっているからもう足腰が弱っていてな、水汲みが大変なんだ。ちょうど俺が畑でできた大根を持って行ったら井戸から水を汲んでいるところで、それはそれは大変そうだった。そこから病気や年をとった鬼の水くみの話題が寄り合いであがるようになって、どうにかできないものかと話し合った結果水の管を郷に通したらいいじゃないかということになったんだ。」
賛成派が弱者を助けようとしていることには、どの鬼も賛成なのだろう。
「もちろん反対派の鬼だって、困っている鬼を助けてやりたい気持ちはあるんだ。ただ、本当に郷中に水の管を通すことは無理だろうと反対しているんだ。」
反対派もただただ反対している訳でもなさそうだ。
「ならば、水の管じゃなくても水汲みが楽になる方法があればいいんですね。」
紅が他の鬼に聞くと、うんうんと皆が頷いた。
「水汲みが楽になる方法ね~。」
それぞれが、額に手を当てたり顎に手を当てたりしながら考えている。
「郷の中で、年寄りや病気の鬼の家に交代で水汲みの手伝いに行ったらいいか。」
一人が発言した。
「しかしな、毎日のことだからうっかり当番を忘れたりしたら困ったことになる。」
確かにその通りだと、また振出しに戻る。その時蒼が言った。
「ずっと前に聞いたんだけど、湧き水の石って鬼の郷にはないのか。あの石を置くとそこから水が湧くっていうやつ。」
「ああ、湧き水の石か。」
そう言って多くの鬼が顔を上げた。
「湧き水の石なら確か、鬼の郷にも二つくらいはあったはずじゃ。」
そう言って長老が顎髭をなでた。
「二つじゃ足りないな。」
鬼たちはまた俯いた。
「湧き水の石は神様に言えばもらえるんじゃないか。俺おみず様に頼んでみるよ。」
蒼が提案した。
「おみず様とは、罔象女神のことか。蒼が頼めるのか。」
長老が驚いている。蒼は照れくさそうに、
「ああ、困っている鬼のためだからな聞いてみるよ。」
そう言って鼻をこすった。
「では、皆の衆。もしも湧き水の石がいくつかあれば、それを年寄りや病気の鬼の家に置くということでどうじゃろう。水の管の代わりの案ということで。」
鬼たちから賛成の拍手が起こった。今まで賛成派と反対派に分かれて険悪だった雰囲気が解け、朗らかな雰囲気へと変わった。
青磁と白磁が蒼の所にやって来た。
「お手柄だな、蒼。」
そう言って青磁と白磁が蒼の頭をワシワシと撫でる。二人の兄はもう仲直りしたようだ。これは何としてもおみず様に湧き水の石をもらわないと、と蒼は思った。
寄り合いは解散となった。
「蒼、明日にでもおみず様に会いに行こうか。」
寄り合い所の出口で紅が声をかけてきた。
「そうだな、一緒に行ってくれるか。」
「当り前じゃない。」
そう言って紅は笑っている。真言坊ではそんなことを言わなくてもいつも一緒だから、何だか変な感じだ。
「二子山のふもとの湧き水の水だまりがいいかな。」
「そうだね。あそこなら水が澄んでいてきれいだから、おみず様も来てくれるかもしれないね。じゃ、明日の朝集合ね。」
明日の約束をしてそれぞれの家に帰って行った。
翌朝、湧き水の水だまりに紅と蒼が立っていた。ふたこぶらくだの背のように二つの山が仲良く並んだ二子山。その山に沁み込んだ雨水が地中でろ過され、山ふもとの岩から湧き出している。あふれた湧き水がたまって池のようになっているところを、鬼たちは水だまりと呼んでいる。水だまりの水はどこまでも透明だが、奥は深い藍色に見える。
蒼が水だまりの淵に立って声を掛けた。
「おみず様、真言坊の蒼です。おみず様にお願いがあります。二子山のふもとの水だまりに来てもらえませんか。」
紅と蒼が水の中を覗き込んでいると、水の中からブクブクと水の泡が上がったかと思うと、ヌっとおみず様が現れた。今日は錦鯉の姿だ。
