第11話 自業自得というほかありません
手引きを書きはじめて、十日になりました。
思っていたより進みません。丸と三角と二重の丸のことは三行で書けました。棒の左右も二行で済みました。詰まりましたのは、そのあとでございます。
三角をつけるのはどういうときか。
悪くはないが次の日には出せないもの、と書きました。書いてから、では次の日に出せないというのはどうやって分かるのかと、自分で思いました。それを書こうとしますと、鶏の締めた日と、その日の気温と、置いてある場所の風の通りと、切り分けたのが朝か夕かが要ります。
父はそういうことを一度も言葉にいたしませんでした。父はわたくしの手を持って、鶏の肩のところへ指を当てさせました。それだけでございます。三年やっているうちに、分かるようになりました。
指を当てさせるということを、紙にどう書けばよいのか。
十日、そこで止まっております。書けないのではございません。書けば書けます。鶏の肩へ指を当てる、と書けば済みます。
済まないのは、その先でございます。指を当てて何を見るのか。冷たさか、硬さか、押したあとの戻り方か。全部でございます。全部と書いた紙を渡されて、それで分かる方がおられるかと申しますと、おられません。
父はそれを知っていたから書かなかったのだと思います。
ただ、父が書かなかったせいで、父の知っていたことは父とともに終わりました。いま王宮に残っているのは、わたくしの記法で書かれた九十六冊と、その読み方を知る者が一人という状態でございます。
同じことをもう一度やるわけにはまいりません。
昼過ぎに、坂の下から荷車が上ってまいりました。麻の袋を積んだ荷車でございます。もう三度目ですので幌の色で分かりました。
「よう」
「ご無沙汰しております」
「いいことがあってな」
その方は荷車を止めて袋のひとつを叩かれました。
「入れたよ、蔵に」
「王宮の」
「ああ。二十日ぶりだ」
その方は荷台に腰を掛けられました。
「あんた、あれだろ。帳面のやつ」
「はい」
「あれで、上がひっくり返ってる」
わたくしは畑の土を落とした手を布で拭いて荷車の脇に立ちました。
「内膳頭が、飛んだ」
「飛んだ、と申しますと」
「役をとられた。四日前だ」
その方はそれを言いに来られたのだと思いました。荷を入れるだけなら王都で終わっております。
「どういう形でございましょう」
「そこがな、面白いんだ」
その方は袋の縄をほどきながら話されました。帳面が出てきたあと、内膳頭様は下働きの一人が隠していたと仰ったそうでございます。名を挙げて、その者を厨房から出せと。
挙げられたのは、十七の男の子でございました。あの棚の廊下を掃除する係でございます。ところがその子が出される前に、厨房の者が三人、紙を持って出てまいりました。
「紙?」
「そう。何刻に誰が何をしたか、毎日書いてたやつだ」
わたくしは荷車の縁に手を置きました。
「あれは、あの子が倒れたときに書きはじめたんだと。誰かが献立を送ってきて、書いて残せって書いてあったから、それで始めたって」
「……はい」
「それが、十日ぶんくらい溜まってたわけだ」
十四枚が六日で。十日でしたら二十四枚ほどでございましょうか。
「その紙にな、書いてあったんだよ。棚の廊下を掃除したのは何刻で、そのとき箱を運んでたのは誰で、運んだ先はどこか」
「……運んだ先が」
「内膳頭の部屋の隣だ」
その方は縄をほどき終えてこちらをご覧になりました。
「掃除の子は、その日、廊下にいたんだと。いたから、見てるんだよ。見てても、言えなかった。相手が誰だか分かってるからな」
「はい」
「でも、紙には書いてあった。あの子が書いたんじゃない。厨房の三人が、あの子から聞いて書いたんだ。何刻に何を見たかってな」
わたくしはしばらく何も申し上げませんでした。
書いて残すこと、と書きました。あの四行目でございます。三日ぶんの献立の下に、四つ足したうちの最後の一行でございます。
あれは、鼠取りの皿を数えるためのものでございました。数えたことを誰かが忘れないように、紙に残しておけば、次の人が同じところを二度数えずに済みます。それだけのつもりでございました。
書いた紙は残ります。
