第4話 勇者は村に入る
山道は思っていたより険しかった。
舗装の途切れた旧道は、土砂崩れや倒木によって分断されていた。東京から遠ざかるほど、道端に残る車や建物は少なくなっていった。
代わりに、周囲を囲む雑木林の深さが増していく。
「……」
不滅の少女は俺の服の裾を小さな手で強く掴んだまま、一歩一歩踏みしめるように歩いていた。
足取りは重く、呼吸もどこか荒い。
「少し、休むか?」
俺が足を止めて声をかけると、不滅は首を横に振った。
「……大丈夫」
「無理しなくていい。急ぐ旅でもないんだ」
近くにあった手頃な倒木に目をやり、手で煤を払う。そこに座るよう促すと、彼女は素直に腰を下ろした。膝を抱えるように丸くなる姿は、痛々しいほど小さい。
俺は背負った袋から保存水を取り出した。
ずっしりとしていたはずの水容器は、もう驚くほど軽い。
(水も……そろそろ底を突きかけるな)
キャップを開け、まずは不滅に手渡す。
彼女は小さな両手でそれを受け取ると、ちびちびと大事そうに口に含んだ。カサカサに乾いていた唇が、わずかに潤いを取り戻していく。
一口飲んで満足したのか、不滅は容器を差し出してきた。受け取った俺も一口だけ喉を鳴らし、残量を確かめてからキャップを閉めた。
かつて勇者だった頃、俺たちが食事や睡眠を気にする必要はほとんどなかった。
だが、これからはただの人間として生きていく。
そう決めた以上、水も、食べ物も、探さなければならない。
「腹、減ったか?」
尋ねると、不滅は自分の腹に手を当てることもなく、ただ首を傾げていた。
「……わからない」
空腹という感覚そのものを、忘れてしまったのかもしれない。
少女のカサカサに乾いた唇を見る。
「どこかで、探さないとな」
俺たちはもう勇者じゃない。
泥臭く、当たり前に生きていくだけだ。
◇
再び歩き始めてから、一時間ほどが過ぎた頃だった。
斜面を這うように続く山道のカーブを抜けた先で、俺の鼻腔がかすかな臭いを捉えた。
木々が燃える焦げ臭さや、戦場の硝煙ではない。
飯を炊く薪の煙と、濡れた土の匂い。
「……ん?」
視線を上げると、眼下の山あいに開けた集落が見えた。
立ち上る数本の白い煙。段々畑の筋。古びた木造住宅が数十軒、肩を寄せ合うように集まっている。古い軽トラックや、共同の水場らしき屋根も見えた。
「人が……いるのか?」
不滅が不安そうに、俺の背中に身を寄せてくる。
「大丈夫だ。何かあっても、俺が何とかする」
不滅の頭に小さく手を置き、言い聞かせる。
俺たちは慎重に山を下り、集落の入口へと足を踏み入れた。
◇
村は静まり返っていた。
それでも畑の脇に鍬が立てかけられており、井戸の周りには汲みかけの水バケツが置いてある。生活の営みがあった。
足音を忍ばせて進もうとした時、集落の小さな公民館の影から、農具を持った数人の男たちが現れた。
「……誰だ!?」
男たちの手にあるのは、錆びた鍬や竹槍だ。目は鋭く、頬はこけていた。
「この辺じゃ見ない顔だな……どこから来た?」
不滅がビクッと肩を跳ねさせ、俺の背中に完全に身を隠す。
俺は両手を挙げ、敵意がないことを示した。
「すまない。襲いかかりに来たわけじゃない。……できれば、少しだけ水と、食べ物を分けてもらえないか」
「……避難民か?」
年配の男が、油断なくこちらを睨みつける。
「身元を証明できるものはあるのか? 最近は山を下りてくる人間も増えてな。身元も分からん奴を簡単に置くわけにはいかんのだ」
「身分証は……持っていない」
俺は首を振った。
牢獄に長く閉じ込められていた。
身分を証明するものなど、何ひとつとして持っていない。
「持っていない、だと……?」
村人たちがざわつく。
警戒するのも無理はない。
この状況で、身元不明の人間はリスクでしかないのだろう。
