第3話 どなたか、召し上がってください
下町の宿は、三階の奥の部屋でございました。
朝、階下でパンをいただきました。焼きたてではございません。昨日の夕方に焼いたものを、朝に温め直したものです。表面が一度湿って、また乾いております。
わたくしはそれを二つに割って、切り口の匂いを取りました。
小麦は去年のもの。挽きが粗く、ふすまが少し混じっております。酵母は宿で継いでいるもので、悪くなっておりません。塩は多め。水は井戸のもので、鉄の味が薄く出ております。傷んでおりません。
口に入れました。
噛みました。
二十ほど噛んで、飲み込みました。
それだけでございました。
もう一度、噛みました。今度は三十ほど噛みました。
やはり、それだけでございます。傷んでおらず、危険でもなく、塩が多めで、鉄の味が薄く出ている、昨日の夕方に焼かれたパンでございました。そう申し上げることはできます。八年、そう申し上げてまいりました。
昨日、門の前であの方に問われたことを、もう一度考えました。
考えても、やはり出てまいりません。出てこないものを探すというのは、暗い部屋で物を探すのとは違います。暗い部屋なら、手を伸ばせばいつか当たります。こちらは、伸ばす手のほうがございません。
パンを食べ終えて、水を飲みました。皿を返しに行きましたら、女将が帳場から声をかけてこられました。
「あんた、上の王宮の人だったんだって?」
「昨日までは」
「やっぱりね。食べ方でわかるよ」
「食べ方、と申しますと」
「まず匂い嗅ぐだろ。あれ、うちの客じゃ二人目だ。一人目は薬売り」
女将は帳場の帳面を閉じて、こちらへ身を乗り出されました。
「で、なんかあったのかい。上で」
「なにか、と申しますと」
「乾物屋のうちの人が言ってたよ。昨日、納めに行ったら門で止められたって。何年も入れてもらってた蔵に、入れてもらえなかったんだと」
「……そうでございますか」
「毒見の人が辞めたって聞いたけど」
「はい」
「そりゃ困るだろうねえ」
女将はそう仰って、それから、わたくしの顔をご覧になりました。
「あんたじゃないよね」
「わたくしでございます」
女将は、帳面をもう一度開いて、それから閉じられました。
「……朝飯、おかわり要るかい」
「けっこうでございます」
その日の夕方、わたくしは王宮の通用門へまいりました。給金が半月ぶん残っておりましたので、それを受け取るためでございます。北の門ではなく、東の通用門から入ります。出入りの商人と使用人が使う門でございます。
控えの間で待たされました。半刻ほど待ちました。書き役の方が奥へ行かれたきり、戻ってこられません。急ぐ用ではございませんので、わたくしは椅子に座って待っておりました。
同じ間に、もう一人おられました。荷を足元に置いた男の方で、麻の袋を三つ抱えておられます。乾いた魚の匂いがいたしました。北の海のもので、干し方の良いものでございます。
「あんたも待ちか」
「はい」
「おれは三日目だ」
「三日目、と申しますと」
「三日、この椅子に座ってる」
その方は袋を軽く叩かれました。
「納めに来てんだよ。三年、毎月ここへ入れてる。それが一昨日から、蔵に入れてもらえねえ」
「なぜでございましょう」
「検分が済まねえと入れられねえんだと。じゃあ検分してくれって言ったら、いま立て込んでるから待てって。それが三日」
「魚は」
「そりゃあんた、三日も外に置いときゃな」
その方は肩をすくめられました。
「持って帰るしかねえよ。持って帰ったって、売り先はもうねえ。よそはとっくに仕入れ終わってるんだから」
「……申し訳ございません」
「なんであんたが謝るんだ」
わたくしは答えませんでした。答えようがございません。三日前まででしたら、その袋は半刻で蔵に入っておりました。わたくしが匂いを取って、一片を口に入れて、帳面に一行書けば済むことでございます。
いまは、その一行を書ける者がおりません。
控えの間の壁の向こうは、配膳廊下でございます。壁が薄うございます。八年、この壁の向こうを毎晩歩いてまいりました。ですので、音でだいたい分かります。
六刻の鐘が鳴りました。
晩餐が始まりました。
