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毒見役を追い出したので、王宮の食卓に保証はありません  作者: 星詠みミラ


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15/15

第15話 本日の検分は、ございません

 坂が開いたのは、三月の末でございました。


 雪解けの水が坂を流れて、道が固まるまでにさらに十日かかりました。その十日で覚書の四つ目を書き終えました。


 全部で指を六本重ねた厚さになりました。


 ティモは、冬のあいだに三つ覚えました。焦げた苦みと青い苦みと、油の回った苦みでございます。三つに名前がついた日、あの子は厨房で四半刻ほど黙っておりました。それから、こう申しました。


「あと四つですね」


「あと四つでございます」


「四つなら、夏までにいけます」


 いけません。


 わたくしは七年かかりました。ただ、いけると思っておられるうちは、そう申し上げないことにいたしました。


 三月のあいだに教えたのは、三つだけではございません。


 匙の持ち方から始めました。柄の細いところに指を三本かけて、残りは添えるだけにいたします。力を入れると量が変わりますので、力の入らない持ち方を先に体で覚えていただきます。ここに十日かかりました。


 次が、すすぎでございます。二回で足りるときと三回要るときの見分けは、口のなかに何が残っているかで決めます。残っているのが匂いだけなら二回、味なら三回。ここは早うございました。あの子は、口のなかのことを言葉にするのが得意でした。得意でしたが、誰も聞かなかっただけでございます。


 それから、蔵の見回りを教えました。数える順番を決めて、必ずその順番で数えます。順番を決めておきますと、数え忘れたときに、どこで忘れたかが分かります。


 いちばん時間がかかったのは、帳面の開き方でございました。あの子は去年の同じ日を開くという習慣を持っておりません。持っていないと、今日の頁が今日だけのものになります。今日だけのものは比べる先がございません。


 六十日かかって開くようになりました。


 四月のはじめに王都から迎えがまいりました。


 給仕頭でございます。今度は荷車で上ってこられました。覚書の束を六つの包みに分けて荷台に載せました。雨に濡れると読めなくなりますので、油紙で二重に包みました。


「これで、全部でございます」


「はい」


「一つ目から順に読んでいただきますよう、新しい内膳頭様にお伝えください。三つ目から読まれますと、意味が通りません」


「承ります」


 給仕頭は荷台の紐を確かめられました。


「イレーナ殿」


「はい」


「あの晩のことを、まだ考えることがございます」


 わたくしはその方を見ました。


「わたくしがあの皿を運ばなければ、と」


「運ばれなくとも、別の方が運ばれました」


「はい」


「運ぶ役の方に止める権限がないというのは、仕組みの問題でございます。仕組みの問題を、運んだ方の落ち度になさいますと、次の方も同じ思いをされます」


「……はい」


「四つ目の束に、そのことを書きました」


 給仕頭がこちらを向かれました。


「運ぶ者が皿を止められる場合を、三つ書きました。三つのうちどれかに当たりましたら、止めてよいことにしていただきたいのです。止めた結果、何もなかったとしても、止めた方を叱らないことも、あわせて書きました」


