第13話 八年ぶりの、おいしい
朝の三刻に厨房へまいりました。
バルダ様は、もう豆を火にかけておられました。甕から取ったのではございません。前の晩から水に浸けたものが、別の鉢に取り分けてございました。上のほうの粒と下のほうの粒を分けて、下のものだけを使っておられます。
「手伝いは」
「いらないよ」
「では、何をいたしましょう」
「そこに座って、見てな」
わたくしは竈の脇の椅子に座りました。
バルダ様は鍋に水を張って、豆を落として、火の高さを調えられました。薪を三本、そのうち一本だけを立てて置かれます。立てた薪は早く燃えて、寝かせた薪は長く燃えます。火の高さを一定に保つための置き方でございました。
八年、わたくしはこの置き方を見たことがございません。王宮の厨房では、火の番が別におります。
豆が煮え始めるまで、半刻かかりました。そのあいだ、バルダ様は何もなさいませんでした。座って、火を見ておられました。
灰汁が浮いてまいりました。バルダ様は木の匙で灰汁を取って、脇の器に落とされました。三度取って、四度目は取られませんでした。
「四度目は」
「取ると味まで取れる」
わたくしは、その言葉を覚えておこうと思いました。三度で止める、では足りません。三度取って、四度目に浮いてくるものが、取ってよいものかどうかを見て決めておられます。わたくしが手引きに書けずにいるのは、これでございます。
豆が煮えました。
バルダ様は塩を量られました。木の匙で、二杯でございます。わたくしも、バルダ様も、何も申しませんでした。
それから、乳酪の壺を開けられました。昨日、卓に出しておられたものでございます。わたくしが蔵の扉に貼った紙の、いちばん下の行のものでございます。
「それは、二月まででございます」
「そうだね」
「まだ十二月でございますが」
「うん」
バルダ様は壺から乳酪を掬って、鍋に落とされました。ひと掬いでございます。落としてから、かき混ぜずに、そのまま置かれました。
「混ぜませんので」
「混ぜると分かれる」
白いものが、汁の上でゆっくりほどけてまいりました。ほどけながら、豆のあいだへ入っていきます。混ぜたほうが早うございますが、早いと粒が立ちます。立った粒は舌に触ります。
バルダ様は、それを見ておられました。わたくしも見ておりました。
「バルダ様」
「なんだい」
「先ほどの、四度目のことでございますが」
「灰汁かい」
「はい。四度目かどうかは、どうやってお分かりになりますか」
バルダ様は火のほうを向いたまま答えられました。
「色だよ」
「色でございますか」
「三度目までは灰色だ。四度目は白い」
わたくしは、鍋の脇の器を見ました。取った灰汁が三度ぶん入っております。たしかに、灰色でございました。
「白いのは」
「豆から出たやつだね。取ると味が薄くなる」
「では、白くなったら止める、ということでよろしいでしょうか」
「まあ、そうだね」
「……書けます」
「なにが」
「いま仰ったことが、そのまま書けます」
わたくしは、しばらく手元を見ておりました。
「十日、書けずにおりました。父が指を当てさせただけで何も申しませんでしたので、あれは言葉にならないものだと思っておりました」
「なるだろ、それくらい」
「なりました」
「あんたねえ」
バルダ様が、はじめてこちらをご覧になりました。
「あたしは字が書けないんだよ。書けないから、口で言うしかないんだ。三十年、口で言ってきた」
「はい」
「書ける人がさ、書かないで持ってるってのは、勿体ないだろ」
勿体のうございます。
父は書きませんでした。書かなかったのは、書けないと思っていたからでございます。思っていただけで、聞く人がいれば言葉になったのかもしれません。
父に聞く人は、おりませんでした。わたくしは弟子でございましたが、聞かずに真似ておりました。
真似るほうが速いからでございます。速いほうを選びますと、言葉が残りません。
「あとで、もう三つ四つ、うかがってもよろしいでしょうか」
「昼までなら」
四時間、そうしておりました。
昼を過ぎたころ、バルダ様が椀をひとつ、卓に置かれました。汁を掬って、注がれました。
湯気が上がりました。
「食べな」
