第10話 あの日、わたくしは申し上げました
四日と仰いましたが、戻ってこられたのは八日目でございました。
馬車は三台になっておりました。一台目に式部の御方。二台目に給仕頭。三台目は幌をかけた荷車で、坂の途中で一度止まって、馬を替えてから上ってこられました。
荷車の幌が外されました。
木の箱が四つ積んでございます。ひとつの箱に二十四冊。四つで九十六冊でございます。わたくしは、それを見ておりました。
「棚の三段目にあった」
式部の御方が仰いました。
「鍵はかかっておりませんでした。扉を引いたら、開きました」
鍵はかかっておりません。あの棚に鍵はもともとございません。八年、一度も掛けたことがございません。
「内膳頭に確かめた。紛失したと申したのは、探させたが見つからなかった、という意味であったと」
「探された場所は」
「言わなかった」
式部の御方は箱のひとつに手を置かれました。
「それで、殿下の御前で開いた」
「はい」
「読めぬのだ」
わたくしは顔を上げました。
「読めぬ、と申しますと」
「文字は読める。書いてあることが分からぬ」
式部の御方は箱の蓋を外して、上の一冊をこちらへ差し出されました。
わたくしは受け取って、開きました。三年前の九月でございます。頁の右の端に日付、左に十七行。行の頭に丸か、三角か、二重の丸がついております。丸は問題なし。三角は要注意。二重の丸は、その日いちばん見た皿でございます。
行の途中に、縦の棒が入っております。棒の左が匂い、右が味でございます。棒の下に小さく数が書いてあるものは、口をすすいだ回数です。二回以上すすいだ皿は、何かがあった皿でございます。
これは、わたくしが考えたものではございません。父に教わりました。父は、その父に教わったと申しておりました。
「これを、殿下に説明できる者がおらなんだ」
式部の御方が仰いました。
「厨房の者を五人集めた。誰も読めぬ。医師にも見せた。読めぬ。内膳頭は」
そこで、少し間がございました。
「内膳頭は、そのような書き方は正規のものではないと申した」
正規のものでございます。
御膳検分官の記法と申しまして、王宮ができたころから同じものを使っております。ただ、教わる者が一代に一人か二人でございますので、教わっていない方には読めません。
「読めますか」
「読めます」
「では」
式部の御方は、いちばん下の箱を指されました。
「あの日の頁を」
わたくしは荷車から箱を降ろして、蓋を開けました。いちばん上に、あの一冊がございました。棚に戻すとき、いちばん右の空いた場所に入れたものでございます。
開きました。
十七行、ございました。
わたくしは声に出して読みました。
一行目。前菜、卵と香草。丸。棒の左に「香草、乾。粉あり」。棒の右に「可」。
二行目。前菜、魚の酢漬け。丸。棒の左に「酢、薄。三月前より」。棒の右に「可。日持ち二日減」。
三行目。前菜、菜の和え。丸。
四行目。汁、豆。丸。
五行目。汁、鶏。三角。棒の左に「鶏、前日締め。可」。
式部の御方が、途中で手を上げられました。
「その、三角というのは」
「注意でございます。悪くはございませんが、次の日には出せないという意味です」
「危険ではないのか」
「危険でしたら、丸も三角もつけません。線を引いて下げさせます」
「下げたことはあるのか」
「八年で、十一皿ございます」
わたくしは読み続けました。六行目から十行目まで、丸が四つと三角が一つ。
十一行目。肉、仔羊。白ソース添え。
ここに、二重の丸がついております。
わたくしは、その行を読みました。
「白ソース。乳と発酵酪。棒の左、匂いに異常なし。棒の右、味に異常なし。すすぎ、三回」
「三回」
「三回すすぎましたのは、皿そのものではなく、取り合わせを見ていたからでございます」
わたくしは頁を指しました。十一行目の下に、行と行のあいだへ小さく書き足した一行がございます。
この一行だけ、記法を使っておりません。誰にでも読める字で書いてございます。わたくしはそれを読みました。
「オルシュ嬢、白花の雫を常用。白ソースと取り合わせ不可。本日はお控えいただくよう進言。内膳頭より、口外を禁ぜらる」
広間は、もとから誰も喋っておられませんでした。ただ、そのあとしばらく、どなたも次の言葉をお出しになりませんでした。式部の御方が一度、口を開いて、そのまま閉じられました。
