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 その日のうちに、スゥは宿のチェックアウトを済ませて、館の隣の修道寮に入った。

 修道寮の二階——階段を上って、一番手前が、スゥの部屋だ。

 宿の個室よりずっと大きな部屋だった。檜張りの壁も、床も、ほこりひとつ見当たらない。家具は一式、胡桃製のものでそろえてあった。ベッドは明らかに二人用で、シスターがひとりで使うには、いささか大きすぎるように感じる。

 スゥはさっそく、シスターたちに身ぐるみを剥がされ、全身にメジャーを当てられた。

 シスターが持ってきた修道服は、スゥにぴったりだった——ほかのシスターが着ているのと同じ、全身が紺色の、シルクでできた服だった。すべすべと、肌の表面をさするような感触。それに、スカートの裾が、太ももの半ばあたりまで切れていて、ともすれば下着まで見えそうで、落ち着かない。

「もっと長いスカートってないですか?」

 ——なかった。

 足神様を敬愛して、シスターもできるだけ素足が見えるように、との設計だった。

 新しい靴も支給された。

 スゥはトレッキングブーツをベッドの脇に置いて、黒塗りの木靴を履いた。歩くたびに、木製の靴の、重さと硬さが、足全体をつつんでくる。黒く塗っているから高貴に見えるけれど、履いてみれば、安っぽいことがわかった。


 スゥのお目付け役に当てられたのは、若く、かわいらしい女性だった。

 彼女は「ディリア」と名乗った。

 シスターを任されて、今年で二年目らしい。

 ディリアが言った。

「朝は、太陽が上る前に起きてください。沐浴をすませたら、足神様にお祈りをして、そのあと朝食になります。午前中は館の掃除。昼食のあとは、経典の勉強。夕食が終わったら、自分の部屋で就寝。だいたいこんな流れです。食事当番もありますが、あなたはまだ入ったばかりなので、しばらくは関係ないものと思ってください」

 質問はありますか、と聞かれ、スゥは「ありません」と答えた。


 ディリアはスゥをつれて、館の中を案内した。

 食事場、厨房、神父の書斎。

 さいしょに門番に通された大広間は、エントランスと呼ばれているらしい。エントランスの奥、中央に、足神を象ったと思われる、大きな壁画があった。その壁画の左右に、木の扉がふたつある。左の扉が、足神様の広場へとつながっている。では、もう一方は……?

 ディリアが右の扉を開けた。

 扉を開けたすぐそこに、中庭が広がった。中庭は、館に囲まれるように作られていて、大きなロの字を、上から見ているような形になっている。

「毎朝の沐浴は、あそこで行うようにしてください」

 ディリアは、水汲み場を指さした。いまも、円形の水汲み場の中央で、足型の石像が、つま先から水を噴き出している。

 スゥがうなずくと、ディリアは扉を閉めた。


 さいごに、ディリアは館の前庭を案内した。

 色とりどりの花壇、きれいに切りそろえられた庭木、それらが作る小道を、ふたりで歩く。庭木の剪定、掃き掃除、草むしり……どれもシスターの仕事らしい。

 スゥはたずねた。

「神父様は、なにをされているのですか?」

 ディリアは、息つくほどの間をあけて、

「足神様から啓示を受け取っている、と聞いています。ほとんど一日、書斎から出ることがありません。こちらに勤めて二年ですが、わたしも詳しくは知りません」

 しばらく歩くと、東屋が見えてきた。檜の屋根の下、白い石のテーブルと、二人分の椅子が置いてあって、ちょっとした休憩にはもってこいの場所だ。

 ディリアは屋根の下の影に入り、スゥに振り向いた。

「館の説明は、以上です。ほかに聞きたいことがありますか?」

「ひとつだけ」

 スゥは、入信の儀のときに見た、巨大な足を思い浮かべた。

「あの足は、神様の足ですよね。なぜ、神様の足に、あのような縄を巻いているのですか?」

「えっと……なぜでしょう」

 ディリアは困ったような顔をして、

「そんなこと、不思議に思ったことがありませんでした。それこそ、神父様か修道長にたずねたほうがいいと思います」

 スゥは「わかりました」とうなずいた。

 ——沈黙。

 やるべきことが終わり、どう別れていいのかわからないというような、微妙な時間が過ぎていく。

 しかし、スゥは見つけていた。

 さっきから、ディリアの口が、わずかに開いたり、硬く閉じたりを繰り返している。

 スゥは、ディリアが話し出すのを待った。

 ……やがて、ディリアは、悲しそうな目を浮かべて、スゥの肩を強くにぎった。

「どうしてこんなところに来たの?」

 スゥはまばたいた。

「こんなところって?」

「こんなところは、こんなところよ」

 ディリアがスゥに顔を寄せた。

「あなた、旅をしていたんでしょう。だったら、ほかにもたくさん街を見てきたはずよね。あなたの心休まる場所は、いくらでもあったんじゃない? なんで、わざわざ、この街に腰を下ろそうとするの?」

