第9話 戻ってこい、と言われましても
馬車は、昼過ぎに着きました。
二台でございます。一台目は塗りの黒いもので二台目は荷でございました。坂を上りきったところで馬が止まってしばらく動きませんでした。四日の道は、馬にも堪えます。
降りてこられたのは、二人でございました。一人は式部の御方でございます。お顔は存じませんが外套の留め具で分かりました。王宮の式部は、あの形の留め具しか使いません。
もう一人は、給仕頭でございました。八年、毎晩わたくしに皿を運んでこられた方です。ラントの坂を上ってこられるお姿は、はじめて拝見いたしました。
「イレーナ・ドーレン殿」
式部の御方が、そう仰いました。
「はい」
「殿下の名代としてまいりました」
屋敷の広間へ通しました。ヴァンス様が上座に座られてわたくしは戸口の近くに立っておりました。座るように言われましたが、立っておりました。八年、座って話を聞いたことがございません。
「単刀直入に申し上げる」
式部の御方は、荷から一通の書き付けを出されました。
「王宮へお戻りいただきたい」
わたくしは書き付けを受け取って開きました。御膳検分官への復職。俸給は三倍。身分は一段上。加えて、先の断罪の記録を抹消する。適性を欠くという判断を取り消し、名誉を回復する。
三つとも、書いてございました。
「三倍でございますか」
「不足であれば、掛け合う用意がある」
「いえ」
わたくしは書き付けを畳みました。
「お断りいたします」
広間が静まりました。
式部の御方が少し身を乗り出されました。
「……理由をうかがっても」
「はい」
わたくしは、書き付けをお返しいたしました。
「わたくしが戻りましても、また同じことが起きるからでございます」
「同じこと、とは」
「わたくしが、いなくなることでございます」
式部の御方は黙られました。
「わたくしは八年おりました。八年おりましたが、おりましたことを誰も知らなくてよい仕組みになっておりました。ですので、いなくなったときに、誰も代わりを立てられませんでした」
「それは、そなたが特別であったからだ」
「そうではございません」
わたくしは首を振りました。
「わたくしは特別ではございません。八年ぶんの覚えを持っているだけでございます。覚えは、紙に写せます。写してあります。写した紙が使われていないだけでございます」
王宮が失ったのは、毒見役ではございません。毒見役は替えが利きます。現に十四の子が座っております。座っただけでは足りないのは、座る者に渡すものが無いからでございます。
王宮が失ったのは、保証でございました。
保証というのは人ではございません。あの皿は検めましたと書いた紙が、去年のぶんも一昨年のぶんも棚に並んでいて、いつでも開けられるという状態のことでございます。並んでいる限り、書いた者が誰であっても保証は立ちます。並んでいなければ、書いた者がその場にいても保証は立ちません。
ですのでわたくしを戻しても、直りません。
直るのは、棚のほうでございます。このことを八年、一度も申し上げたことがございませんでした。申し上げる相手がおりませんでしたし、申し上げても仕方のないことだと思っておりました。棚は目の前にあって、開ければ済むものでしたので。
無くなってはじめて、言葉にする必要が出てまいりました。
「……九十六冊か」
「はい」
給仕頭が、そこではじめて口を開かれました。
「あの、その帳面は」
「棚の三段目でございます」
わたくしは申し上げました。
「三段目の、右から二番目が、わたくしの最後の一冊でございます。その左に九十五冊。古いものから左へ並べてまいりましたので、いちばん左が八年前の四月でございます」
式部の御方が、こちらをご覧になりました。
「内膳頭は、紛失したと申しておる」
「さようでございますか」
「そなたが持ち出したのではないのか」
「わたくしの荷は、布の袋ひとつでございました」
わたくしは戸口の脇を指しました。ここへ来たときの袋が、まだそこに置いてございます。
「九十六冊は、両手で抱えて胸までございます。この袋には入りません」
式部の御方が、袋をご覧になりました。それから、給仕頭のほうをご覧になりました。
「わたくしは」
給仕頭が仰いました。
「わたくしは、あの棚を存じております。三十年、あの廊下を歩いてまいりました。三段目に帳面が並んでいるのを、毎日見ております」
