3
——翌朝。
いつもの時間に目を覚まし、カーテンを開けると、空がどんより曇っていた。
霧のような雨も降っていて、窓ガラスに、いくらか水滴がついている。
雲の流れが早かった。
もうじき、ひどい嵐になるだろう。
「きょう、出発しないでよかったね」
「だな」
スゥは部屋でストレッチと、軽い運動をして、一階の食堂で、朝食をすませた。
……やることがなくて、落ち着かない。
スゥは部屋にもどるなり、古い手帳や、丸めた地図を広げて、これまでの道のりを振り返っていた。
「ん?」
表から騒がしい声が聞こえてくる。
スゥは地図から顔を上げて、窓辺に寄った。
宿の表を見て、目を丸くする。
今朝にはおだやかだった風が、かなり強くなっていた。窓枠は頑丈につくられているが、強風に吹かれて、がたがたとふるえている。大きくなった雨粒は、風に強くあおられて、窓ガラスにぱちぱちと当たっていた。
そんな、嵐の一歩手前というような状況で、大通りには人があふれていた。
「うそでしょ」
通りを行く人は、雨に濡れるのもかまわず、楽し気に談笑している。
屋台は閉まるどころか開けていて、次々に客を呼びこんでいた。
肉も、ポテトも、ジュースも、雨でぐじゅぐじゅになっている。それがむしろおいしいとばかりに、大人も、子どもも、屋台の料理をほおばっていた。
窓ガラス越しにも、通りの騒がしさが聞こえてくる。
しかし、壁をへだてているぶんだけ、熱は伝わってこなかった。
大通りの人たちは、いかにも楽しそうで、それを見ているだけで、スゥの胸が、うずうずしてくる。
スゥはブーツに、足を通した。
「どこにいくつもりだ?」
「外。お祭り、はじまってるかみたいだし」
「おいおい、冗談きついぜ」
ブーツはぎょっとしたように、
「こんな雨が降ってんだぜ。見るからに風も強ぇじゃねえか。こんななか飛び出したらどうなる? おまえの体なんて、あっというまにずぶ濡れになって、あっちの方に飛ばされちまうだろうよ」
「だいじょうぶ」
スゥが階段を降りていく。
ブーツはたまらず叫んだ。
「だいじょうぶなわけあるか! 考え直せって。いやだ! おれは行きたかねえ! あんな雨んなかに出てみろ。靴底がぐじゅぐじゅになるだろうが。ああやだやだ、あの感覚、思い出すだけでぞっとする。頼むから、なあ、今日は部屋でおとなしくしていようぜ!」
「いーやーだ」
スゥが扉を開け放つ。
ブーツが悲鳴を上げるなか、スゥは、雨風吹きすさぶ大通りに飛び出した。
大粒の雨が、スゥの頭上から降りそそぐ。
外に出て、たった数秒で、スゥはずぶ濡れになった。
街人も観光客も、同じように濡れていた。南部の街特有の、薄手のシャツは、あっというまに透けて、男は素肌が、女は下着が透けていた。だれも、恥ずかしがっていない。むしろ、雨の中で騒げるのが楽しいようで、みんな溌溂としていた。だからスゥも、堂々としていることにした。
スゥは、街人や観光客を真似て、あちらこちらの屋台に並んだ。
川魚の串焼き。
この街特産の果物ジュース。
大陸全土で食べられる、小麦パンと分厚いハムのサンドイッチ。
そのどれも、雨に濡れていた。
ふつうなら台無しだ。
しかし、それが祭りの醍醐味らしい。
スゥは、ずぶ濡れの料理をほうばった。塩気も酸味も、雨ですっかり薄まっていた。けれど、お祭り独特の空気に当てられて、どれもおいしく感じた。
通りの中ほどに、人だかりができていた。
陽気な音楽がひびいている。さすがに、雨の中で楽器を奏でられないから、演奏団は、近くの建物の中にいた。開け放たれた窓から、フルートや、バイオリンや、ピアノの音が聞こえてくる。
人だかりの真ん中で、いくらかの人が、近くの人と手を取り合って、ダンスを踊っていた。決まった形はない。さまざまな街からやってきた人が、思い思いの振りつけを披露していた。しかし、ひとつ曲が終わると、みんなそろって、観客におじぎをしていた。
雨音に負けないくらいの拍手が鳴る。
そうするとまた、次の曲が流れはじめる。人だかりから、またいくらかの人が出てきて、近くの人と手を取った。
踊りがはじまる。
スゥは、人だかりの前に、六歳くらいの男の子を見つけた。迷子かと思ったが、そうではないらしい。男の子は、楽し気に踊る人たちを、うらやましそうに見つめていた。
スゥは、人だかりから、進み出た。
男の子の前にしゃがんで、右手を差し出す。
「おねえさんと、いっしょにおどらない?」
「うん!」
男の子は、満面の笑みを浮かべて、スゥの手を取った。
スゥは躍ったことがなかった。男の子も躍ったことがなかった。見よう見まねで、ステップを踏み、なんども、なんども、お互いの足を踏んづけた。ぬかるみを踏んで、転げることもあった。そのたびに、ふたりは笑った。観客も笑った。泥だらけのふたりが立ち上がって、また踊り出すと、観客は応援の拍手を送った。どんなに汚れても、降りしきる雨が、心地よいシャワーのように、すべてを洗い流してくれた。