わたくしは椀を受け取りました。両手で持ちました。温こうございます。
まず、鼻に近づけました。
豆の匂いが表に出ております。塩は二杯。乳酪の匂いが、その後ろにございます。前には出ておりません。後ろにいて、豆の匂いを持ち上げております。
匙を入れました。
掬いました。掬った量は、いつもの量でございます。八年、同じ量しか掬えません。
口に入れました。
二十を数えます。
いつもは、そこまでで足ります。二十のあいだに、傷んでいるかいないか、塩がどうか、火の入り方がどうかが分かります。分かったら飲み込んで、次へ移ります。
二十を数え終わりました。
飲み込みました。
それから、わたくしは、二口目を掬っておりました。掬ってから、掬ったことに気がつきました。
匙は、もう口に入っておりました。
八年、二口目を掬ったことがございません。二口目は要らないからでございます。一口で分かるように訓練いたしました。分かったのに二口目を掬うのは、無駄でございます。無駄なことをする者は、いつか大事なところで手を抜きます。
わたくしは、匙を持ったまま止まりました。止まりましたが、口のなかにはもう、二口目が入っております。
豆でございます。
ラントの土で育った豆でございます。土に塩気がございますので、煮るときの塩は二杯で足ります。三杯ですと汁が勝ちます。二杯ですと豆が前に出ます。
前に出た豆の、後ろに乳酪がおります。乳酪は二月までのものでございます。二月を過ぎますと油が回ります。いまは十二月でございますので、いちばん良いところにございました。
全部、わたくしが知っていることでございます。知っていることが、口のなかにございます。
わたくしは椀を卓に置きました。
置いて、それから、もう一度持ちました。手が震えているのが分かりました。震えているというのは、はじめてでございます。八年、匙を持つ手が震えたことがございません。震えると量が変わりますので、震えないように訓練いたしました。
いま、震えております。
量は、もうどうでもよいのだと思いました。
「……おいしい」
わたくしは、そう申し上げました。申し上げてから、いま何を申し上げたのかを考えました。
考えましたが、考えている途中でもう一口、掬っておりました。
バルダ様は、何も仰いませんでした。鍋のほうを向いて、火を落としておられました。落とし終えて、火掻きを壁に掛けて、それから前掛けで手を拭かれました。
こちらをご覧になりませんでした。わたくしは三口目を飲み込んで、それから、椀を持ったまま座っておりました。
しばらくして、バルダ様が仰いました。
「その汁はね」
「はい」
「昔、この屋敷にいた人にも作ったよ」
わたくしは顔を上げました。バルダ様は、まだこちらをご覧になりません。
「二十年、分からなかった人だ」
「……はい」
「あたしは三十年で二回目だよ」
それだけ仰って、バルダ様は厨房を出ていかれました。
わたくしは椀を持ったまま、そこにおりました。乳酪は二月までのもので、それを使えとは、わたくしが書きました。蔵の扉の内側に貼った紙でございます。読めないと仰った紙でございます。
読めないと仰って、それから、順番だろと仰いました。
順番でございました。
わたくしが書いた順番のいちばん下にあったものが、今日、この椀に入っております。
書いた紙は残ります。
残った紙が、八年ぶりに、わたくしに何か食べさせました。
夕方、坂の下から人が上がってまいりました。雪の坂を、徒歩でございます。荷車は上がれません。人が四人、列になって上ってこられました。
先頭の方の外套に、留め具がございました。王宮の式部の形でございます。
その後ろに、給仕頭。
その後ろに、見覚えのない大人の方が一人。いちばん後ろに、背の低い子が一人おりました。
両手を、膝でこすっておりました。
灰汁は三度取って、四度目は取りません。四度目に浮いてくるものは、取ると味まで取れるからです。では四度目かどうかをどう見分けるのかというと、そこはまだ、わたくしにも紙に書けておりません。
雪の坂を四人が上ってまいりました。いちばん後ろの子のことを、次にお話しいたします。
ここまでご一緒くださった方へ。ブックマークをいただけますと、あの椀にもう一杯だけ残ります。




