第4話 外交晩餐、中止のお知らせ
乗合馬車の宿は、東の街道の入口にございます。
朝の五刻に出るものに乗るつもりでおりました。行き先はまだ決めておりません。決めていないというのは、決めなくてよいということでもございます。八年、明日の献立が決まっていない日はございませんでした。
荷を持って表へ出ましたら、あの方が立っておられました。昨日と同じ外套で、裾に同じ泥がついておりました。
「で、今日のは?」
わたくしは足を止めました。
「……何のことでございましょう」
「昨日、聞いただろう。答えが出なかったやつだ」
「今日はまだ、何もいただいておりません」
「じゃあ昨日のぶんは」
「……申し訳ございません」
「まだか」
「まだでございます」
その方は、そうか、と仰って、それから馬車のほうを見られました。
「乗るのか」
「はい」
「どこまで」
「決めておりません」
「なら決まりだな」
わたくしは荷を持ち直しました。
「うちに来い。ラントだ」
「ラント」
「北の外れだ。冬が長くて、坂が多くて、王都から馬で四日。聞いたことは」
「ございます。西の葉ではなく、南の葉を通す道の途中でございます」
その方が、少しだけ黙られました。
「……あんた、うちの領地のこと、そういう覚え方してるのか」
「申し訳ございません」
「いや」
その方は笑われました。
「エルマー・ヴァンス。ラントの領主だ」
わたくしは荷を置いて、礼をいたしました。辺境伯様でございました。門の前で荷車の縄を確かめておられましたので、荷方の頭だと思っておりました。
「イレーナ・ドーレンと申します」
「知ってる」
「ご存じでございますか」
「昨日、門番に聞いた。毒を盛って追い出された女だと」
わたくしは顔を上げました。
「そのとおりでございます」
「そうか」
それだけでございました。
ヴァンス様は荷車のほうへ歩いていかれて、途中で振り返られました。
「言っておくが、うちで毒見はさせない」
「……はい」
「畑の味見だ。それならやるか」
ラントには、四日かかりました。坂が多いと伺っておりましたが、本当でございました。上って下りてまた上ります。二日目の午後に一度だけ平らな道になりましたが、それも半刻ほどでございました。
道中の宿場で三度、食事をいただきました。一度目は麦の粥に塩漬けの肉。二度目は同じ粥に卵。三度目は魚でございました。どれも傷んでおりません。一度目の肉は塩が強すぎて、二度目の卵は火が入りすぎておりました。三度目の魚は良いものでした。
良いものでした、と申し上げることはできます。その先が出てまいりません。四日のあいだ、三度とも同じでございました。
三日目から風の匂いが変わりました。王都のものより水の匂いが濃うございます。土が湿っているのでしょう。湿った土の土地は根菜が甘くなります。かわりに麦が育ちません。
馬車を降りて坂を上がりながら、道の端の草を一本抜いて噛んでみました。苦うございました。苦みの出方が王都の草とは違います。この草を食べる牛の乳も、王都のものとは違うはずでございます。
そういうことばかり考えて歩いておりました。ほかに考えることが、いまはございません。
屋敷は思っていたよりも小さうございました。石造りの二階建てで厨房が一階の東側にございます。
東側の厨房は良い造りでございます。朝の光が入って昼には陰りますので、午後に仕込むものが傷みません。王宮の厨房は北向きで、一日じゅう同じ暗さでございました。
その厨房に、老いた女の方がおられました。
「バルダだ」
ヴァンス様が仰いました。
「うちの飯を三十年作ってる」
バルダ様は、わたくしを上から下まで見られました。
「王宮の毒見だって?」
「昨日までは」
「じゃあ、うちの飯に文句つけるのかい」
「つけません」
「つけていいよ。どうせ聞かないから」
その晩、汁と、パンと、塩で煮た豆をいただきました。わたくしはいつもどおりにいたしました。匂いを取って、少し口に含んで、飲み込んで、次へ移ります。二十を数えて一口。順番は決まっております。
三口目のところで、バルダ様が手を止められました。
「まずそうに食うねえ」
「申し訳ございません」
「謝るところじゃないよ。まずいのかい」
「まずくございません」
「じゃあ美味いのかい」
わたくしは匙を置きました。その問いは、二日のあいだに三度目でございます。
