第3話 勇者はもう死んだんだろ
どこへ行くのかも分からない。
それでも俺たちは、東京を背に歩き始めた。
アスファルトに刻まれた亀裂、道端に放置され乗り捨てられた車、引きちぎられた看板。
足元には、避難しようとした人々が落としていったのだろう、泥にまみれた鞄や靴が散らばっていた。
「……」
不滅は、俺の手をぎゅっと握ったまま、小さく呼吸を整えるように歩いている。
長年の封印と処刑で砕かれかけた彼女の精神は、まだ完全には戻っていない。
一歩一歩踏みしめる足取りは覚束なく、視線はどこか遠くを彷徨っている。
「……どこへ、行くの?」
ふと、不滅が小さな声で尋ねてきた。
牢獄にいた頃よりは、ほんの少しだけ言葉が出やすくなっている。
「分からない」
俺は隠さず、素直に答えた。
そして、少しだけ歩調を緩めてから言葉を重ねる。
「……人の少ないところへ行こう。お前が安心して眠れるような場所を探す」
「……うん」
少女は小さく頷き、俺の手にそっと自分の体温を預けてきた。
◇
壊れた幹線道路を北へ向かって歩き続けた。
東京の境界を抜けても、景色の惨状は大きく変わらなかった。
ひっくり返ったバス、崩落した歩道橋、炎に包まれた跡のあるガソリンスタンド。
被害は首都圏だけに留まっていないことが、否応なしに理解できた。
やがて、街道沿いに大きな建物の影が見えてきた。
かつてドライブインや物産店として使われていた道の駅だ。
駐車場には数台の車が固められ、敷地の隅に燃え殻の山がある。
人の気配があった。
「水があるかもしれない。少し寄っていこう」
俺が声をかけると、不滅は無言で小さく頷いた。
ガラスの割れた自動ドアを潜り、建物の奥へ進む。
薄暗いロビーの隅で、薄汚れた毛布にくるまっていた十数人の避難民たちが、びくっと肩を震わせてこちらを見た。
「ひっ……誰だ!?」
棒切れや果物ナイフを手にした中年男が、怯えた目で立ち上がる。
地下駐車場にいた連中のような、狂気じみた排斥の雰囲気はない。
ただ、怯えているだけだった。
「ただの通りすがりだ。害はない。水か、使えそうな情報があればと思ったんだが」
俺が静かに手を示して見せると、男は拍子抜けしたように緊張を緩め、力なく息を吐いた。
「なんだ……生存者か。脅かすなよ。……あんたたち、東京の方から来たのか?」
「ああ」
「そうか……やっぱり、東京はもう駄目なんだな」
男は膝から崩れるように座り込み、頭を抱えた。
周りにいた避難民たちも、暗い表情でうつむく。
「ここだって同じだよ。昨日の夜からラジオの行政放送もぷっつり止まった。政府がどうなってるのか、他の県がどうなってるのかも分からん。……俺たちは見捨てられたのかもな」
男は吐き捨てるでもなく、ただ膝を抱えた。
「……勇者がいた頃は、まだ何とかなっていたのにな」
輪の中にいた別の若い男が、ぽつりと呟いた。
「あいつらが魔族の幹部を倒して、前線を押し戻してくれていた時は、まだテレビも映っていたし、警察だって機能していた。……なのに、どうしてこうなったんだ」
「馬鹿言え」
最初に声をかけてきた中年男が、吐き捨てるように首を振る。
「勇者なんて、とっくに一人もいないだろ。半年前の政府発表を忘れたのか? 『勇者たちは権力を貪り、魔族と裏で通じて戦争を長引かせていた大罪人だ』って。全員処刑されたって、大々的にニュースで流れてただろ」
「……」
俺は口を挟まなかった。
(……全員処分、か)
俺たちが地下深くの黒い牢獄で殺され続けていた間、表の世界ではそういう公式発表がなされていたようだ。
毛布にくるまっていた老人が、ふと首を傾げた。
「……でも、おかしいんだよなぁ」
「何がだよ、じいさん」
「あの政府の発表だよ。テレビじゃ『悪徳な勇者は全員処分し、我が国に平和が訪れた』なんて言ってたろ。……でもな、先週ここを通りかかった避難民が言ってたんだ。自衛隊の生き残りを襲っていた魔族の奴らが、こう笑っていたって」
老人はしわくちゃの顔を歪め、顎髭をなでながら呟いた。
「『勇者どもがまだ生きているらしいぞ』『上の命令で探し出せ』……ってな」
「……」
俺の眉が、わずかに動いた。
(……なぜ、魔族がその情報を知っている?)
