第14話 保証は、置いてまいります
四人が広間に通されました。
式部の御方。給仕頭。それから見覚えのない五十ほどの男の方。
最後に、背の低い子が入ってまいりました。わたくしがその子を正面から見るのは、はじめてでございました。廊下ですれ違ったことは二度ございます。二度とも目を合わせておりません。
「ティモと申します」
その子はそう申しました。それから両手を膝でこすりました。
「イレーナ・ドーレンでございます」
「……はい」
「歩いてこられましたか」
「はい」
「坂は」
「ながかったです」
わたくしは椅子を勧めました。座られませんでした。座ってよいと言われたことがないのだと思います。八年前のわたくしと同じでございます。
「座ってよろしゅうございます」
「はい」
それでも立っておられましたので、そのままにいたしました。式部の御方が、書状を出されました。
封に、殿下の印がございました。
「読み上げる」
三つ、書いてございました。ひとつ。先の断罪において、王宮は誤った。イレーナ・ドーレンに落ち度はない。適性を欠くという判断は取り消す。
ふたつ。当時の内膳頭による記録の秘匿と、進言の握り潰しについて、王宮は責を負う。みっつ。以上を、王宮の記録に残す。
「以上だ」
「ありがとうございます」
「三つ目が肝要だ」
式部の御方が仰いました。
「消すのではない。残す。そなたが正しく、王宮が誤ったと、紙に書いて残す」
わたくしは頭を下げました。八年つとめて、王宮から紙をいただいたことは二度ございます。一度目は採用の書き付けで、二度目が罷免の申し渡しでした。どちらも半枚でございます。
三度目のこれは、一枚半ございました。消すと仰らなかったことが、いちばんありがたうございました。消すというのは無かったことにするということでございます。無かったことにされますと、次に同じことが起きたときに、誰も前の例を引けません。
「それから、これは殿下の言葉だ」
式部の御方が、書状を裏返されました。
「三度目になるが、戻ってきてもらえぬか、と」
「お断りいたします」
「三度目だぞ」
「三度目でございます」
式部の御方は少しだけ笑われました。わたくしは立ち上がって隣の部屋から包みを取ってまいりました。
卓の上に置いて布を開きました。
紙の束でございます。厚さは指を三本重ねたくらいでございます。十日で三分の一と申し上げましたのは、記法のところだけでございました。灰汁の色の話をうかがってから、あとは早うございました。
早かったのは、書き方が分かったからでございます。それまでは、正しいことを正しく書こうとしておりました。正しく書こうとしますと、例外を全部拾わねばなりません。例外を拾うと、どの行も長くなって、長い行は読まれません。
いまは、こう書いております。まず短く言い切る。そのあとに、当てはまらない場合を一つだけ足す。二つ以上ある場合は、行を分ける。
読まれない紙を八年書いてまいりましたので、読まれる紙の書き方を、わたくしは知りませんでした。
「これは」
「御膳検分覚書と申します」
わたくしはいちばん上の一枚を出しました。
「四つに分かれております。一つ目が記法の読み方。九十六冊を読むためのものでございます。二つ目が、検分の順序。三つ目が、判断のつけ方。四つ目が、蔵と厨房の見回り方でございます」
「三つ目が、書けなかったところであろう」
「はい」
「書けたのか」
「半分ほど」
わたくしは三つ目の束を開きました。
「たとえば、灰汁は三度取って四度目は取りません。四度目かどうかは、色で分かります。三度目までは灰色で、四度目は白うございます。白いものは豆から出たもので、取ると味が薄くなります」
「……それは」
「厨房の者に教わりました」
式部の御方が給仕頭のほうをご覧になりました。
「わたくしは、その書き方でよいのだと十日前に気づきました。それまでは、こういうことは言葉にならないと思っておりました。父がそう思っておりましたので、わたくしもそう思っておりました」
わたくしは束を戻しました。
「父の知っていたことは、父で終わりました。わたくしのぶんは、ここに書いてございます」
見覚えのない男の方がはじめて口を開かれました。
「新しく内膳頭を仰せつかりました」
「はい」
「うかがいたい」
その方は卓の束をご覧になりました。