「……白花の雫」
式部の御方が仰いました。
「ご存じでございますか」
「知っておる。肌を白く見せるものだ。侯爵家の侍女が持っておった。三年、毎朝つけておられたそうだ」
「三年」
「調べさせた。二日前に分かった」
わたくしは帳面を閉じませんでした。開いたまま、持っておりました。
「それを、そなたは知っておったのか」
「はい」
「なぜ分かる」
「匂いでございます」
わたくしは申し上げました。
「二年ほど前から、オルシュ様がお近くに来られると、白粉のほかにもうひとつ匂いがいたしました。はじめは香油かと思っておりましたが、香油でしたら日によって変わります。毎日同じでしたので、香油ではございません」
「それだけか」
「それだけでございます。ただ、それだけで足りました。あとは、その匂いの出るものが、どの皿と合わないかを覚えておけばよいだけでございます」
「なぜ、内膳頭はこれを止めた」
式部の御方が仰いました。
「人前で、侯爵家の御令嬢のお薬の話をするなと」
「それだけか」
「そのときは、それだけだと思っておりました」
いまは、そう思っておりません。あの一行を人に読ませますと、その隣の行も読まれます。二行目の「酢、薄。三月前より」も、その前の頁の「油、替。同値にて二倍」も読まれます。三年ぶん、月に一冊、三十六冊ございます。
あの一行だけを消すことはできません。帳面は綴じてございますので、一枚抜けば前後の頁が緩みます。緩んだ帳面は、抜いたことがすぐに分かります。
ですので、一冊ごと隠すか、九十六冊ごと隠すかのどちらかになります。九十六冊ごと、でございました。
式部の御方が、給仕頭のほうをご覧になりました。給仕頭は、荷車の縁に手をついておられました。
「わたくしは」
給仕頭が仰いました。
「わたくしは、あの晩、その皿を運びました」
「はい」
「イレーナ殿が、内膳頭様のところへ帳面を持っていかれるのを見ております。運ぶ前でございました」
「はい」
「戻ってこられたとき、何も仰いませんでしたので、済んだのだと思っておりました」
済んでおりません。
済んでいないということを、わたくしはあのとき申し上げませんでした。
申し上げても仕方がなかったからでございます。給仕頭には皿を止める権限がございません。権限のない方に申し上げると、その方が困るだけでございます。
困らせないのが、思いやりだと思っておりました。いま考えますと、あれは、わたくしが楽をしたということでもございます。
式部の御方が箱の蓋を閉められました。
「この四箱、王都へ戻す」
「はい」
「そなたに読み方を教わりたい」
「三年かかります」
「三年でも構わぬ」
「わたくしは、王宮へは戻りません」
「戻れとは申しておらぬ」
式部の御方は、こちらをご覧になりました。
「教えに来いとも申さぬ。書いてくれ。読み方を、紙に」
わたくしは、帳面を持ったまま、しばらく黙っておりました。
書いたことがございません。父はわたくしに、口で教えました。父の父も、そうだったのだと思います。一代に一人か二人でしたので、書く必要がございませんでした。
「……書けるかどうか、分かりません」
「分からぬのか」
「はい。ただ」
わたくしは頁の、あの一行を見ました。誰にでも読める字で書いた一行でございます。あの日、記法では足りないと思って、そちらで書きました。
読まれませんでした。
読まれませんでしたが、読める形で残っておりましたので、八日目のいま、読まれました。
「……書いてみます」
式部の御方が発たれる前に、もうひとつ、うかがいました。
「オルシュ様は、いかがされておられますか」
「起きられた。三度目はまだ無い」
「白花の雫は」
式部の御方が、荷車のほうを向かれました。
「取り上げた」
「はい」
「三日後に、別の壺を買っておられた」
わたくしは、それを聞いて、うかがったことを少し後悔いたしました。
うかがわなければ、三度目はまだ無い、というところで終わっておりました。
御膳検分官の記法は、王宮ができたころから同じものを使っています。行頭の丸は問題なし、三角は注意、二重の丸はその日いちばん見た皿。縦の棒の左が匂いで右が味、棒の下の数字はすすいだ回数です。教わる者が一代に一人か二人しかいないので、書き残す必要がありませんでした。
オルシュ様が三日後に買われた壺のことは、次にお話しいたします。




