第7話 苦い、としか言えない少年
封を切りましたら、紙が一枚だけ入っておりました。
安い紙でございます。厨房で献立を控えるのに使うものと同じです。裏に薄く、油の染みがございました。書く場所がそこしかなかったのでしょう。
四行、書いてございました。
いれーなさま
ちょうめんが、ありません
なにが、あぶないのか、わかりませんぼくは、なにをすればいいですか
それだけでございました。
名前は、封の裏にしか書いてございません。本文に自分の名を書くことを、教わっていないのだと思いました。
わたくしはその紙を二度読みました。
二行目でございます。
帳面がありません、と書いてございます。紛失した、ではございません。あの子は紛失という言葉を持っておりません。あの子が言っているのは、探した、そして無かった、ということでございます。
毒見役が最初に覚えるのは、匙の持ち方でも匂いの取り方でもございません。帳面の開き方でございます。前の月の同じ日を開いて、去年の同じ日を開いて、それから今日の頁を開きます。三年前の同じ日に何が出たかが分かれば、今日の皿の見当がつきます。
わたくしは八年、そうしてまいりました。
あの子は、開く相手を持っておりません。九十六冊ぶんの見当がないところに、十七の皿が毎晩まいります。それは、目を塞いだまま川を渡れと言われるのと、そう変わりません。
わたくしは紙を畳んで卓の上に置きました。
置いてからしばらく見ておりました。返事を書くというのは、王宮に関わるということでございます。関わらないというのは、この四行に答えないということでございます。
どちらも、しないというわけにはまいりません。
「なんて書いてあった」
ヴァンス様が戸口に立っておられました。
「四行でございます」
「読んでいいのか」
「どうぞ」
ヴァンス様は紙を取って目を落とされました。読み終わってこちらへ返されました。
「これ、いくつだ」
「十四でございます」
「十四で、王太子の毒見をやってるのか」
「はい」
「無茶だな」
「無茶でございます」
ヴァンス様は窓のほうへ歩いていかれました。外はもう暗うございます。
「返事は」
「……考えております」
「何を」
「わたくしが書けることが、あるかどうかを」
ヴァンス様は振り返られました。
「あるだろう」
「王宮の毒見役に、外の者が指図をいたしますと、それは筋が通りません」
「筋か」
「はい」
「筋を通した結果が、その四行じゃないのか」
わたくしは、答えませんでした。
その晩は、書きませんでした。
三日ののち、二通目がまいりました。同じ封ではございません。厚い紙で封蝋が押してございました。字は大人のものでございます。線が太く、終わりまで力が抜けません。書き慣れた方の字でした。
差出人は、給仕頭でございました。八年、毎晩わたくしに皿を運んでこられた方でございます。文をいただいたのは、はじめてでございました。
こう書いてございました。
ティモが伏せております。三日になります。一昨日の朝、厨房の隅で倒れているのを下働きの者が見つけました。粥を吐いてそのまま起きられません。医師が来ましたが風邪であろうと申しております。
風邪ではございません。
あの子が倒れる前の晩、厨房の裏で鼠取りの皿が動いておりました。誰かが片づけたのか、あるいは誰かが場所を変えたのか、そこまでは分かりません。ただ、あの子はその夜、裏の水甕から水を汲んでおります。
内膳頭様には申し上げました。
風邪ということにする、と仰いました。毒であったと申し上げれば、王宮の厨房に毒があったことになります。あの晩餐の一件のあとでそれを申し上げれば、内膳頭様のお立場が持ちません。ですので風邪でございます。
あの子は三日、粥も水も戻しております。わたくしは配膳の者でございますので、手当ての心得がございません。医師は風邪の薬しか置いてまいりませんでした。厨房の者が交替で見ておりますが、誰も何を食べさせればよいのかを知りません。
知っている方は、この春まで同じ廊下におられました。わたくしは、この紙をどこへ出せばよいのかが分かりません。
紙は、そこで終わっておりました。
