12
……うっすらと、目を開ける。
体の節々が痛い。肺がとつぜん呼吸を思い出して、ジョンは盛大にむせた。
(ここ、どこ?)
なにも見えない。真っ暗だ。頭上を見上げれば、ここよりわずかに明るく見えるが、ほとんど真っ暗と言っていい。地上はおそらく、夜なのだろう。地の底から見上げる巨大な足は、ただの影にしか見えなかった。
また辺りを見回そうとして、なにかに体を締めつけられていることに、気づく。
息苦しい。
そういえば、わたし、ジェーンに助けてもらったんだ。
「ジェーン?」
呼ぶが、動かない。
ジョンを助けるのに疲れて、眠っているのだろうか。
このまま抱きしめられていてもいいけど、強く抱きしめられすぎて、少し痛い。
ジョンは、這うようにして、ジェーンの腕から抜け出した。そのとき、手が、ジェーンの足に当たった。やわらかい革のような感触。暗くて見えないが、ジェーンの履いていたブーツだろう。ジェーンは、あの切り立った崖を走って、わたしを助けてくれた。ジェーンと、ジェーンの足と、ジェーンのブーツに、ありがとうというつもりで、ブーツをなでた。
それから、ジョンはまた、辺りを見回した。
暗闇に目が慣れてきて、なんとなく、地形を把握した。
崖の底は、平地の広場のようになっていた。崖の上から落ちたものだろう、石や、砂や、なんとも判別のつかない硬い物が転がっている。ジョンの靴は脱げている。裸足で歩くのは危ないから、ひとまず、その場に座っていることにした。
ジョンは空を見上げた。
あいかわらず、地上の光は見えない。
細い線のような夜空に、ひとつかふたつ、ごく小さな星が見えるばかりだ。
助けを呼ぼうとして、やめた。
ジョンは、神の遣いとして、崖から落とされた。ジョンの声を聞けば、街のみんなは、どうして神様のところに行っていないのか、不思議に思うだろう。そうしたらまた、ジョンはあの崖から落とされるのだろうか……それだけは嫌だった。もう、あんな怖い目に遭いたくない。
でも、だからと言って、なにができるだろう。
崖の下は真っ暗で、なにがあるのかもわからない。
切り立った崖は、ジェーンなら簡単に上れるんだろうけれど、いまはすっかり眠っている。
ジョンひとりで、できることがない。
しかし、なんの音もない地の底で、ただじっとしているのは、とてもじゃないけど、耐えられなかった。だから、ジョンは無意識に、ジェーンの体をさすっていた。起こすつもりはなかった。けれど、できるなら起きてほしかった。声を聞かせてほしかった。こんなところで、ひとりにしないでほしかった。
そのとき、
「おい」
と、声が聞こえた。
どこから聞こえたのかわからず、ジョンは辺りを見回した。
だれもいない……しかし、声はたしかに、聞こえている。
「おい、おい、こっちだって」
その声は、近くから聞こえた。
声の方に顔を向けて、手を伸ばす。
なにかに触れた——それは、ジェーンのブーツだった。
「ああ、やっと見つかった」
うれしそうな声がした。
「ずいぶん遅かったじゃねえか。さっきまでずっと、自分からなでてたっていうのに」
その声が、ブーツから聞こえているとわかって、ジョンはびくっと手を引いた。
ブーツは不服そうな声で、
「なんだ、その反応? おれは別に、ばっちいものじゃねえぞ」
ジョンは、おずおずと、ブーツに顔を寄せた。
「……靴が、しゃべってる」
「そりゃ、靴だからな」
「わたし、あなたの声が、聞こえてる」
「みたいだな」
「どうして?」
「おれが、おまえとならしゃべってもいい、って思ったから」
ジェーンのブーツは言った。
