13
ジョンは、ついに、崖の上までやってきた。
辺りに人気はない。
ジョンが岩壁を歩いているあいだに、夜風が煙を払ってくれたらしい。大きな夜空に、たくさんの星がまたたいている。
「あっちに行け」
ジョンは、ブーツに言われたとおり、近くの建物に向かった。そこには、なにかの資材を入れた木箱がつまれていて、木箱の隙間に、大きなバックパックが隠してあった。
「ニーニャのだ」
ブーツが言った。
「おまえにあげるんだと。ニーニャが言ってた」
「いいの?」
「ニーニャが言うんだから、いいんじゃねえか」
ジョンは、バックパックを持って、驚いた。とんでもなく重い。こんなのをもらって、どうすればいいのか。
ためらうジョンに、ブーツが言った。
「……あいつは、こうも言ってた。わたしの代わりに、世界を回りなさいって」
「それって、どういう」
「旅をしろ、ってこと」
ジョンは、はっと目を見開いて、ブーツを見た。
ブーツは言った。
「おまえは、ニーニャに認められた。そして、ブーツであるおれにも、認められた。あまえは、旅をする運命にあるんだ。それを聞いたうえで、どうするか……あとは、おまえの気持ち次第」
ジョンはしばらく、バックパックを握ったまま、考えた。
あのジェーンが、わたしのことを、そんな風に思ってくれていたなんて……
街は静寂につつまれている。崖の周りにも、ショッピング街にも、人気はなく、通りのずっと先まで、街灯の丸い明かりと、夜の暗闇が、交互につづいている。いまのジョンを見ているのは、頭上に輝く、数多の星々だけだった。
たくさん、たくさん考えて——
——ジョンは、重いバックパックを、背負った。
よてよてと不安定な足取りで、街の西側の通りに向かった。
この通りを行けば、街の外につながるトンネルがある。
そこに行こうとして、思い出した。
旅に出るなら、ぜったいに、持っていかないといけないものがある。
ジョンは、来た道を引き返して、街の東側に向かった。
煉瓦通りは静かだった。
今朝はあんなに、人だかりでいっぱいだったのに、いまはまた、もぬけの殻のような静けさが、広がっている。ジョンがひとつ歩くだけで、簡単に足音が響いてしまう。ジョンは、できるだけ音を立てないように、通りを歩いた。
アパートまでやってきた。
表にバックパックを降ろして、一階の空き部屋に向かう。
扉の裏をたしかめると、ちゃんと、ジェーンに買ってもらったスニーカーがあった。
袋ごと抱えようとして——手を止めた。
ジョンは、ひとつ思いついて、音もなく二階に上がった。
そっと、部屋をのぞきこむ。
父親も母親もいなかった。ふたりとも、どこかに出かけているらしい。ジョンは好都合とばかりに、キッチンと寝室がいっしょになったような部屋を横切り、ベッドのそばにしゃがんだ。
ベッドには、三歳の弟がいた。弟は眠っている。ジョンが来ても、起きるようすはない。
ジョンは、弟に聞かせるつもりで、つぶやいた。
「わたしね、旅に出ることにしたの」
ジョンは申し訳なさそうな顔をして、
「ほんとは、あなたもいっしょに、連れていきたいの。あんなおとうさんのところにいたら、あなたも、悲しい思いをすると思うから。でもね、いまのあなたを連れていくわけにはいかないの。わかるでしょ? 肺が悪いのに、長いこと歩いたら、余計に悪くなっちゃうから」
——だからね、と。
「だからね、わたし、旅をしながら、いい病院を探してあげる。あっちこっちを旅して、たくさんお金をかせいで……そしたら、あなたを、いい病院に連れてってあげる。そのときに、わたしのスニーカー、使わせてあげる。このアパートの一階よ。だれもいないの、知ってるでしょ? そこの扉の裏側に、すごく素敵なスニーカーを、置いてあるから。歩くのがむずかしくても、あれだけ軽い靴なら、あなたにだって、履けるわよ」