残るというのは、書いた本人の都合とは関わりなく残るということでございます。わたくしが八年書いたものは、わたくしを助けるために残ったのではございません。ただ棚にあっただけで、八年目に一度だけ役に立ちました。
厨房の三人が書いた二十四枚も同じでございましょう。あの三人は誰かを追い落とすつもりで書いたのではございません。何刻に何をしたかを書いただけです。
書いただけのものが、いちばん強うございます。書いた者の思惑が入っていないからでございます。思惑の入った紙は読んだ方が思惑のぶんを引いて読みます。思惑のない紙からは、引くものがございません。
「で、内膳頭が何て言ったと思う」
「……分かりません」
「厨房の者に、そんな紙を書く権限はない、だとよ」
その方は笑われました。
「そしたら三人が、権限がなくても書けますって言ったんだと。書くのに許可が要るなんて、誰にも言われてませんって」
要りません。
紙と筆があれば書けます。読むほうには権限が要りますが、書くほうには要りません。八年、わたくしはそのことに助けられてまいりました。
「三人とも、まだ厨房にいるよ」
「掃除の子は」
「いる。役が上がったって聞いた」
その日の夕方、給仕頭からの文も届きました。内膳頭様のことは、そちらへ先に届いているだろうと書いてございました。
そのあとに、オルシュ様のことが書いてございました。
三度目は、まだ無いこと。
ただ、壺は三つ目になっていること。侯爵家からは、壺を取り上げるよう二度申し渡されているが、二度とも別の壺が出てくること。
それから、こう書いてございました。
侍女に聞きました。
オルシュ様には、二つ上の姉君がおられます。姉君は五年前に他家へ嫁がれました。嫁がれる前の三年、侯爵家に来る客は皆、姉君のことを先に褒めたそうでございます。
白い方でございました。
オルシュ様が最初の壺をお求めになったのは、姉君が嫁がれた年の春でございます。わたくしはそこで文を置きました。
置いてからしばらく畑のほうを見ておりました。
同情はいたします。
同情はいたしますが、あの日わたくしが申し上げたことをお聞きにならなかったのは姉君のせいではございません。人前で薬の話をされたくないというお気持ちは分かりますが、控えていただきたいと申し上げたのは、その一皿だけでございました。
一皿でございます。
十七のうちの一皿を控えていただければ、あの晩、倒れることはございませんでした。わたくしはそう思って、それを思ってよいのかどうかを少し考えました。
考えて、思ってよいことにいたしました。
夜、ヴァンス様が広間の火のそばにおられました。
「王都は片づいたな」
「片づいたのでしょうか」
「内膳頭は飛んだ。帳面は戻った。子どもは生きてる。じゅうぶんだろう」
「はい」
ヴァンス様は火に薪を足されました。
「で、あんたはどうする」
わたくしは顔を上げました。
「畑は終わりだ。根も抜いた。麦は春まで動かん」
「はい」
「うちで冬を越すなら、それでいい。ただ、越すなら越すで、部屋を移してもらう。北の部屋は冷える」
「……はい」
「王都へ戻るなら、雪が来る前だ。来たら春まで坂が閉まる」
返事は、出てまいりませんでした。八年、行き先を自分で決めたことがございません。決めるという仕事がわたくしの役目に入っておりませんでした。
毒見役の一日は朝の四刻に起きて、夜の九刻に帳面を閉じるまで全部決まっております。何刻に蔵へ行き、何刻に献立を受け取り、何刻に検分室へ入るか。決まっていないところがございません。
決まっていると楽でございます。迷う場所がないというのは迷わなくてよいということでございます。八年、わたくしは一度も迷いませんでした。迷わずに済むということを、わたくしは自分の性分だと思っておりました。
いま、迷っております。
ですので性分ではなかったのでしょう。
その晩、屋根に音がいたしました。はじめは雨だと思いました。窓を開けましたら、雨ではございませんでした。
ラントに、雪が降りはじめておりました。
紙と筆があれば、誰でも書けます。読むほうには権限が要りますが、書くほうには要りません。厨房の三人が「書くのに許可が要るなんて、誰にも言われていない」と申し上げたのは、そういう意味でございます。
坂が閉まるまで、あと幾日かございます。閉まる前に、一度どこかへ行くか、行かないかを決めねばなりません。