不滅を庇うように一歩引いた。
「……まあ、いいじゃねえか。村長」
鍬を持っていた少し若い男が、息を吐きながら言った。
「身分証なんて、俺たちだって今さら何の役に立つか分からん代物だ。着の身着のままで逃げてきたんだろ。連れている女の子を見てみろよ。今にも倒れそうだ」
「しかしな、余分な食料なんてうちにも……」
「追い返したって、山で野垂れ死にするだけだ。胸糞が悪い。……公民館の脇にある古い納屋、あそこなら空いてただろ。一晩くらい雨風をしのがせてやったって、バチは当たらんだろ」
村長と呼ばれた老人は俺たちの泥まみれの格好と、俺の後ろで震える不滅の姿を交互に見つめ、苦々しい顔で深く溜息をつく。
「……盗みや怪しい真似をしたら、容赦なく叩き出すからな。いいな?」
「……ああ。ありがとう」
俺は深く頭を下げた。
こんなふうに誰かから居場所を与えられたのは、いつ以来だろうか。
◇
案内されたのは、集落の端にある古びた納屋だった。
木漏れ日が隙間から差し込み、藁と古い土の臭いが立ち込めている。
「物好きなお客さんだねぇ」
納屋の手入れをしていた老婦人が、崩れた棚を片付けながら言った。
「ここは昔、農具置き場だったんだがね。……あーあ、この倒れかけた作業台、邪魔なんだけど重くて動かせなくてねぇ」
それは、大人三人がかりでも動かすのが難しそうな、分厚い樫の木の作業台だった。
脚が折れ、納屋の入口を半ば塞ぐ形で傾いている。
「俺がやりましょうか」
「え? いやいや、お兄さん一人じゃ無理だよ。今度、若手の衆を集めて……」
俺は作業台に近づくと、片手でその端を持ち上げた。
ぎぎぎ、と音を立てて巨木のような木材が持ち上がる。
そのまま雑作もなく持ち上げ、納屋の壁際へ移動させた。
ドスン、と鈍い音が響く。
「……え?」
老婦人が目を丸くし、ポカンと口を開けた。
「なに、今の……あんた、力持ちどころの騒ぎじゃないね……?」
「いや……昔から身体だけは頑丈で」
俺は素っ気なく答えた。
これくらい大したことではない。
「……普通の人間かい、本当に?」
老婦人は引きつった笑みを浮かべて首をかしげていたが、それ以上は何も聞いてこなかった。
「……まあ、助かったよ。これ、少ないけど持ってお行き」
老婦人が小さなおにぎり二つと、水が入った竹筒を差し出してきた。
「いいのか?」
「いいよ。力仕事のお礼だ。……その子にも食べさせてあげな」
俺はおにぎりと水を受け取り、頭を下げた。
◇
納屋の中に二人きりになると、静寂が訪れた。
俺は藁を敷き詰め、その上に持ってきていた薄い布を広げた。
彼女を座らせ、受け取ったおにぎりを一つ手渡す。
不滅は小さな手でおにぎりを受け取り、不思議そうに見つめていた。
「食べないのか」
俺が先に自分のおにぎりを齧って見せると、彼女も小さく口を開け、おにぎりを一口齧った。
「……」
モグモグと噛み締め、ゴクリと飲み込む。
「……味が、する」
「そうか。よかった」
干からびて冷え切った、ただの塩むすびだ。
不滅はおにぎりを大切そうに少しずつ食べ進め、竹筒から水を飲んだ。
食事が終わると、急速に疲労が押し寄せてきたようだった。
不滅の瞼が重そうに閉じかけ、身体が揺れる。
「横になれ。ここで休んでおくといい」
「……眠って、いいの?」
不滅が不安げな目で俺を見上げて尋ねてきた。
「ああ」
俺は彼女の背中に手を当て、横に寝かせた。
「俺が隣にいる。……だから、安心して眠るといい」
「……うん」
不滅は俺の手を握ったまま、目を閉じた。
数分もしないうちに、規則正しい小さな寝息が聞こえ始める。
俺はその隣に腰を下ろし、背中を壁に預けた。
(……俺も、少し休むか)
俺も目を閉じた。
固い藁の感触が妙に心地よかった。