「ここがいいと思ったからです」

「いいわけない!」

 ディリアの声が弾けた。

「あなた、よくそんなので旅ができたわね。いまいる場所が危険かどうかくらい、自分で判断しなさいよ。この街のどこにも、安全な場所なんてないんだから!」

 ディリアは、怒鳴りすぎたと自分でわかったみたいに、はっとした顔をして、熱のこもった息を吐いた。

「……悪いことは言わない。いますぐ修道服を脱いで、この街から出ていきなさい。あなたが思ってるほど、ここはきれいな街じゃない」

 スゥは、ディリアの視線を、まっすぐ受け止めた。

 そのうえで、スゥは、心酔した信者のような笑顔を浮かべた。

「そんなことありません。この街は、足神様がおつくりになられた、すばらしい街です。わたしは、足神様に仕えると決めたのです。こんな素晴らしい街に尽くせるのなら、わたしはこの街に骨をうずめてもよいと思っています」

 ディリアはあんぐりと口を開けた。かと思えば、両目を厳しく吊り上げて、スゥをにらんだ。掴んでいた両肩を、突き飛ばすようにして、スゥから離れる。

「……どうなっても、知らないから」

 そう言って、ディリアは休憩所を出ていった。


 ——翌朝。

 スゥはいつもどおり、太陽が上る前に、目を覚ました。いつもならランニングに出るところだが、今日はそうもいかない。スゥは、部屋にかけてあったタオルを持って、中庭に向かった。

 中庭にはすでに、四人のシスターが沐浴をはじめていた。

 特に号令があるわけではない。

 スゥは「おはようございます」と言って、空いているところで寝間着を脱いだ。白い肌を朝の風にさらして、冷たい水で体を流す。さいしょの一汲みが冷たかっただけで、あとはすぐに慣れた。

 ……ふと、視線を感じた。

 ちらっと館を見る。館の二階の窓に、人影を見つける……が、ひとまず気のせいということにして、別の視線を探った。

 水汲み場をはさんだ向こう側に、ディリアを見つけた。

 ディリアは、不服そうな顔でスゥをにらんでいて、目が合うなり、つんと顔を背けた。

(まあ、どうでもいいか)

 スゥは濡れた体を拭いて、部屋にもどった。

 修道服に着替えると、分厚い経典をかかえて、食堂に向かう。

 スゥを含めて、シスターは十人いた。

 スゥが出口側の席につくと、上座に座っていた神父が立ち上がる。

「今日もまた、素晴らしい一日でありますように——経典、第3章、第2節より」

 一斉に経典を開く。

 神父が、経典にある文言を、低く、うなるような声で読んでいく。

 真剣に文字を追う人もいれば、明らかに視線が泳いでいる人もいる。

 スゥは、経典に目を落とした。はたから見れば、真面目に経典を学ぼうとする、敬虔なシスターに見える。しかし、スゥの意識は、まったく別のところにあった。

(さて、どうしよっか)

 ……なんて考えていたら、いつのまにか、神父は経典を閉じていた。


 その日から、スゥはシスターとして、館の仕事にはげんだ。

 朝は掃除。館は縦にも横にも大きくて、それに合わせるように、窓ガラスも大きかった。自分の背丈以上もある窓を、どうやって吹くのかと思っていたら、シスターのひとりが、脚立を持ってきてくれた。これを、すべての廊下でやるらしい。

(ランニングの代わりには、ちょうどいいか)

 一区画掃除するだけで、あっというまに午前が終わった。


 午後には経典の勉強があった。

 経典は分厚いくせに、ページの一枚一枚がとても薄い。

 修道長が音読するあいだ、スゥは興味本位で、何ページあるのかな、とページをめくってみた。十枚も数えたあたりで、目を閉じた。この館にいるあいだに読み終えることはないな、と、スゥは早々に、経典を覚えることをあきらめた。


 夕飯を終えれば、自分の部屋に引っ込むだけ。

 館の明かりが消されるまで、部屋でなにをしてもかまわない。

 スゥは、洗面器に水を張って、その日履いてきた木靴を、ブラシとタオルで労った。

「浮気者」

 ブーツが不機嫌そうに言った。

「おれってものがありながら、別の靴にご執心とはね」

「支給されたんだから、履くしかない」

「まさか、おまえ、それで旅をしようってんじゃねえだろうな」

「んー、どうしよっかな」

 スゥは、いじわるっぽく言った。

「こういう靴、一足あったら便利だよね。修道服ももらえるなら、ほかの街でもシスターになれるし」

「けっ! つまんねえの!」

 トレッキングブーツは、ふてくされたように黙ってしまう。

 スゥは可笑しそうに口元をゆがめて、その日履かなかったトレッキングブーツも、ブラシとタオルで拭いてあげた。


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