第2話 勇者は帰る場所がない
自由になった。
けれど、帰る場所は、もうどこにもなかった。
頭上を覆い尽くす黒煙の隙間から、濁った灰色の日差しが落ちている。
肺に吸い込んだ空気は、かつて記憶にあった都市の匂いではなかった。
焦げたコンクリートとアスファルト、そして魔力の残滓が混ざり合った、歪んだ鉄の臭い。
「……ここは」
数年前まで見慣れていたはずの幹線道路は見る影もなかった。
ひっくり返って炭化した車の列と、山のように積み上がった崩落現場。
高層ビル群の背骨はへし折られ、天を突いていたガラス壁の残骸が地面へ突き刺さっている。
遠くで、地鳴りのような爆発音が響いた。
ふと見上げた空の煙を割って、人間ではないシルエットが数体、悠々と飛翔していくのが見えた。角を生やし、黒い翼を広げた異形――魔族だ。
俺たちが地下牢獄に閉じ込められていた間、外の世界は、俺の知る日本ではなくなっていた。
「……っ」
隣で、小さな水音がした。
不滅の少女が、瓦礫の端につまずき、膝をついていた。
長年の処刑の反動か、彼女の身体は鉛のように重そうで、呼吸すら浅い。
着古した白い衣は煤と血で汚れ、肩がかすかに震えている。
「大丈夫か」
俺は屈み込み、彼女の細い腕を支えた。
何度か瞬きしてから、彼女は顔を上げた。
その瞳は焦点を結ばず、薄い膜が張ったように虚ろだった。
唇が不規則に戦慄き、小さな声で何かを呟こうとしては、声にならない呼気が漏れるだけ。
「……無理に喋らなくていい」
俺は背中を叩く代わりに、ただ倒れないようしっかりと脇を抱えた。
死なない。
けれど、心まで壊れないわけじゃない。
壊れていないのが不思議なほどだ。
言葉で慰めることなんてできない。
俺にできるのは、ただ彼女をこの殺伐とした空間で一人にしないことだけ。
とりあえず、人の気配を探すことにした。
これだけの街だ。どこかに生き残っている人間はいるだろう。
何が起きたのか、そしてここは東京のどのあたりなのか、確かめる必要があった。
車道沿いの瓦礫を避けながら、俺たちは開けた地下駐車場の入り口へと足を進めた。
スロープの奥から、かすかな人間の匂いと、複数の息潜める気配が漂っていた。
「……人がいる」
俺は不滅の手を引き、暗がりの中へと一歩を踏み出した。
◇
「おい……誰か入ってきたぞ」
「ひっ……! 魔族か!?」
地下駐車場の奥、放置された大型バンの陰から、ひそひそとした怯え声が聞こえた。
目を凝らすと、薄汚れた服を着た十数人の男女が、身を寄せ合うようにうずくまっていた。
子供を抱きかかえる母親や、血の滲んだ包帯を頭に巻いた老人。
まぎれもない、この街の生存者たちだ。
「安心しろ。俺たちは魔族じゃない」
俺は両手を小さく広げ、一歩ずつ近づいた。
数年ぶりの人間との遭遇。俺たちの姿を見て、彼らが安堵してくれるのではないかという、甘い期待が頭の片隅にあったのかもしれない。
「待て……来ないでくれ!」
先頭に立っていた男が鉄パイプを構え、震える手で俺を指さした。
「あいつ……あの顔……!」
「嘘だろ……反撃の勇者……!?」
名を呼ばれ、思わず足が前に出た。
(知っているのか……?)
俺たちのことを覚えていてくれたのか。俺たちが以前、幾度となく命を懸けて魔族の侵攻を防ぎ、彼らの平和を守っていたことを。
だが、若い母親は悲鳴を上げて子供を懐に抱き込み、目隠しをする。
別の男は「本当に勇者なのか……?」と困惑したように立ち尽くし、先頭の男は激しい恐怖から声を裏返らせた。
「なんで生きているんだよ! 処分されたんじゃなかったのか!?」
「頼むからあっちへ行ってくれ! 勇者と一緒にいたら、魔族に見つかる……!」
「国を戦争に巻き込んだ悪魔どもだぞ……巻き込むな!」
ひときわ若い女性が、子供の目を手で覆い、悲鳴を上げた。
男たちは拾った金属パイプや割れたコンクリート片を構え、震える手で俺たちを指し示している。
「おい、出ていけ! 俺たちを巻き込むな!」
「お願いだから……どこかへ行って……!」
投げつけられる言葉のナイフ。
怒号。拒絶。排斥。
「…………」
俺は、足を止めた。
なぜここまで怯えられるのか。
『勇者は危険分子だ』
『平和を乱す悪魔として処分した』
プロパガンダ。
俺たちが暗い地下牢獄で連日殺され、刻まれていた間に、地上ではそういう物語が完成していたのだ。国を守るために戦った俺たちは、いつの間にか国を滅ぼしかけた大罪人に仕立て上げられていた。
「……そうか」
俺は呟いた。
彼らを怒鳴りつける気にもならなかった。
鉄パイプを握る手が震えている。
怖いだけなのだろう。
ただ生き残るためにテレビや政府の言葉を信じ、怯えているだけだ。