窓から星明りが差している。
ゆがんだ窓の縁が、弟の口元に影を落とした。その影は、眠っている弟の代わりに気持ちを伝えようとしているのか、口元にできた影は、微笑んでいるように見えた。
ジョンは満足して、部屋を出た。
重いバックパックを背負いなおし、改めて、街の西側に向かった。
衛兵の詰め所には、明かりがついていた。
守衛のおにいさんがいたけれど、疲れていたのか、机につっぷして眠っていた。
ジョンは、「いってきます」と心の中で言って、おにいさんにお辞儀した。
トンネルは真っ暗だった。
崖の底も暗かったけど、光の行き場のないトンネルもまた、暗い闇がひしめいている。
足場は、ブーツが教えてくれた。人間とちがう目を持っているのだろう。足元にある凸凹を、ブーツが教えてくれるから、ジョンはこけずに歩くことができた。
しかし、なかなか、出口が見えてこない。
重いバックパックを背負っているせいで、足取りはひどくおそかった。
ジョンは何度も立ち止まった。
たくさん休んで、歩き出して、またたくさん休んだ。
ときどき、こっそり泣いた。先も見えない暗闇を、ひとりぼっちで歩かないといけないのが、恐ろしくてならなかった。
(ジェーン、ジェーン……)
ジェーンに会いたかった。そばにいてほしかった。でも、ジェーンは崖の下で眠っているし、引き返そうとすれば、「先に進んで」とブーツが怒鳴った。
「ジェーン、ジェーン……」
心にとどめきれなかった言葉が、口をついて出てくる。
それでも、そうやってつぶやいていれば、近くにジェーンがいるような気がして、恐ろしさがやわらぐような気がした。
ジョンはどんどん歩いていった。
そろそろかな。
まだ外に出ないかな。
期待と不安が、バックパックの上からのしかかってくる。
もう無理だ。
そう思ったとき、ふと、暗闇が薄れていた。
顔を上げると、光が見えた。
——出口だ。
ジョンは思わず足早になった。
ふらつく体が倒れないように、おなかに力をこめる。
一歩、また一歩と、足を前に出して。
ジョンは、光の中に飛び出した。
バックパックの重さに負けて、ジョンはついに、座りこむ。
汗だくの顔で振り向けば、さっきまで通っていた暗いトンネルと、その上にそびえるようにしてある、大きな岩山が見える。
トンネルを抜けた。
でも、もう、歩けない。
全身の疲れが、首にくる。ジョンはうつむいて、荒い息を吐いて、小さな肩を上下させた。
そのとき。
ふと、空気が甘いことに、気がついた。
疲労で重くなった首を、なんとか持ち上げる。
そうして、ジョンの目の前に広がったのは——
——緑でいっぱいの、草原だった。
ジョンは放心したように、目と口を、ぽかんと開ける。
どこまでも広がる草原は、早朝の、青白い光に照らされている。遠く地平線を見れば、のぼりかけの太陽が、朝焼けをつくっていた。草原の長草や、白い野花には、透明な朝露がついている。青白い朝日の中、世界がきらきら輝いて見えた。
温かい風が吹いている。風は、草原をゆらし、ジョンの汗を乾かした。
よく見ると、草原の中に、透明な光があった。
川だ。
草原を大きく横切るように、大きな川が流れていた。
ジョンは不思議に思った。
——聞かされていたとおりなら、この辺りはもともと荒地だったはずだ。
しかし、荒地だったのは、数百年も昔の話だ。
長い年月をかけて、クレーターの中の街が変わったのと同じように、クレーターの外の世界も、変わっていた。巨大な隕石は、地表をえぐり、深くにあった水脈を呼び覚ました。水脈は大きく広がっていき、荒れた大地に、命を吹きこんだ。
緑の草原。
白い草花。
透明な水と、朝の景色。
偽りの神様に隠されていた世界は、こんなにも、うつくしい。
ジョンの両目に、涙が浮かぶ。
白い朝日がジョンを照らし、頬を伝う涙を、きらりと輝かせた。