「これがあれば、王宮の食卓の保証は立ちますか」
「立ちません」
広間の空気が少し動きました。
「紙だけでは立ちません。紙と、読む者と、読んだとおりにやる者が要ります。三つ揃って、はじめて立ちます」
「では、そなたが要る」
「わたくしは要りません」
わたくしは申し上げました。
「八年、王宮の保証はわたくしの舌でございました。舌は一つでございますので、一つが抜ければ保証も抜けます。実際に抜けました。使節の晩餐が流れて、条約が半年延びましたのは、そういうことでございます」
「……はい」
「保証を一人の舌に載せますと、その一人がいなくなった日に全部が止まります。ですので、載せる先を替えていただきたいのです」
「替える先は」
「これでございます」
わたくしは束に手を置きました。
「わたくしは戻りません。保証のほうを、置いてまいります」
しばらくどなたも仰いませんでした。新しい内膳頭様が束を手に取られました。厚さを確かめるように両手で持ち上げて、それから卓に戻されました。
「重うございますな」
「四つ目まで書きますと、あと倍になります」
「倍」
「春までに書きます」
それからティモのほうを向きました。
まだ立っておられます。
「ティモ様」
「……はい」
「冬のあいだ、こちらにおられますか」
ティモが顔を上げました。
「坂が閉まっております。春まで王都へは戻れません。戻れませんので、そのあいだ、ここにいていただきたいのです」
「なにを、するんですか」
「教わっていただきます」
「ぼくは」
ティモは両手を膝でこすりました。
「ぼくは、にがいとしか、いえません」
「はい」
「だから、だめだと言われました」
「だめではございません」
わたくしは申し上げました。
「苦い、というのは正しい言葉でございます。ただ、苦いには七つございます。焦げた苦み、青い苦み、油の回った苦み、薬の苦み、金気の苦み、古い豆の苦み、それから、鍋を洗い残したときの苦み。七つを七つとも苦いと申しますと、伝わりません。七つに名前をつければ、伝わります」
ティモはわたくしの顔を見ておりました。
「なまえを、つければ」
「はい」
「それだけですか」
「それだけでございます。それだけを、七年かけて覚えました」
ティモは、しばらく黙っておりました。この子は、あの晩、王太子殿下の御前で吐いております。壇の下で膝をついて、内膳頭様に苦いで済むと思うかと問われて、答えられませんでした。
あれから三月でございます。三月のあいだ、この子に何と言えばよいのかを教えた者は、一人もおりません。教えないまま毎晩十七の皿の前に座らせて、間違えるたびに叱っておりました。
叱るのは、いちばん楽な教え方でございます。教える側に何も要りませんので。ティモが顔を上げて、卓のほうを見ました。
「そこに、書いてありますか」
「三つ目の束に、四つまで書いてございます。残る三つは、まだ書けておりません」
「じゃあ」
ティモが一歩前へ出ました。
「じゃあ、ぼくがおぼえたら、書けますか」
わたくしは束の一枚目を取って、その子に渡しました。
「お名前を、ここへ書いていただけますか」
「なまえ」
「この覚書を継ぐ方の名前でございます。いちばん上に書きます」
ティモは紙を受け取って卓に置き、筆を取りました。両手を膝でこすろうとして、途中でやめられました。
拭かずに、筆を持たれました。書かれた字は崩れておりました。線の始めが強く、終わりが弱うございます。ただ、順番は合っておりました。
その晩、わたくしは自分の部屋で覚書の四つ目を書きはじめました。あと倍でございます。春までに書き上げれば、全部済みます。
済みましたら、この仕事は終わりでございます。
終わりましたら、そのあとどうするのかはまだ決めておりません。決めておりませんが、決めなければならないことは、もう一つも残っていないはずでございました。
苦いには七つございます。焦げた苦み、青い苦み、油の回った苦み、薬の苦み、金気の苦み、古い豆の苦み、鍋の洗い残しの苦み。七つを七つとも「苦い」と申しますと伝わりません。名前をつければ伝わります。それだけを、わたくしは七年かけて覚えました。
覚書の一枚目には、いま、崩れた字で名前が書いてございます。
春になれば坂が開きます。開いたら、あの子は王都へ帰ります。帰るまでに、七つのうちいくつに名前がつくでしょうか。