「私を呼んだのは、えーとここで良かったかしら。」
錦鯉のおみず様は水の中から頭をだして、キョロキョロしている。
「おみず様、忙しい所来てもらってありがとうございます。」
蒼が頭を下げた。
「ありがとうございます。」
紅も頭を下げた。
「ああ、紅さんと蒼さん、こんにちは。えーっとここは真言坊じゃなくて、鬼の郷。ああ、里帰りしてるのね。そういうことね。」
おみず様はやっと合点が言ったようだ。
「実はおみず様にお願いがあって、すみませんが呼んでしまいました。」
さすがに神様に来てもらって、蒼も恐縮している。
「何言ってるの、あなた方と私の仲ではありませんか。お願いって。」
いつもながら優しいおみず様である。
紅と蒼はこれまでの鬼の郷の話をし、湧き水の石をもっともらうことは出来ないだろうかとおみず様に相談した。
「あらあら、そんなのお安い御用よ。その辺に良いような大きさの石はあるかしら。あったら持ってきてください。」
紅と蒼が辺りを見渡すと、ちょうど人が座れるくらいの石がいくつかある。二人は石を水だまりまで運んだ。
「おみず様、これでいいですか。」
「いいですよ。」
そう言うと、錦鯉のおみず様はくるっと回ってお姫様の姿になり、水の外に出てきた。
置かれた石をひい、ふう、みいと人差し指で数えながら何やら呪文のようなものを唱えている。
「みたまの水、ここに満ちよ。清らの流れ、石に宿れ。」
一瞬石が光ったように見え、その後光が石に沁み込んだように見えた。
「これでよし。後はこの石を使いやすいように削ったりすればもう使えますよ。」
そう言うと、おみず様はまた水の中に戻り錦鯉の姿に戻った。
「おみず様、ありがとうございます。」
紅と蒼はお礼を言って深く頭を下げた。
「そうそう、もっと数を増やしたければ、石を集めてまた私を呼んでね。」
「その時はまたお願いします。」
蒼が返事をするや否や、おみず様は水だまりの奥へと消えて行った。
「そうそう、使わない時は蓋するの忘れないようにー、ね。」
姿は見えないが、おみず様の声が辺りに響き渡る。
「よかったね。」
紅と蒼はいくつもの石を軽々と担いで帰って行った。
紅と蒼がいくつもの湧き水の石を持って帰ると、鬼たちはたいそう喜んですぐに石の加工に取り掛かった。ある程度水が溜まるように表面を洗面器に様な形に彫れば、いつでも水が湧き出るようになる。そして使わない時には蓋をしておけば水は止まる。これで年寄りや病気で体が不自由な鬼達もずいぶん助かることだろう。
加工された湧き水の石の一つは紅の家にも運ばれてきた。
「これで母さんもずいぶん水汲みが楽になるね。」
嬉しそうに紅が湧き水の石を見回している。
「本当に助かります。青磁さん石の加工をして、しかも家まで運んでもらってありがとうございました。」
紅の母茜が深々と頭を下げた。
「こんなのお安い御用ですよ。紅ちゃんにはうちの蒼がいつも良くしてもらって、お礼には足りないくらいだ。」
そう言って青磁は笑った。
紅の母は昔から病弱で、今はだいぶ良くなったが以前は寝たり起きたりの生活だった。健康な鬼にはなんて事のない水汲みも体力のない茜には負担であった。
そこへ父の琥珀が帰って来た。
「これは青磁さん、どうも。」
「ちょうど今、湧き水の石を持ってきてくれたんだよ。」
紅が話すと、
「それはそれは、忙しい所ありがとうございました。これで茜も助かります。」
ありがたいと言って頭を下げた。青磁はお礼にお茶の葉をたくさんもらって帰って行った。
「父さん、今日はもう店を閉めたの。」
