第12話 味の分からない女に、食卓は務まりません
雪は、三日降り続きました。
四日目の朝に止んで坂が閉まりました。坂が閉まりますと、下から荷車が上がってこられなくなります。人の足なら通れますが、通る用のある方がおられません。
春まで、この屋敷の食べ物は蔵にあるものだけになります。わたくしは蔵の検分をいたしました。頼まれてはおりませんが、ほかにすることがございません。
塩漬けの肉が十一。市で選んだ二軒目のものでございます。豆が四袋。根菜は土をつけたまま砂に埋めてございます。麦が二俵。干した杏が二箱。乳酪の壺が六つ。
紙に書いて、蔵の扉の内側に貼りました。何がどれだけあって、どれから先に食べるべきかを書きました。乳酪は二月まで、干し杏は三月まで、塩漬けは春まで持ちます。根菜は砂の湿り具合を十日に一度見ないといけません。
貼ってから、バルダ様が来られてしばらくそれを見ておられました。
「読めないんだけどね」
「申し訳ございません。絵にいたします」
「いや、いいよ。順番だろ、これ」
「はい」
「上から食えってことだね」
「そうでございます」
バルダ様は指で紙をなぞって、いちばん下の行を叩かれました。
「これは」
「乳酪でございます。二月までに使い切りませんと、そのあとは油が回ります」
「ふうん」
バルダ様は蔵を出ていかれました。
その晩、ヴァンス様が広間におられました。火のそばに椅子を二つ置いて片方に座っておられます。もう片方が空いておりましたので、わたくしは立っておりました。
「座れ」
「はい」
座りました。
しばらくどちらも何も申し上げませんでした。薪が一度、大きく鳴りました。
「手引きは」
わたくしは膝の上の手を見ました。
「三分の一でございます」
「書けないところは」
「指の当て方でございます」
「まだそこか」
この十日で書けたのは一行でございます。
「まだそこでございます」
ヴァンス様は火のほうを向いておられました。
「イレーナ」
「はい」
「春になっても、ここにいればいい」
「畑は、春から動きます」
「そうじゃない」
ヴァンス様はそこで一度、言葉を切られました。
「そうじゃなくてだな」
「はい」
「その、なんだ。ずっとだ」
薪がもう一度鳴りました。
わたくしは火を見ておりました。こういうことを申される方だとは思っておりませんでした。八年、わたくしにこういうことを仰った方はおられません。毒見役に近づく方はおられません。近づくと、食卓の話をせねばならなくなるからでございます。
「お断りいたします」
わたくしは申し上げました。
「理由は」
「わたくしには、味が分かりません」
「知ってる」
存じておられたのかと思いました。
「ご存じでございましたか」
「四か月見てりゃ分かる」
ヴァンス様はこちらを向かれました。
「あんた、うまいともまずいとも一度も言ってない。傷んでるとか塩が多いとかは言う。そこから先を言わない」
「はい」
「なんでだ」
「出てこないからでございます」
わたくしは膝の上で手を組みました。
「八年、口に入れたものを安全か危険かで分けてまいりました。分けるためには、そのほかを考えてはいけません。おいしいと思ってしまいますと、次の一口が甘くなります」
「それで、思わないようにしたのか」
「はい」
「いつからだ」
薪の火が、一度低くなりました。
「はじめの年でございます」
入って半年ほどは、思っておりました。思ったうえで、分けられておりました。
その年の暮れに一度、思ってしまったせいで、三角をつけるべき皿に丸をつけました。夜のうちに気がついて、翌朝、下げました。誰も倒れておりません。
誰も倒れておりませんが、あの日から思わないようにいたしました。八年でございます。八年、思わないようにしておりましたら思わなくなりました。
「わたくしの父も、同じ役でございました」
「聞いた」
「父は二十二年つとめて、辞めました。辞めた日、荷は袋ひとつでございました」
「匙は」
父の匙は、いまも王宮のどこかにございます。返した先の方はもうおられません。
「返してまいりました」
わたくしは火のほうを見ました。
「父はそれから十六年生きております。いまも家におります。ただ、その十六年のあいだ、一度も戻りませんでした」
「戻らないのか」
「父は戻りませんでした」
「そうか」
ヴァンス様は椅子の背に寄りかかられました。
「うちの母親はな」
「はい」
「うちの母親も、それだ」
わたくしはヴァンス様のほうを向きました。
「ラントは国境だ。昔はここでも毒見を置いてた。母は二十年やった。前の領主、つまり親父の毒見だ。そのうち一緒になった」
「……はい」
「おれが物心ついたころには、もう分からなくなってた。飯を出しても何も言わない。うまいもまずいもない。塩が多いとは言う」
同じでございました。
塩が多いとは言うのです。そこは残ります。多い少ないは量の話で、量は数えられます。数えられるものは最後まで分かります。
