第6話 土が違えば、味が違います
厨房へまいりましたのは、朝の三刻でございます。
バルダ様はもう火を起こしておられました。豆を水に浸けた甕が土間に三つ。前の晩から浸けたものです。指を入れて温度を見ておられました。
「なんだい」
「申し上げたいことがございます」
「言いな」
「塩を、三分の一お減らしになってはいかがでしょうか」
バルダ様は手を止められました。それから、こちらへ向き直られました。
「三十年やってるんだけどね」
「存じております」
「三十年、誰にも言われたことがないんだけどね」
「はい」
「それを、来て六日の子に言われるわけだ」
「はい」
バルダ様は甕から指を抜いて、前掛けで拭かれました。
「理由は」
「土でございます」
わたくしは畑で取った土を、紙に包んで持ってまいっておりました。それを卓の上で広げました。
「この土に塩気がございます。海から遠うございますので、岩から出ているのだと思います。この畑で育った豆は、育つあいだに塩を持ちます。ですので、煮るときの塩は少なくて足ります」
「持つ、ってのは、どのくらい」
「舐めてみられますか」
「土をかい」
「豆を」
わたくしは甕から豆をひと粒つまんで、布で水気を取って、バルダ様に差し出しました。バルダ様は受け取って、口に入れられました。
噛んでおられます。しばらく噛んで、それから、眉を寄せられました。
「……硬いよ」
「浸けただけでございますので」
「それは分かってるよ」
もうひと粒、ご自分でつままれました。今度は長く噛んでおられました。
「……塩っぽいね」
「はい」
「気のせいじゃないのかい」
「王都の豆をお持ちでしたら、比べていただけます」
「あるわけないだろ、そんなもん」
バルダ様は甕のほうへ向き直られました。それから、こう仰いました。
「じゃあ、あんたが作りな」
「わたくしは、料理ができません」
「いま偉そうに言ったろ」
「申し上げたのは塩の量でございます。煮方は存じません」
「煮るだけだよ」
バルダ様は鍋をもう一つ、竈に掛けられました。
「二つ作る。あたしのと、あんたの。豆は同じ甕から取る。水も同じ。火も隣同士。違うのは塩だけだ」
「……かしこまりました」
わたくしは鍋の前に立ちました。豆を入れて、水を張って、火にかけました。ここまではバルダ様と同じ手つきでございます。見ていれば分かります。
塩を入れるところで、手が止まりました。三分の一と申し上げました。バルダ様がお使いになるのは、木の匙に山盛りで三杯でございます。その三分の一ですと、二杯でございます。
二杯を量って、鍋に落としました。そこから先は、待つだけでございました。
豆は硬いものから柔らかくなります。全部が同じ速さで柔らかくなるわけではございません。甕のなかで上にあった粒と下にあった粒では水の入り方が違いますので、下の粒が先に煮えます。同じ鍋のなかに二種類の豆がいるようなものでございます。
揃えるには途中で一度かき混ぜます。かき混ぜる回数が多すぎると皮が破れます。破れた粒から中身が出て汁が濁ります。濁った汁は塩を強く感じさせます。
わたくしは二度だけかき混ぜました。二度で足りるかどうかは知りません。八年、鍋を見てはまいりましたが、鍋を作ったことはございません。見るのと作るのは、市で外すのと選ぶのくらいには違うようでございました。
待つあいだ、バルダ様は鍋のそばを離れて根菜を刻んでおられました。わたくしは離れられませんでした。離れて何をすればよいのかが分かりません。
「そんなに見てても、早く煮えやしないよ」
「はい」
「毒見のときも、そうやって見てたのかい」
「見ておりました。落ちるものが落ちきるまで、鍋のそばにおります」
「落ちるもの」
「灰汁でございます。落ちきる前に匙を入れますと、その日の判断が一日ぶん狂います」
バルダ様は、包丁を置かれました。
「あんた、飯を敵だと思ってるだろ」
わたくしは鍋を見たまま、少し考えました。
「敵とは、思っておりません」
「じゃあ何だい」
「……相手でございます」
「同じだろ」
「違います。敵は倒すものでございますが、相手は、毎日おいでになります」
バルダ様は、ふん、と仰いました。
