第1話 勇者は牢から外に出る
もう、何年ここにいるのだろう。
視界を埋め尽くすのは、無機質で分厚い灰色。窓はない。光源といえば、天井の隅で仄暗く明滅する埋め込み式の蛍光灯だけだった。
時間を知る術はない。腕時計はとっくに没収されたし、カレンダーなんて高級品が配給されるはずもない。
だが、仮にそれらがあったとしても、俺にとっては意味をなさなかっただろう。
腹が減らない。
喉も乾かない。
どれだけまばたきを忘れて過ごそうと、睡魔が襲ってくる気配すらなかった。
肌に刻まれるはずの皺も、白髪も、この体に生じる兆候は一切ない。
普通の人間であれば、やがて寿命という絶対の終着点が訪れ、こんな牢獄生活にも終わりが来ただろう。
だが、俺には来ない。
手首を固定する冷たい拘束具を、虚ろな目で見つめる。
時の流れすら凍りついたこの暗闇で、俺はただ、生きているということを無目的に引き延ばしているだけだった。
――かつて、俺たちは勇者と呼ばれていた。
脳裏に浮かぶのは、焦土と化した街の記憶だ。
空を真っ黒に埋め尽くす、異形なる魔族の群れ。悲鳴と怒号。崩落するビル群。
その惨劇の最前線に、俺たち十二人は立っていた。
三日眠らずに戦った。飯を口に運ぶ暇すらなかった。
隣で戦う仲間の背中と、背中を合わせる。自分たちの血で濡れた土地を踏みしめながら、ただこの国を守るという一心だけで、俺たちは刀を、槍を、拳を振るい続けた。
そして――俺たちは勝ったのだ。
過酷な戦いの果てに魔族を退け、日本に平和をもたらした。
あの時は、誰もが笑っていた。これで終わったのだと、俺も固く信じていた。
けれど。
『――危険な戦争犯罪者を放置するのか!』
『勇者たちの過剰な暴力こそが、魔族との対話を妨げていた!』
『彼らは平和の破壊者だ。年間何百億円もの税金を貪る怪物だ!』
いつからだったか。
テレビから聞こえてくる声が、少しずつ変わっていった。
政府が、マスメディアが、掌を返したように俺たちを叩き始めた。
『勇者は、いらない』
街頭で掲げられるプラカード。連日報じられるプロパガンダ。
かつて俺たちに感謝の言葉を投げていた人々が、今や汚物でも見るかのような目で蔑んでいる。
俺たちが命をかけて守った人々が、俺たちを「A級戦犯」として排除することを求めていた。
怒りよりも先に、激しい困惑が胸を突いた。
なぜだ、と。
俺たちはただ、言われるがままに人を守っただけだ。
誰かを威圧したこともない。
自慢したこともない。
それなのに、なぜ俺たちは怪物として蔑まれ、ここに繋がれているのだろう。
何度考えても答えは出なかった。
ドン、と壁の向こうから鈍い振動が伝わってきた。
隣の独房。そこにいる彼女の気配に、俺は耳をそばだてた。
ドサリと重いものが倒れる音。続いて、床を濡らす湿った音が耳に届く。
……また、処刑が行われたらしい。
壁の隙間から覗くわずかな光の向こう。
そこに横たわっているのは、不滅の勇者だ。
彼女の能力は、完璧すぎる再生。
首を落とされようと、心臓を穿たれようと、その肉体は一切の狂いもなく元の状態へと復元される。
死ぬことができない身体。
だからこそ、政府はこの施設で彼女を死なせるための実験を繰り返していた。
肉体だけならすぐに元へ戻る。
ただ、その瞳に光が戻ることはない。
処刑が終わった室内で、彼女が体を丸め、弱々しく震えているのが気配で分かった。
一度死を味わされた恐怖と苦痛は、
消えることなく彼女の心に刻まれ続けている。
その瞳は、何も映していない。
「……すまん」
壁に向かって、俺はぽつりと呟く。
俺の力をもってしても、壁一枚隔てただけの彼女を救うことすらできない。
自分の無力が、ただ虚しかった。
その時だった。
空気を切り裂くような高音の警報音が、施設内に響き渡った。
『緊急事態! 緊急事態! 全職員は退避――』
アナウンスが途中で途切れ、激しい爆発音が足を揺らした。
地響き。
天井からパラパラとコンクリートの塵が落ちてくる。
廊下を走り去る靴音。
看守たちの怒号と、
悲鳴。
「魔族だ! 魔族の主力部隊が侵攻してきたぞ!」
「ありえない! 和平条約はどうなったんだ!?」
「勇者どもを解放しろ! いや、殺せ! 手遅れになる前に――」
廊下から、怒鳴り声が途切れ途切れに聞こえた。
魔族の侵攻。……勇者を全員閉じ込め、無防備になったこの国に、奴らが再び襲いかかってきた。
自ら武器を捨て、防衛線を破棄した結末がこれか。
そう考えた途端。
ズキン、と全身の細胞が鳴動した。
まるで、体に固く巻き付けられていた見えない鎖が、不意にぷつりと千切れたかのような感覚。
肺が大きく膨らみ、手足の先まで熱い血が巡り出す。
(これは……能力の抑制が、消えた……?)