「いつまで見た」
「……見なくなったのは、いつからでしょうか」
給仕頭は、そこで言葉を止められました。毎日見ているものは、無くなっても数日は気づきません。目が、そこにあるものとして通り過ぎるからでございます。
「ひとつ、お願いがございます」
わたくしは申し上げました。
「なんなりと」
「棚の三段目を、お開けください」
「開ける、とは」
「扉に鍵がかかっておりましたら、開けていただきたいのです。それだけでございます」
式部の御方が、眉を寄せられました。
「それが、そなたの条件か」
「条件ではございません。お願いでございます」
「同じことであろう」
「違います」
わたくしは申し上げました。
「条件でしたら、わたくしが戻る話になります。戻りませんので、条件にはなりません。ただ、あの帳面が無いままですと、次にどなたが検分官になられても、同じことが起きます」
「同じこと」
「見当が立ちません。見当のない毒見は、目を塞いだまま川を渡るのと同じでございます。いま、十四の子がそれをやっております」
給仕頭が、下を向かれました。
「わたくしは戻りません。ですが、あの子が三年で覚えられるものに七年かけねばならないのは、あの子の落ち度ではございません。帳面があれば三年でございます」
式部の御方はしばらく黙っておられました。それから立ち上がられました。
「明日、発つ」
「はい」
「四日で戻る。戻ってすぐ、あの棚を開ける」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない」
その方は外套の留め具を直されました。
「そなたが正しければ、わたくしは内膳頭に嘘をつかれたことになる。それを確かめに行くだけだ」
夕方、給仕頭が厨房の裏で待っておられました。手に、包みを持っておられます。
「これを」
開けましたら、匙が一本入っておりました。銀でございます。柄のところが細くなっております。指の当たる場所だけが減った匙でございました。
「あの日、卓の上に置いていかれたものです」
「……なぜ、お持ちで」
「内膳頭様が、片づけろと仰いましたので」
給仕頭は包みの布を畳まれました。
「片づけました。わたくしの部屋の、いちばん下の引き出しに」
わたくしは匙を持ちました。八年この持ち方しかしたことがございません。手が勝手にその形になりました。
毒見役の匙は柄が細うございます。太いと指の力が入って掬う量が毎回変わりますので、細くして持ち方を一つに決めます。決まった持ち方でしか持てない道具というのは、持つ者を選びません。八年やった者も一日目の者も、同じ量を掬います。
道具のほうが先にそう作ってございます。良い作りでございます。
良い作りをした方が、どこかにおられたということでもございます。何百年か前でしょうか。その方の名前は、どこにも残っておりません。
残っているのは匙の形だけでございます。それで足りるのだと思いました。
その晩、ヴァンス様が厨房の入口に立っておられました。
「断ったんだってな」
「はい」
「三倍だろう」
「三倍でございます」
「惜しくないのか」
「惜しくございません」
ヴァンス様は少し笑われて、卓の上の椀を指されました。バルダ様が置いていかれた、根菜の煮たものでございます。
「で、どうだった」
わたくしは椀を見ました。
今日、はじめて自分で抜いた根でございます。肩が一寸出ておりました。
「……まだ、申し上げられません」
「そうか」
ヴァンス様は、それだけ仰って出ていかれました。
椀は温こうございました。抜いた根はまだ土の匂いが残っておりまして、煮てもその匂いは消えません。消えないほうがよいのだとバルダ様は仰います。消してしまうと、どこの根でも同じになるからだそうでございます。
四日でございます。
四日後に、あの棚が開きます。
毎日見ているものは、無くなっても数日は気づきません。目が「そこにあるもの」として通り過ぎるからです。帳面九十六冊が消えるのに三日かかるというのは、そういう意味です。
棚が開くまで、あと四日でございます。開いたあとの話は、まとめて一度にお目にかけます。
評価やブックマークをいただけますと、あの帳面の一行が、もう一行だけ読まれます。読まれた紙は、そこから働きます。