昼に、二つの鍋ができました。屋敷の者を六人呼んで、名前を伏せて食べていただきました。どちらがどちらかは申し上げません。バルダ様がそうなさると仰いました。
六人のうち、四人が二つ目のほうを選ばれました。
二つ目は、わたくしの鍋でございました。残る二人は一つ目を選ばれました。理由をうかがいましたら、二人とも「いつもの味だから」と仰いました。
それは正しい理由でございます。人は毎日食べるものに、驚きを求めておりません。求めているのは、昨日と同じであることでございます。八年、王宮の献立が三月ごとにしか変わらなかったのも同じ理屈でございました。
ですので、四対二というのは、たいへんに大きな数でございます。二人が守ろうとしたものを、四人が手放したということですので。
「豆の味がする」
厩の方がそう仰いました。
「いつものは、汁を飲んでる感じだけどよ。こっちは豆を食ってる感じがする」
ヴァンス様も来られて、両方を口にされました。それから、わたくしのほうを指されました。
「こっちだ」
「はい」
「婆さん、負けたぞ」
「うるさいよ」
バルダ様は鍋を火から下ろしながら、そう仰いました。怒っておられるようには見えませんでした。三十年やってこられた方の手は、負けても同じ速さで動くようでございます。
人が出ていったあと、バルダ様がわたくしの鍋から一杯すくって、こちらへ差し出されました。
「あんたも食べな」
「いただきます」
わたくしは椀を受け取って、匙を入れました。匂いを取りました。豆の匂いが表に出ております。塩が減ったぶん、土の甘みのほうが前に出ておりました。
口に含みました。二十を数えました。飲み込みました。塩は二杯で足りております。三杯ですと汁の塩が勝ちます。二杯ですと豆が前に出ます。四人がそちらを選ばれたのは、その差でございます。
そう申し上げることは、できます。
「どうだい」
バルダ様が仰いました。
「……塩は、二杯で足りております」
「そうじゃなくて」
わたくしは椀を持ったまま、しばらく黙っておりました。この鍋はわたくしが作りました。豆を入れて水を張って、二杯を落として、灰汁を取って、火のそばに立って待ちました。四時間でございます。
四時間立って作ったものを、いま口に入れております。それでも、出てまいりません。
「……申し訳ございません」
バルダ様は、わたくしの手から椀を取られました。取って、ご自分で一口召し上がって、それから、また返してくださいました。
「あんた、わかってないんだね」
「はい」
「まずいとかうまいとか、そういうのじゃなくてさ」
バルダ様は竈の火を掻き回されました。
「自分が四時間立ってたやつを食ってんだよ、あんたは」
わたくしは、椀を持っておりました。八年のあいだ、わたくしが口に入れたものは全部よそ様のものでございました。
毒見役は自分の皿を持ちません。持てば、その皿の検分を誰かがせねばならなくなるからでございます。わたくしが食べていたのは殿下の皿の一片であり、侯爵家の方の皿の一片であり、使節の方の皿の一片でございました。
一日十七片。八年で四万を超えます。
どれも、わたくしのものではございませんでした。いま持っているこの椀は、わたくしが豆を入れて水を張って塩を二杯落とし、四時間そばに立って、二度かき混ぜたものでございます。
自分のものを口に入れるというのが、こういうことなのかどうかは分かりません。分かりませんが、椀は温こうございました。
夕方、王都から人が来ました。ヴァンス様宛ての荷でございましたが、そのなかに一通、別の封が入っておりました。
宛名は、わたくしでございました。字が震えておりました。書き慣れていない字でございます。線の始めが強く、終わりが弱うございます。手の力が抜けるのが早い方の字でございました。
封の裏には、名前が一つだけ書いてございました。
ティモ、と。
豆を煮るあいだ、灰汁が落ちきるまで鍋のそばを離れないというのは毒見役の癖です。落ちきる前に匙を入れると、その日一日ぶん舌が狂います。料理人はそこまで待ちません。待たなくても料理はできるからです。
あの手紙の中身は、明日お目にかけます。四行しかございません。
もうしばらくお付き合いいただけるようでしたら、ブックマークを。あの鍋の塩が、ひとつまみだけ正しくなります。