「……申し上げられません」
バルダ様は、鍋のほうへ向き直られました。
「変な子だね」
「はい」
「食べな。冷めるよ」
翌朝、畑へまいりました。
屋敷の裏の斜面がそのまま畑になっております。豆と根菜と麦がございました。麦は丈が短うございます。ここでは麦は育ちません。育たないものを作っているのは、それでも要るからでしょう。
畑の上のほうと下のほうで、豆の葉の色が違っておりました。
上は薄く、下は濃うございます。水は下へ流れますので、下のほうが育ちます。ここまでは誰でも分かることです。ただこの畑は、上のほうの葉に縁の枯れがございました。水の不足で枯れるときは先から枯れます。縁から枯れるのは水ではございません。
わたくしはしゃがんで、土を指の腹で取りました。まず、色を見ます。黒うございます。次に握ります。握って開いて形が残るなら水を含んでおります。形は残りました。次に、鼻へ近づけます。土の匂いのほかに、薄く鉄の匂いがございました。
それから、指先を舌に乗せました。背中で、ヴァンス様の声がいたしました。
「なにしてる」
「土を見ております」
「舐めるのか」
「舐めたほうが早うございます」
わたくしは立ち上がって、指を布で拭きました。
「この畑の豆は、塩を少なくしてよろしいかと存じます」
「なんで」
「土に塩気がございます。海から遠うございますので、岩のほうから出ているのでしょう。同じ豆でも、王都の畑のものより塩が要りません。バルダ様の煮方ですと、いまは少し多うございます」
ヴァンス様は畑を見て、それから、わたくしを見られました。
「……三十年、誰も言わなかったぞ」
「はい」
「婆さんに言えるか」
「申し上げます」
「怒るぞ」
「怒られます」
その日の昼過ぎ、王都から便りが届きました。ヴァンス様が封を切って、立ったまま読まれました。読み終えて、紙をこちらへ向けられました。
「読むか」
「よろしいのでしょうか」
「あんたに関係のある話だ」
二日前、隣国の使節をお迎えする晩餐が中止になったと書いてございました。
理由は、厨房の都合。
使節の一行は王都に三日滞在して、晩餐のないまま帰られたそうでございます。条約の批准は、次の会期まで持ち越しになったとございました。次の会期は、半年後でございます。
「厨房の都合ってのは、なんだ」
ヴァンス様が仰いました。
「安全を保証できなかった、ということでございます」
「保証」
「他国の方に召し上がっていただくものには、この皿は検めましたという印が要ります。印を押す者がいない皿は、お出しできません」
「押す者がいないのか」
「おります。いまは、十四の子が一人」
ヴァンス様は紙を畳まれました。
「その子に、二十三皿を押させるのか」
「押させたのだと思います。押せなかったのでしょう」
わたくしは、その紙を返しました。二十三でございます。前菜が四、汁が三、魚が三、肉が五、菜が四、甘味が二、加えて水と葡萄酒が二。八年で四度お迎えいたしました。四度とも、わたくしが押しました。
押せなかったというのは、あの子の落ち度ではございません。
押せる者を、みずから追い出しただけでございます。印というのは、押した者の名前でございます。名前を書けば、この皿で何かが起きたときはわたくしの落ち度ですと、先に申し上げたことになります。だから印なのです。
八年、わたくしは一日に十七回それを書いてまいりました。書いた回数は、四万を超えます。
そのうち、何かが起きたことは一度もございません。一度も起きなかった仕事は、外から見ると何もしていないのと同じに見えます。見えるだけでございますが、見えるということが、たいへんに大事でございました。
いまその欄は、空いております。便りの終わりに、一行だけ書き足しがございました。
王都で、また一人倒れた、と。
名は書いてございませんでした。
畑の土を舐めるのは、塩気と鉄気を見るためです。井戸水でも同じことをします。同じ豆でも、育った土で味の付け方が変わりますので、はじめての土地では最初にこれをやります。行儀は良くありません。
次にお会いするのは、王都で倒れた方の名前が分かる日でございます。それから、その方が倒れた夜の献立も。
ブックマークをいただけますと、この屋敷の白磁の小皿が一枚だけ増えます。増えたぶんは、検分に使わせていただきます。