わたくしは読み終えて二通目を一通目の隣に置きました。鼠取りは、厨房から離した場所に置きます。離すのは鼠のためではなく、人のためでございます。八年、置き場は北の外の物置と決めておりました。年に四度、場所を確かめて帳面に書きます。
書いた頁は、九十六冊のどこかにございます。どこかにはございます。そのどこかを、いま誰も知りません。
あの子が水を汲んだ甕がどこにあって、その甕がどれくらい鼠取りの皿から離れていて、離れていることを誰がいつ確かめたのか。それを知っている紙は、あります。あるはずでございます。
ただ、開く者がおりません。もしわたくしが厨房におりましたら、あの朝いたしたことは三つでございます。
まず甕の水を全部捨てます。捨ててから甕の内側を指で拭いて匂いを取ります。次に鼠取りの皿の数を数えます。八年、あれは十二枚と決まっておりました。十二枚あれば動かしたのは場所だけで、十一枚なら一枚がどこかに残っております。残った一枚のほうが厄介でございます。
三つ目に、前の晩の献立を見ます。倒れた者が何を口にしたかではなく、口にしなかったものを見ます。厨房の者は残りを食べますので、残りの出た皿と倒れた者は結びます。
どれも半刻あれば済むことでございます。
半刻でございます。
その半刻を持っている者が、いま王宮には一人もおりません。
わたくしは立ち上がって窓を開けました。外の風が入ってまいりました。冷たうございます。ラントの夜は王都より二月ぶん早く冷えるとバルダ様が仰っておられました。
風を入れれば、翌朝の鼻が鈍ります。鈍っても構いません。もう、誰の皿も検めておりません。
厨房から灯りが漏れておりました。降りてまいりましたら、バルダ様が竈の前に座っておられました。明日のパンの種を寝かせるあいだ、火を落としきらずに見ておられるのだそうでございます。
「まだ起きてたのかい」
「はい」
「顔がひどいよ」
「もともとでございます」
「もともとでも、今日のはひどい」
バルダ様は、椅子をひとつ足で押してこちらへ寄せられました。わたくしは座りました。
「王都かい」
「はい」
「誰か倒れたのかい」
「子どもでございます」
バルダ様は火を掻き回されました。
「あんたの代わりに入った子だね」
「はい」
「毒かい」
「たぶん」
「治るのかい」
「分かりません。手当ての仕方によります」
バルダ様は、しばらく火を見ておられました。
「で、行くのかい」
「行けません」
「なんでだい」
「王宮の毒見役に、外の者が触れることはできません。それに、わたくしが行きますと」
わたくしは、そこで一度、言葉を探しました。
「わたくしが行きますと、あの子が『できなかった子』になります」
バルダ様が、こちらを見られました。
「そこまで考えるのかい」
「はい」
「面倒くさい子だね、あんたは」
「はい」
バルダ様は立ち上がって種を入れた鉢に布をかけ直されました。
「あたしは字が書けないからさ」
「はい」
「息子が兵隊に行ったとき、なんにも送れなかったんだよ」
バルダ様は鉢を棚に上げられました。
「行けなくたって、飯くらいは決められるだろ」
わたくしは椅子に座ったまま、その背中を見ておりました。
「……決められます」
「じゃあ、それだ」
「はい」
「寝な。明日は根菜だよ」
部屋へ戻りました。
わたくしは机の引き出しを開けました。紙がございました。ヴァンス様が畑の覚えを書けと仰って、置いてくださったものでございます。一度も使っておりません。畑のことは、覚えておけば足ります。
紙を一枚、抜きました。
筆を取りました。
八年、この手が持っていたのは匙でございます。書くのは、そのあとの仕事でございました。匙を持って口に入れてすすぎ、それから書きます。順番が決まっております。
いま、匙はございません。
匙を持たない手で、紙を取りました。
毒見役が最初に覚えるのは匙の持ち方ではなく、帳面の開き方です。前の月の同じ日、去年の同じ日、それから今日。三年前の同じ日に何が出たか分かれば、今日の皿の見当がつきます。見当のない毒見は、目を塞いで川を渡るのと変わりません。
明日は、わたくしがその一枚に何を書いたかをお目にかけます。献立でございます。




