第2話 銀の匙をお返しします
検分室は、大広間から廊下を四つ折れた先にございます。
窓のない部屋でございます。窓があると光で色が変わりますので、検分の部屋には窓を作りません。灯りは油の燭を四つ。位置は動かしません。動かすと、同じ皿が違う色に見えます。
わたくしは扉を開けて、いつもどおり燭に火を入れました。もう検めるものは何もございませんが、手が先に動きました。八年でございます。
卓の上には白磁の小皿が三十六。すべて同じ窯の同じ型で、縁の厚みが揃っております。揃っていないと、匙を当てたときの音が変わります。音が変われば、その日の集中がそこで一度切れます。
水の甕が二つ。口をすすぐためのものと、匙を洗うためのものです。混ぜてはいけません。
棚に、帳面が並んでおります。月に一冊。八年で九十六冊でございます。背に月と年を書いて、古いものから左に並べてまいりました。いちばん右のものだけが、まだ途中で終わっております。
わたくしはそれを棚へ戻しました。
三段目の、右から二番目。空いていた場所に、ぴたりと入りました。九十六冊が並んで、棚が埋まりました。八年かけて埋まった棚を、埋め終わったところで見るというのは、あまりないことでございます。だいたいは途中で見るものです。
「まだいたのか」
扉のところに、ギルベール様が立っておられました。
「引き渡しの途中でございます」
「引き渡す相手もおらんだろう」
「ですので、置いてまいります」
わたくしは小皿の数と甕の水の量を書いた紙を、卓の上に置きました。次にこの部屋を使う方が、最初に困らないためのものでございます。
ギルベール様が棚をご覧になりました。
「帳面は置いていけ」
「はい」
「もうお前のものではない」
「もともとわたくしのものではございません。王宮のものでございます」
ギルベール様は何か仰りかけて、やめられました。
「……どこにある」
「棚の三段目にございます。右から二番目が、昨夜までのものです」
ギルベール様は棚のほうへ二歩お進みになって、それから止まられました。
背表紙をご覧になっているのだと思いました。九十六冊ございます。どれも同じ厚みで同じ色でございますので、どれがどれかは背の文字を読まないと分かりません。
読まれるのかと思いましたが、読まれませんでした。
「行け」
「かしこまりました」
廊下へ出ますと、厨房のほうから人の声がしておりました。昼の支度の時刻でございます。八年、この時刻にはわたくしも厨房におりました。
角のところで、籠を持った子とすれ違いました。十四か、それより下でしょうか。背の低い子で、籠が重いらしく、両手で抱えて壁づたいに歩いておりました。中身は根菜でございます。上に泥のついたものが乗っておりましたので、洗う前のものです。
その子はわたくしを見て、立ち止まって、それから壁のほうへ寄りました。道を譲ったのではございません。目を合わせないようにされたのだと思います。
わたくしは通り過ぎました。宿舎の部屋は、廊下のいちばん奥でございます。物は多くございません。検分官は匂いのつくものを部屋に置きませんので、着替えのほかは布と紙くらいのものです。
まとめると、布の袋ひとつになりました。八年でございます。八年で袋ひとつというのは、少ないほうでしょうか。父も同じくらいでした。父が家へ戻ってきた日、荷は袋ひとつで、そのなかに匙は入っておりませんでした。返してきたからでございます。
部屋を出るとき、窓を開けました。窓のある部屋に住んでおりながら、開けたのは数えるほどでございます。開けると外の匂いが入って、翌朝の鼻が鈍ります。今日から鈍っても構いません。
外は、思ったよりも良い天気でございました。
北の門を出ました。
門の外には荷車が三台停まっておりました。王宮に入る荷ではなく、出る荷のようでございます。麻の袋が積まれて、上から縄が掛かっておりました。
そのうちの一台の脇に、男の方が立っておられました。背が高くて、外套の裾に泥が跳ねております。王都の方ではないと思いました。王都の方は、外套に泥をつけたまま門の前には立ちません。
その方がこちらをご覧になりました。
「あんた、いま出てきた人か」
「はい」
「じゃあ、聞いていいか」