分からなくなるのは、数えられないほうでございます。ですのであの言い方を聞けば、その方がどこまで残っているかが分かります。塩の話しかしない人は、もう向こう側におります。
わたくしは八年、塩の話しかしておりませんでした。
「それで、おれは毎日聞いた」
「毎日」
「今日は何が美味かった、って。子どもだからな。母親が答えないのが、ただ嫌だったんだ」
ヴァンス様は火を見ておられました。
「七年、聞いた」
七年でございます。毎日でしたら、二千五百回を超えます。
「七年」
「七年目の冬に、答えたよ」
わたくしは何も申し上げませんでした。
「豆の汁だった。婆さんが作ったやつだ。母が、これはおいしいねって言った。おれは十二だった」
薪が崩れました。ヴァンス様が火掻きで直されました。
「で、そのあとどうしたと思う」
「……分かりません」
「三月後に家を出た」
「出られた」
「湖の近くだ。いまもそこにいる。年に二度、手紙が来る」
年に二度でございます。多くはございませんが、二十年書かなかった方の二度でございます。ヴァンス様は火掻きを置かれました。
「手紙にな、毎回、その日食ったものが書いてある。うまかったかまずかったかまで書いてある。二十年ぶんの取り返しみたいな手紙だ」
「……なぜ、家を出られたのですか」
「ここの飯はまずいってさ」
ヴァンス様が仰いました。
「二十年分からなかった女が、分かったとたんに、ここの飯はまずいから出ていくって言ったんだ。婆さんが三日口をきかなかった」
わたくしは少しだけ笑いました。
笑ってから、笑ったことに気がつきました。八年、笑ったことがなかったわけではございません。厨房の者が転んだときも、給仕頭が扉に額をぶつけられたときも、笑いました。
ただ、それは口のかたちだけでございました。場に合わせて笑うのは、皿を運ぶのと同じで、覚えれば誰でもできます。
いま出たのは、口より先に息が出るほうの笑いでございました。息のほうが先に出たのは、こらえる暇がなかったからでございます。こらえる暇がないというのがどういうことなのかを、わたくしはしばらく考えておりました。
「だから、おれは待てる」
ヴァンス様が仰いました。
「七年だろうが十年だろうが構わん。ただ、戻ったあとにあんたが出ていくなら、それはそれでいい。母がそうしたからな」
「……戻らないかもしれません」
「父上がそうだったな」
「はい」
「なら、戻らなくてもいい」
その言い方は、ずるうございます。
「それでは、食卓が務まりません」
わたくしは申し上げました。申し上げながら、これは断りの言葉ではないと自分で思っておりました。断るなら、務まりませんではなく、いたしませんと申し上げるはずでございます。
「毎日、同じものを出されて、毎日、塩が多いとしか申し上げない女が、向かいに座っているのでございます。そういう食卓は」
「うちの親父は二十年それをやった」
ヴァンス様は立ち上がられました。
「返事は、いつでもいい」
そう仰って、広間を出ていかれました。わたくしは火の前に残りました。
薪が二本、まだ残っておりました。断りました。断ったのは、嘘を申し上げたくなかったからでございます。
毎日同じものを出されて、毎日、塩が多いとしか申し上げない。それは十年で相手を削ります。削られていることに気づかないまま削られて、二十年目にここの飯はまずいと言われる。ヴァンス様のお父上がそうでした。
二十年、あの方は待たれたのでしょう。待って、待ちきれて、それでも出ていかれたのです。待ちきれた先にあったのがそれでございました。
わたくしはその二十年を差し上げられません。差し上げられないのに、はいと申し上げるのは、あの一皿を黙って出すのと同じでございます。
しばらくして、厨房のほうから音がいたしました。バルダ様がこの時刻に鍋を出しておられます。明日の朝の仕込みには早すぎる時刻でございました。
覗きましたら、乳酪の壺が卓の上に出ておりました。いちばん下の行のものでございます。二月までに使い切らねばならないとわたくしが書いたものでございます。
「まだ、十二月でございますが」
「明日、作るんだよ」
「何をでございますか」
「まだ言わない」
教えていただけないというのは、教える気がないという意味ではございません。教えると、こちらが構えるからでございます。
バルダ様は壺の蓋を開けて指を突っ込み、匂いを嗅がれました。
「あんた、明日は畑に出るんじゃないよ。厨房においで」
国境の領地には、昔はどこも毒見を置いておりました。いまはほとんど残っておりません。残っていないのは平和になったからで、それはよいことでございます。よいことでございますが、置かなくなった役の覚えは、置かなくなった年に途切れます。
明日、バルダ様が何かを作られます。乳酪の壺が出ておりました。




