第1話 毒見役は、弁明いたしません
大広間には五十人ほどおりました。
朝の八刻。本来なら、この時刻のここには誰もおりません。夜会の片づけが済んで次の支度が始まるまでのあいだ、大広間は空いているものです。それが今朝は、壁際まで人で埋まっておりました。
「毒を盛ったのは、この者にございます」
内膳頭のギルベール・カウス様が、そう仰いました。指の先はわたくしを差しております。
わたくしは膝をついたまま、その指を見ておりました。爪のあいだに赤茶けたものが挟まっております。昨夜、乾かした香草を刻まれたのでしょう。生のまま刻めば粉になりません。八年、毎朝そう申し上げてまいりましたが、一度も直りませんでした。
「イレーナ・ドーレン。申し開きは」
王太子アルヴィス殿下のお声でした。三段高い椅子から、まっすぐこちらを見ておられます。
「ございません」
ざわ、と広間が鳴りました。わたくしの後ろで、誰かが息を吸う音がしました。おそらく厨房の者です。八年も同じ場所で働いておりますと、息の吸い方でだいたい分かるようになります。
「昨夜の晩餐で、オルシュ侯爵家のメルディナ様が倒れられた」
ギルベール様が続けられます。
「毒である。そして、あの晩餐で口に入るすべてを検めたのは、この者ただ一人」
それは、そのとおりでございます。
「検めたか」
殿下がわたくしに仰いました。
「検めました」
「何皿」
「十七でございます。前菜が三、汁が二、魚が二、肉が四、菜が三、甘味が二。加えて水と葡萄酒」
「異常は」
「ございませんでした」
「では、なぜ倒れた」
わたくしは口を開きかけて、それから閉じました。申し上げようとしたことはございます。ただそれは、この場で申し上げてよいことではございませんでした。少なくとも昨夜、同じことを申し上げたときは、そう教わりました。
「……ございません」
わたくしは申し上げました。十七の皿はすべて匙を入れ、匂いを取り、口に含み、すすいで、帳面に書きました。十七行。書き終えたのは給仕が始まる四半刻前でございます。
その帳面はいまわたくしの膝の横に置いてございます。
広間の扉が開きました。
メルディナ様が、椅子に乗せられて入っていらっしゃいました。侍女が二人、後ろから押しております。首から下に毛織を掛けておられて顔だけが出ておりました。
白粉が、いつもより厚うございました。倒れられた翌朝に化粧をなさる方は、そう多くございません。それでも塗ってこられたということは、塗らずには出られなかったということです。頬のあたりが、乾いて浮いておりました。
「あの女です」
メルディナ様が仰いました。声は、思ったよりしっかりしておられます。
「わたくしの皿を、あの女が」
「メルディナ様」
「なんですか」
「昨夜、お召し上がりになる前に、わたくしが申し上げたことを覚えておいでですか」
メルディナ様が侍女のほうを向かれました。侍女は下を向きました。
「知りません。そんなもの、覚えておりません」
「さようでございますか」
わたくしはそれ以上申し上げませんでした。覚えていないと仰る方に二度目を申し上げても、二度目もまた覚えていないと仰るだけでございます。
ギルベール様が深く頷かれました。広間がもう一度鳴りました。
そのときでございます。
侍従が一人、盆を持って入ってまいりました。殿下の朝の茶でございます。毎朝この時刻に運ばれるもので、昨日も一昨日も同じでした。侍従に落ち度はございません。
侍従は盆を脇の卓に置いて、それから、置いた自分の手を見ました。
広間がしんとなりました。
誰も茶に手を伸ばしませんでした。侍従も給仕頭もギルベール様も。殿下は卓のほうへ目を向けられたまま、動かれませんでした。
この広間でいま、その茶を検められる者は一人しかおりません。そしてその一人はいま、毒を盛った者として膝をついております。
どなたも何も仰らないので、わたくしは膝をついたまま、少しだけ首を伸ばしました。
湯気が上がっております。
匂いを取りました。
「その茶は、召し上がって差し支えございません」
殿下がこちらを向かれました。
「ただ、まずいです」
広間がまた鳴りました。今度は先ほどと違う鳴り方でございました。
「……まずい、とは」
「葉が違います。三月ほど前から、南の葉ではなく西の安いものが入っております。西のものは湯の温度を五つ下げませんと、渋みだけが出ます。厨房には四度申し上げました」