 給仕頭はしばらく何も仰いませんでした。それから荷台の紐をもう一度確かめられました。


「……読ませていただきます」


 ティモは荷車の脇に立っておりました。


 冬のあいだに背が少し伸びました。冬に伸びる子は春にもう一度伸びます。


「イレーナさま」


「はい」


「七つ目まで名前がついたら、また書きます」


「お待ちしております」


「あと、あの」


 ティモは両手を膝でこすりかけて、途中でやめられました。やめられるのがはやくなりました。


「なんでしょう」


「ぼくの椀の、米の粒を数えてくれた人は、厨房のマルタさんでした」


 わたくしはその名前を覚えておこうと思いました。


「お礼を申し上げておいてください」


「はい」


 荷車が坂を下りていきました。見えなくなるまで見ておりました。見えなくなってから屋敷へ戻りました。


 厨房で、バルダ様が根菜を刻んでおられました。


「行ったのかい」


「行かれました」


「あんたは」


「わたくしは、残ります」


 バルダ様は手を止められませんでした。


「そう」


 それだけでございました。


 その日の夕方、ヴァンス様に申し上げました。広間ではなく畑の縁でございます。麦の丈が冬の前より三寸伸びておりました。


「先日のお話でございますが」


「先日」


「冬のはじめの、椅子が二つあったときの」


 ヴァンス様は麦のほうを向いておられました。


「ああ」


「務まるかどうかは、まだ分かりません」


「うん」


「毎日、塩が多いとしか申し上げない日が、また来るかもしれません。父がそうでございましたので」


「うん」


「ただ」


 わたくしはそこで一度、言葉を置きました。


「務まりませんとは、もう申し上げません」


 ヴァンス様はしばらく麦を見ておられました。それからこちらを向かれました。


「それでいい」


「よろしいのでしょうか」


「おれは待つとしか言ってない。待たなくてよくなったんなら、それで足りる」


 その晩、食卓につきました。バルダ様が出されたのは、根菜の煮たものとパンと水でございます。


 パンは昨日の夕方に焼いたものを、朝に温め直したものでございました。わたくしはそれを二つに割りました。


 割ってから、匂いを取ろうとしてやめました。取らなくてよいのだと思いました。今日この食卓に、検めねばならないものはございません。


 八年と四か月でございます。


 口に入れました。


 噛みました。


 小麦は去年のもの。挽きが粗く、ふすまが少し混じっております。塩は少なめ。水は北の井戸のもので、鉄の味は出ておりません。


 そこまでがいつもどおりでございました。


 そのあとに、もうひとつ来ました。噛んでいるうちに耳のところが甘くなってまいりました。焼いてから一晩置いて温め直したときにだけ出る甘みでございます。焼きたてには出ません。二日目には消えます。今日の朝だけのものでございます。


 わたくしは二口目を食べました。


「イレーナ」


 ヴァンス様が向かいから仰いました。


「今日は、何が美味しかった?」


 六か月でございます。


 六か月、この方はこれを聞き続けられました。文の形を毎回変えて、答えが返らなくても次の日にまた聞かれました。お母上には七年聞かれたと伺っております。


 わたくしはパンの耳を持っておりました。


「パンでございます」


 ヴァンス様が手を止められました。


「パン」


「昨日の夕方に焼いて、今朝、温め直したものでございます。耳のところが甘うございました。焼きたてには出ません。二日目には消えます」


「……そうか」


「はい」


「うまいのか」


「おいしゅうございます」


 ヴァンス様はそれから何も仰いませんでした。仰らずに、ご自分のパンを二つに割って耳のところから召し上がりました。


 バルダ様が鍋を火から下ろす音がいたしました。


 その夜、湖の近くから手紙が届きました。年に二度のうちの、一度目でございます。ヴァンス様が封を切って、火のそばで読まれました。


 春の魚が上がったと書いてございました。塩焼きにして、皮のところがいちばんおいしかった、と。


 読み終えて、こちらへ差し出されました。


「読むか」


「よろしいのでしょうか」


「あんた宛てみたいなもんだ」


 最後の一行に、こう書いてございました。――そちらに、同じ役の方がおられるそうですね。急がなくてよいと、お伝えください。


 わたくしは、その一行を二度読みました。


 二度読んで、それから、お返しいたしました。急がなくてよいと書ける方は、急がされた覚えのある方でございます。二十年、毎日その食卓に座って、毎日、何も申し上げられなかった方でございます。


 わたくしは明日の朝も同じパンが出ることを知っております。二日目でございますので甘みは消えております。消えていることも、明日には分かります。


 分かるようになりましたので、これから毎日分かってまいります。毎日分かるということがこういうことなのかどうかは、まだ存じません。


 ただ、明日の朝も、わたくしは何か食べます。


 本日の検分は、ございません。

 パンの耳の甘みは、焼いて一晩置いて温め直したときにだけ出ます。焼きたてには出ませんし、二日目には消えます。その朝にしかないものなので、毎日食べていても気がつかないことがあります。八年気がつかなかった者が、ここにおります。


 これで『毒見役を追い出したので、王宮の食卓に保証はありません』は完結でございます。全十五話、お付き合いくださってありがとうございました。


 王宮の食卓に、彼女という保証はもうありません。あるのは、指を六本重ねた厚さの紙と、それを読む者と、読んだとおりにやる者だけでございます。三つ揃えば足ります。足りるようにするのが、あの八年でございました。


 最後まで読んでくださった方へ。もしよろしければ、評価やブックマークをいただけますと、次に書くものの励みになります。ご感想もお待ちしております。

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