俺たちの能力を抑え込んでいた勇者の力が、完全に途絶えたのだ。
久しぶりに、自分の体が真に自分のも|の《》として戻ってきた感覚がした。
「おい! 起きろ怪物!」
鉄格子の外に、自動小銃を構えた警備兵が立ち塞がっていた。
顔を真っ青にし、引き金にかけた指を激しく震わせている。
「お前たちが……お前たちが大人しく死なないからこんなことになるんだ! 死ね、死んでくれ!」
叫びとともに、銃口が跳ねた。
発砲音。
放たれた数発の鉛弾が俺の胸元へと迫ってくる。
俺は逃げない。
身構えることすらしない。
ただ、迫ってくる弾丸を見つめた。
(来るなら――返す)
直後。
打撃音すらなく、空中を飛んでいた弾丸が真逆の軌道を描いて跳ね返った。
「がぁっ!?」
自ら放った銃弾を胸と肩に浴び、警備兵が血を噴き出して倒れ込む。
俺の固有能力反撃。
俺自身から攻撃することはできない。
だが、俺に向けられたあらゆる攻撃は、そのまま返すことができる。
ひび割れ、崩れ落ちた鉄格子の隙間から、俺は廊下へ足を踏み出した。
「……よし。まだ、使えるな」
拳を握る。力は戻っている。
このまま一人で逃げれば、警備兵が何人来ようと、今の俺なら止められない。
荒れ果てた施設内を抜け出し、自由になる道筋は既に見えていた。
だが、非常口へ向かいかけた足が、止まった。
振り返った視線の先。破壊された隣の独房の奥で、小さく丸まったまま動けない少女がいる。
一人なら、もっと早く逃げられる。
彼女を連れていけば、遅くなる。
それでも、置いてはいけなかった。
「……あんな子を置いていったら、寝覚めが悪い」
俺は引き返し、少女の元へと歩み寄った。
膝を折り、目の前で差し伸べた手に、彼女がビクッと肩を揺らす。
恐る恐る顔を上げた彼女の瞳に、俺の姿が映っていた。
「立てるか?」
不滅の少女は、言葉を発することができない様子で、ただ呆然と俺を見つめている。
俺は彼女の震える手を包むように握った。
「逃げるぞ。こんな場所は、もう終わりだ」
崩れ落ちた施設の非常口を破り、俺たちは数年ぶりに外の空気を吸った。
熱風が顔を叩いた。
空は煙で黒く染まり、あちこちに火柱が立っている。
高層ビルは途中から折れ、道路には瓦礫が散らばっていた。
炎の向こうを、魔族が鳥のように旋回していた。
あんなにも栄え、俺たちが命をかけて守り抜いた都市が、見る影もなく崩壊している。
「……日本が、こんなことに」
勇者を捨て、平和に酔いしれた末路が、この惨状か。
自業自得だと思えばいい。
そう思おうとした。
胸の奥には何も残らなかった。
俺は少女の手を握り直し、足を踏み出す。
自由になった。
けれど、帰る場所は、もうどこにもなかった。