「おまえ、さっきから、おれをなでてくれてたじゃねえか。おまえの手から、おれへの感謝が伝わってきた。人間ってのは、おれたちに乱暴だ。でも、おまえの手はやさしかった。ニーニャと同じでな」
「ニーニャ?」
「おまえがジェーンって呼んでた女」
ブーツが言った。
「おまえ、ずっと、本当の名前を言わなかっただろ。だからこいつも、あまえに本名を教えなかった。それに、気づいてたか? こいつ、おまえを一度だって、名前で呼んでねえんだぜ。本名を教えてくれるまで、待ってたってわけ」
「そうなんだ……」
なんだか悪いことをした気持ちになる。
あとでちゃんと、名前、教えなきゃ。
「さてと」
ブーツは気を取り直すような調子で、
「いつまでもこんな暗いところにいたくねえし、さっさと出るぞ」
「出るって……どうやって」
「とりあえず、おれの言うとおりにしろ。まず、おれを脱がしな」
ジョンは、言われるがまま、ジェーンの足から、ブーツを脱がした。
「素直な子は好きだぜ」とブーツが言う。「そしたら今度は、おれを履くんだ」
「でも、これ、ジェーンのだよ?」
「かまわねえから、さっさと履け!」
ジョンはブーツを履いた。ジョンの足には大きくて、つま先もかかとも、余っている。ジョンはさらに言われるがまま、岩壁の前まで歩いた。
「コツを教えるからな」
ブーツは言った。
「まず、おれの靴底を、ぴったり壁に当てる。そしたら今度は、もうひとつの足を、壁にくっつける。できるだけ素早くやれよ。もたもたしてたら、体の重さに負けて、後ろ頭を打つから」
「ちょっと待って」
ジョンは、暗闇を振り向いた。
「ジェーンは? 起こさなくていいの?」
「起きねえよ」
ブーツは言った。
「あいつはもう起きない。やりたいことをやったから、当分起きなくてよくなったんだ」
「でも……」
「気になるなら、またいつか、ここにもどってくればいいじゃねえか。いまはとにかく、ここから出ようぜ」
ジョンは、納得いかないまでも、ブーツの言うとおりにした。
右足を持ち上げて、ブーツの底を、壁にぴったり押しつける。……考えなくてもわかる。ふつう、このまま左足も持ち上げたら、ひっくり返ってしまう。
もたもたしていたら、ブーツがしびれを切らして、
「ああもう、弱気な子は嫌いなんだ! さっさと左足を上げやがれ!」
「は、はい!」
ジョンはぎゅっと目をつむって、一気に左足を持ち上げた。すかさずブーツの底を、壁に突き立てた。ああ、やっちゃった! このままだと、後ろ頭が地面に……!
……ぶつからない?
ちらっと、目を開ける。
景色が変わって見えた。
ジョンはいま、崖の上にある夜の光を、正面に見ている。
影のような巨大な足も、小さな点のような星も、ぜんぶ、目の前にあった。
おそるおそる振り向くと、すぐそこに、地底の平地があった。
「うそ……」
ジョンはいま、壁に対して、垂直に立っていた。
ほんの少しだけおなかに力が必要だけど、体が重力に負けて、倒れるようすもない。
あまりに不思議な出来事で、ジョンは体のあちこちを見回した。
「これ、どうなってるの?」
「おれを履いてるからだ」
ブーツが言った。
「おまえは知らないかもしれないけど、おれたち靴は、なんだってできるんだ。大切にしてくれる人間には、心を開いて、ほんとうの力を使わせてやる。けど、だいたいの人間は、おれたちを、汚くて、臭くて、邪魔者みたいに扱うんだ。ちょっとくらい洗ってくれてもいいのに、ひでえ話だよな」
……よくわからないけれど、こんな、人間離れしたことができるのは、ブーツのおかげらしい。
ジョンは、真っすぐ、正面にある夜の光を見つめた。
「さあ、行くぞ」
ジョンは、名残惜しそうに、暗闇に隠れたジェーンを見て、ブーツに急かされるまま、岩壁を歩いた。