牢獄にいた俺たちには、外の情報なんて何ひとつ届かなかった。
それなのに、あいつらは俺たちが生きていることを知っていた。
(……何かがおかしい)
背筋に生ぬるい汗が走る。
だが、それ以上思考を深める気力も、突き止める理由もなかった。
「なあ、お兄さん」
老人がぼんやりと俺の顔を見上げてきた。
「あんた、ガタイが良いな。元自衛官か何かかい? ……もし、もしもだ。勇者様が一人でも生き残っていたら、この国を救ってくれると思うかね……?」
かすかな期待の眼差し。
「……さあな」
俺は視線を逸らした。
「もう勇者はいないじゃないか。……仮に生きていたとしても、な」
「……そうだよな。都合のいい時だけ頼って、用が済んだら悪者扱いだ。戻ってくるわけねぇよな……」
老人は寂しそうに笑い、それ以上追及してはこなかった。
「……それとな」
去り際、若い男が思い出したように呟いた。
「魔族の奴ら……戦争が始まった時から、おかしかったんだ。あいつら、急に空から攻めてきたんじゃない。……戦争が始まったその日に、街の中にいたんだよ。普通の服を着て、普通に日本語を話して、隣人みたいに暮らしていた奴らが、いきなり背中から人間を襲い始めたんだ」
「……人間に化けていたのか?」
「分からん。でも、最初は本当に普通の人間だと思ってたんだ……」
会話はそこで途切れた。
これ以上、ここで得られる情報はなさそうだった。
俺はわずかな保存水を分けてもらい、道の駅を後にした。
◇
再び、静まり返った国道を歩く。
空はどんよりと重く、風が焦げた臭いを運んでくる。
(……魔族は、最初からいたのか)
歩きながら、思考が巡る。
魔族は侵攻の前から日本社会の中に潜伏していた。
俺たちが牢獄で殺され続けている間に、この国は少しずつ、内側から崩れていたのだ。
(俺たちは……何のために戦ってきたんだ)
足が止まった。
理不尽への憤り。無力感。
血を吐くような訓練に耐え、仲間を失い、身を削って魔族と戦い続けた日々。
その結末がこれだ。
国を守るどころか、国そのものが自分たちを裏切り、崩壊していった。
口からはため息だけが出てくる。
その怒りを、声に出して叫ぶことはしなかった。
激昂し、拳を振るい、この狂った世界や国に対して復讐を誓う。
そんな情熱すら、湧いてこなかった。
(……もう、いい)
再び歩き出す。
日本を取り戻す。
魔族をすべて倒す。
もう一度、勇者としてこの国を救う。
そんなものは、もう俺の仕事じゃない。
この国がどうなろうと、人々が俺たちをどう評価しようと、それは俺の知ったことではない。
「……どうするの?」
不滅の少女が、後ろで足を止め、俺の顔を見つめていた。
俺がどうするのか。
それだけを確かめるように。
俺は立ち止まり、彼女を振り返った。
「……どうもしない」
俺は言った。
「国へ戻るつもりもないし、魔族と戦うつもりもない。俺はもう……勇者じゃない」
「……」
「ただ、お前を一人にはしない」
不滅がわずかに目を見張った。
命令されたからでも、正義感からでもない。
ただ、俺自身がそうしたいから。
「……うん」
不滅は小さく首を縦に振った。
その唇が、ほんの少しだけ柔らかく弛んだように見えた。
俺は前方のどこまでも続く、山あいの道を指さした。
「あそこで、少し休もう」
「……うん」
俺は不滅の手を握り直した。