琥珀は寄り合い所の近くに煎じ薬の店を出している。人間の世界でいうと薬局の様なものだ。山に入り、様々な薬草を採ってきては煎じて薬にして店で売っている。
「ああ、せっかく紅が里帰りしているんだから、こんな時くらいはいいだろう。」
一人娘の紅が一年ぶりに帰ってきて嬉しいのだ。
「湧き水の石も置いてもらって、良かったな茜。」
妻の体をいつもいたわっている琥珀は、茜の負担が減ることに安堵している。
「本当にありがたいわ。今回もおみず様に手間をかけてしまったわね。」
申し訳なさそうに茜が言う。
「そうだね。母さんが元気になったのもおみず様のお陰だものね。」
ずっと昔のこと、紅と蒼は神界に行って禁忌とされている神の影を踏んでしまった。その陰の主はおみず様だったのだ。影を踏んだことを詫び、それがきっかけでおみず様と話ができる間柄になった。ある時、紅の母が病弱なことを知るとおみず様は“水霊草”のことを教えてくれた。清らかな水の流れる所に生える水霊草、これを煎じて飲めば体の巡りが整うとのことだった。早速琥珀が山に分け入って水霊草を探し出し煎じ薬にして飲むと、茜の体調はみるみる良くなって言った。今でもこの煎じ薬を欠かさず飲むようにしている。
「何かお礼が出来るといいんだけどね。」
「お礼ね、何しろ相手は神様だから。今度会ったらよくお礼言っておくね。」
神様へのお礼となると紅も検討がつかない。今度それとなく聞いてみようと思う紅であった。
「さあ、今日も何か紅が喜ぶ夕飯を作りましょう。」
茜にしても娘が帰ってきて嬉しい。紅が喜ぶ物をたくさん作ってやろうと思うのであった。
鬼の郷に湧き水の石が新たに加えられ、水の管の問題は解決した。鬼が力持ちだからと言って女衆ばかりに負担をかけず、男衆も率先して水汲みをするようにと長老からのお達しもあった。
そして真言坊に戻る時がやって来た。
「紅、体には気を付けるんだよ。」
茜が紅を抱きしめる。父の琥珀も茜ごと紅を抱きしめる。
「紅、頑張り過ぎないように。何かあればすぐに帰ってくればいいんだ。」
別れの時はいつも切ない。
「一年なんてすぐだからね。また帰ってくるよ。」
紅は両親に手を振りながら蒼の家に向かった。
蒼の家には青磁と紫、白磁と墨も見送りに来ていた。
「蒼、今回はいろいろ世話になったな。水の管の件が何とかなったのはお前たちのお陰だ。」
なあ、と青磁と白磁が顔を見合わせている。
「そうか、俺と紅が帰ってきてよかったな。」
蒼が照れ笑いをすると、皆が一緒になって笑った。ちょうどそこに紅がやって来た。
「蒼、体に気を付けるんだよ。あんまり無理するんじゃないよ。」
紺が紅を抱きしめる。
「母ちゃん、母ちゃんも父ちゃんもそっちこそ体に気をつけろよ。」
蒼は寂しい気持ちを悟られないよう、わざとつっけんどんに言った。
「紅ちゃん、また蒼を宜しくお願いしますね。」
そう言って紺と鉄が頭を下げた。その姿を見た蒼は目頭が熱くなって、慌てて走り出した。
「じゃーなー。みんなー、また帰ってくるからなー。」
「お世話になりました。また帰ってきます。」
ペコリとお辞儀をすると、紅は蒼の後を追って走り出した。
「蒼―、待ってよー。」
蒼は涙をごまかすために走り続けた。そのまま信号坊の竈につながる滝まで来てしまった。
いつの間にか涙は止まったが、息が上がったのは止まらない。肩でぜえぜえと深く呼吸していると、紅が走って来た。
「もう、寂しいからって先に行かないでよ。」
蒼の顔を覗き込み、
「もしかして、泣いてた。」
意外そうに紅が言うと、
「泣くわけないだろう。」
蒼が目をそらした。
名残惜しくはあるが、今となっては紅と蒼の居場所は真言坊にある。
「じゃあ、帰ろうか。真言坊へ。」
紅が言うと、蒼が大きく頷いた。