まず、水が運ばれます。次に、前菜。給仕が三人。足の速さで誰かが分かります。今夜は、いつもの三人ではございませんでした。二人が新しい方です。
皿の音がしました。
銀の匙が、白磁に触れる音がしました。あの音でございます。八年、毎晩わたくしが立てていた音でございます。少し高うございました。匙を当てる角度が浅いと、あの音が高くなります。
音が、止まりました。
止まったあと、次の音が来ませんでした。
わたくしは椅子に座ったまま、壁を見ておりました。次に来るのは、匙を置く音と、口をすすぐ水の音でございます。すすぎの音が来て、それから帳面に書く音が来て、それで一皿が終わります。ひと皿につき、二十を数えるほどでございます。
三十を数えました。
五十を数えました。
百まで数えました。
来ませんでした。
人の話し声も止まっておりました。晩餐の広間で話し声が止まるということは、そちらへ全員が顔を向けたということでございます。
それから、声がいたしました。子どもの声でございました。
「……にがい、です」
小さな声でしたが、静かでしたので、壁を通してもよく聞こえました。
「にがい、です。それ、しか」
そこで切れました。
次に聞こえたのは、椅子が引かれる音と、床に何かが落ちる音と、それから、走る足音でございました。
その足音は、配膳廊下をこちらへ向かってまいりました。控えの間の扉の前を通り過ぎて、厨房のほうへ抜けていきました。
しばらくして、皿を下げる音がいたしました。十七ではなく、四つか五つのところで下げておりました。
その夜、晩餐は止まりました。書き役の方が戻ってこられて、給金の袋を渡してくださいました。
「……お待たせして」
「いえ」
「今夜は、その」
「はい」
それ以上、書き役の方は仰いませんでした。わたくしは袋を受け取って、控えの間を出ました。
配膳廊下を通って通用門へ向かいます。ほかに道がございません。
廊下の途中で、床に膝をついている子がおりました。昨日、根菜の籠を持って壁づたいに歩いていた子でございます。今日は籠を持っておりません。かわりに、腰に房がついております。房の先に、銀の匙が下がっておりました。
その前に、ギルベール様が立っておられました。
「聞いておるのか」
「……はい」
「苦い、で済むと思うか」
「……いえ」
「では何と言えばよい」
子は答えませんでした。
答えられないのだと思いました。何と言えばよいかを教わっていないのですから、答えられるはずがございません。苦い、というのは、あの子が持っている言葉のなかでいちばん近いものだったのでしょう。近いものを出したのに、違うと言われたのです。
わたくしは廊下の端を通りました。ギルベール様がこちらをご覧になりました。目が合いました。
わたくしは会釈をいたしました。ギルベール様は何も仰いませんでした。それから、子のほうへ向き直られました。
「今夜のことは、殿下のご体調が優れなかったということにする」
「……はい」
「よいな。お前が吐いたのではない。殿下が召し上がらなかっただけだ」
子は、両手を膝でこすっておりました。
二度、三度、こすっておりました。手のひらが汗で滑るのでしょう。緊張しておられるのだと思いました。あの手で匙を持つと、柄が回ります。回ると、掬う量が変わります。量が変われば、分かるものも分からなくなります。
通用門を出ました。
外は暗くなっておりました。門の脇の灯りに、虫が集まっております。
二日後は、隣国の使節をお迎えする晩餐でございます。その日は皿が二十三になります。前菜が四、汁が三、魚が三、肉が五、菜が四、甘味が二、加えて水と葡萄酒が二。八年、四度お迎えいたしましたので、覚えております。
二十三でございます。
今夜、五つ目で止まった方に、二十三は多うございます。わたくしはそう思って、それから、思っただけでございました。
思っても、申し上げる先がもうございません。
毒見役の匙は、柄が細く作ってあります。太いと指の力が入って、掬う量が毎回変わるからです。細ければ持ち方が一つに決まります。ですので、手が汗で滑る人が持つと、いちばん困る道具でもあります。
あの子は、まだ名前を知りません。次にお目にかかるのは、もう少し先になります。
王宮は明後日、隣国の使節をお迎えいたします。皿は二十三でございます。