わたくしは足を止めました。荷車の縄を確かめておられる手つきが、慣れておられます。麻袋の口の縛り方が、王都のものではございません。
「今日は、何が美味しかった?」
わたくしは、その方を見ました。なんと仰ったのか、一度では分かりませんでした。分からなかったのではなく、そういうことを聞かれると思っていなかったのです。
「……何が、と申しますと」
「食ったものだよ。朝でも昼でもいい。今日、いちばん美味かったやつ」
わたくしは考えました。
今朝は湯を一杯いただきました。昼は、まだいただいておりません。昨夜は十七の皿に匙を入れました。前菜が三、汁が二、魚が二、肉が四、菜が三、甘味が二。加えて水と葡萄酒。
すべて覚えております。何が入っていて、何が足りなくて、どこが危うかったかも、全部覚えております。
覚えていないものが、ひとつだけございました。
「……申し訳ございません」
「ん」
「思い出せません」
その方は、少しだけ首を傾げられました。
「食ってないのか」
「いただきました」
「じゃあ、まずかったのか」
「そうではございません」
わたくしは、そこで言葉を切りました。まずくはございませんでした。危険でもございませんでした。危険でないものを、わたくしは八年、毎日十七ずつ確かめてまいりました。
ただ、そのなかのどれが美味しかったかと問われますと、答えが出てまいりません。
出てこないのです。
その方は荷車のほうへ手を伸ばして、麻袋の口をゆるめ、なかから何かをひとつ取り出されました。
「じゃあ、これ」
差し出されたのは、干した梨でございました。
わたくしは両手で受け取りました。受け取ってしまってから、受け取る作法のほうを先にしてしまったと気づきました。人からものをいただくときの受け取り方ではなく、皿から検分するものを取るときの受け取り方でございます。
まず、鼻に近づけました。
「甘い匂いが表に出ております。乾かすときに火を使っておられませんね。日と風だけで乾かすと、この匂いが表に出ます」
「まあ、干し場に吊るしただけだな」
次に、指で押しました。中心のほうがまだ柔らこうございます。乾かし過ぎておりません。
端を少し欠いて、舌の上に置きました。すすぐ水はございませんので、そのまま待ちました。十を数えるあいだに、四つのことが分かりました。
「傷んでおりません。去年の秋のもので、収穫のあと二日置いてから干しておられます。皮は剥いておられませんね。剥かないほうが、この甘みは残ります。虫も湿りもございません。お子様に差し上げても差し支えございません」
その方は、しばらく黙っておられました。それから、頭のうしろを掻かれました。
「……そうじゃなくて」
「はい」
「美味いか?」
わたくしは、口のなかの梨を見つめるような気持ちになりました。傷んでおりません。危険もございません。良いものでございます。良いものだということは分かります。分かるのですが、そのつぎに来るはずのものが、来ないのです。
八年でございます。
八年、口に入れたものを「安全か、危険か」で分けてまいりました。分ける仕事でございます。分けるためには、そのほかのことを考えてはいけません。美味しいと思ってしまうと、次の一口の判断が甘くなります。ですので、思わないようにいたしました。
思わないようにしているうちに、思わなくなりました。
父も、同じでございました。その方は、わたくしの返事を待っておられました。急かされませんでした。荷車の縄をもう一度確かめて、それから、待っておられました。
「……失礼いたします」
わたくしは会釈をして、門を離れました。背中に、その方の声がいたしました。
「また明日、聞くからな」
明日はもう、ここにはおりません。そう申し上げようとして、振り返りましたら、その方はもう荷車のほうを向いておられました。
その日の夜、王宮の夕餉は十四の皿が用意されて、そのうちの一皿にも、どなたも手をつけられなかったそうでございます。
検分室に窓がないのは、光で色が変わるからです。同じ白い汁でも、朝の光と灯りの下では別のものに見えます。ですので窓を塞ぎ、灯りの位置を八年動かしません。動かしたのは一度だけで、そのときは丸一日、勘が戻りませんでした。
明日は王宮のほうを覗いてまいります。新しい毒見役が、はじめて銀の匙を持たされる日でございます。