「わたくしは、報告を受けておりません」
ギルベール様が仰いました。そういうこともございましょう。わたくしは帳面に書きます。書いたものを読むかどうかは、読む方のご都合でございます。
「毒見役」
殿下が仰いました。
「その茶に、毒は」
「ございません」
「なぜ分かる」
「湯気でございます」
わたくしは申し上げました。
「毒の多くは、湯気に乗ります。乗らないものもございますが、乗らないものは味に出ます。味に出ないものは、色に出ます。色にも出ないものは、その茶碗では出せません。三つとも通るものは、この国に数えるほどしかございません。そしてそのどれも、この王宮の厨房には置いてございません」
わたくしが置かせなかったからでございます。八年かけて。殿下は茶碗を見ておられました。それから、お手を伸ばされて、少しだけ口をつけられました。
そして、眉を寄せられました。
「まずいな」
「はい」
広間の後ろのほうで、誰かが笑いをこらえそこねました。ギルベール様が振り返られて、その者が黙りました。
それから、判決が申し渡されました。毒物の混入は認められない。ゆえに罪には問わない。ただし、王家の御膳検分官としての適性を欠く。よってその職を解く。本日をもって、王宮を退去せよ。
罪には問わないが、職は解く。毒を盛った者としては裁かないが、毒を盛った者として扱う。そういう形でございます。八年つとめておりますと、この形はときどき見ます。誰も嘘をつかずに誰かを追い出せる、たいへん行儀のよい形でございます。
「かしこまりました」
わたくしは膝の横の帳面を取りました。昨夜の頁が開いたままでした。十七行。そのいちばん下に、給仕が始まる前に書き足した一行がございます。
わたくしはその一行を見ました。誰も読まなかった一行でございます。読まれなかった文字は、書かれなかったのと同じかと申しますと、そうではございません。書いた紙は残ります。
その一行は昨夜、給仕が始まる四半刻前に書きました。書いてから、わたくしは帳面を持って内膳頭のところへまいりました。ギルベール様は一行だけご覧になって、それからわたくしの手のほうへ帳面を押し返されました。押し返すときの力の強さを、いまでも覚えております。
あのとき何と仰ったかは、ここでは申し上げません。申し上げたところで、覚えていないと仰るでしょう。
わたくしは帳面を持って厨房へ戻り、給仕の始まりを見ておりました。十七の皿が順に運ばれてまいりました。そのうちの一皿が、メルディナ様の前へ置かれるところも見ておりました。
止めることはできたかと申しますと、できたのでしょう。ただ、止める役目の者はわたくしではございません。わたくしの役目は、検めて、書いて、渡すところまででございます。そこから先は、読んだ方のものになります。
帳面を閉じました。
閉じる音は思ったよりも大きく鳴りました。立ち上がって、腰の房から銀の匙を外しました。柄のところが、八年でだいぶ細くなっております。指の当たる場所だけが減るのです。布で拭いて、両手で持って、ギルベール様の前へ持ってまいりました。
「お返しいたします」
ギルベール様は受け取られませんでした。手を出されなかったのではございません。出しかけて、途中で止まられたのです。匙の先を見ておられました。
昨夜、この匙が入った皿は十七ございます。そのうち一皿を、メルディナ様が召し上がりました。
「……そこへ置け」
「かしこまりました」
わたくしは匙を卓の上に置きました。白い布の上に銀を置きました。
それだけのことでございます。大広間を出るとき、扉のところで給仕頭とすれ違いました。年は五十を過ぎておられます。八年、毎晩わたくしに皿を運んでこられた方でございます。
その方が、わたくしの顔を見ずに、小さな声で仰いました。
「明日から、どなたが毒見をなさいますか」
わたくしは足を止めました。大広間のほうを見ました。五十人おりました。内膳頭も給仕頭も侍従も王太子殿下も、みなおられました。
どなたも、何も仰いませんでした。
毒見役という役目は、毒を見つける仕事ではありません。毒でないことを保証する仕事です。見つけるほうは月に一度あるかどうかで、保証するほうは一日に十七回あります。
明日は引き渡しでございます。八年分の帳面を棚へ戻して、匙を一本、置いてまいります。
お読みくださって、ありがとうございます。ブックマークをいただけますと、あの銀の匙がもう一本だけ増えます。