「……悪かったな。すぐに去る」
俺が背を向けかけると、奥でうずくまっていた包帯姿の老人が、震える声でぽつりと問いを投げかけた。
「……日本は、もう終わりなんですか……? 政府も……勇者様たちも……」
老人は俺を責めなかった。ただ、答えを待つようにこちらを見ていた。
俺は振り返らず、歩みを止めないまま、肩越しに低く答えた。
「政府がどうなっているかは知らん。だが……俺たちが戦う理由は、もうなくなった」
それだけを言い残し、俺は不滅の細い手を取って、地下駐車場の暗がりを後にした。
◇
地下から外へ出ると、上空の黒煙が一層濃くなっていた。
「……全部」
不滅の少女がポツリと呟いた。
消え入りそうな小さな声だった。
彼女はうつむいたまま、俺の手をぎゅっと深く握り返してきた。
「……嘘だったんだ」
「気にするな」
俺は言った。
「俺たちが死力を尽くしたのは事実だ。あいつらがそれをどう受け取ろうと、俺たちの過去まで消えるわけじゃない。……ただ、これ以上、あいつらのために血を流す必要がなくなった。それだけだ」
これで終わりだ。そう思った。
なのに、少女の握る手だけが妙に熱かった。
日本を守る。勇者として戦う。
長年、俺の人生を縛りつけていた目的が、脆くも砕け散っていく音が聞こえるようだった。
ガシャッ、と瓦礫が崩れた。
「ほお……? 妙な気配がすると思えば」
崩壊したビルの二階部分から、黒い影が飛び降りてきた。
着地と同時にアスファルトが大きく割り砕ける。現れたのは、角を生やした二足歩行の異形。その背後から、さらに二人、同様の魔族が降り立ってきた。
魔族のひとりが、俺の顔を凝視し、醜悪な唇を歪めて笑った。
「おいおい、見ろよ。……反撃じゃねえか。それと、あの不滅だ」
「政府の連中は、勇者は全員処分したと言っていたぞ」
「ケケッ! まさか、まだ生きて逃げ出していたとはな。まあいい、手柄が増えるだけだ!」
魔族たちは、迷いなく武器を抜いた。
奴らがなぜ俺たちの存在や処理状況を知っているのか。
何か裏があるのは確かだったが、深く考える前に敵は踏み込んできた。
「死ねぇっ、勇者!」
斧が振り下ろされる。
次の瞬間には、刃が俺の首へ迫っていた
一撃でビルすら断ち切るような殺意の薪割り。
(来るなら――)
俺は武器すら抜かず、ただ意識を集中させた。
(――返す)
魔族の斧が、俺の首筋に届く寸前。
斧の軌道が反転した。
ズドンッ!
「ガっ……!?」
強烈な衝撃音が響き、斧を振り下ろしたはずの魔族の身体が、まるで巨大な槌で殴打されたように真横へ吹き飛んだ。
自らが放った斬撃をそのまま叩き込まれ、身構える間もなく瓦礫の中へと没していく。
「な、なんだと!?」
「奴は何もしていないぞ!」
残る二体の魔族が動揺し、後ずさる。
一体が叫んだ。手のひらに火球が膨れ上がる。
「吹き飛べぇッ!」
ゴオッ! と爆炎が迫る。
俺は不滅の少女を庇うように一歩前へ出た。
(返す)
俺に届く直前、火炎球の軌道が突然反転した。
火球は向きを変え、放った魔族へ戻っていった。
「ギャアアアアアッ!?」
自らの炎に焼かれ、転がり回る魔族。
残った最後の一体は、ガタガタと膝を震わせ、上空へと羽ばたいて逃走し始めた。
「ひ……ひぃいっ! バケモノだ……!」
遠ざかっていく影を見送りながら、俺はふっと息を吐いた。
(……昔から変わらない。襲われたから身を守り、その結果として相手が自滅した。それだけだ)
追って倒す必要も感じなかった。
殺すこと自体が目的ではない。
「……逃げるの?」
背後から、不滅の少女がかすかな声で尋ねてきた。
「今は離れるのが先だ。追う意味もない」
俺は不滅の手を引くと、足を早めてその場を離れた。
◇
どれだけ歩いただろう。
気づけば、俺たちは東京を抜ける高架道路の上にいた。
振り返る。
視界の果てに広がるのは、黒煙と炎に包まれた大都市の残骸だった。
あそこには、かつて俺が歩いた街並みがあった。
共に戦い、散っていった仲間たちの記憶があった。
そして、俺たちを排斥した人々が生きている。
「…………」
隣を見る。
不滅の少女が、崩壊した街を見つめていた。
命を捧げて国を守り、最後は暗い地下室で刻まれ続けた。
彼女にとっても、この国にはもう帰る場所なんて残っていない。
(なら――)
俺は、彼女の小さく冷たい手を、もう一度しっかりと握りしめた。
(せめて、この子が静かに生きられる場所を探そう)
国を守るためでも、勇者として戦うためでもない。
大きな目的は消え去った。
それでも、この傷ついた少女一人を守ることならできる。
魔族の手も、人間の悪意も届かない、静かな場所へ。




