11
——翌朝。
しとしとと雨が降る音で、ジョンは目を覚ました。
壁に背をつけたまま、痛みのせいで、何度も気絶した。
それがいまやっと目が覚めて、腫れたまぶたで、涙でかすんだ視界を、見回した。
……見知らぬ足が見えた。
父親でも母親でもない。
ジェーンかなと思ったけど、履いているのは、ブーツではなく、黒光りする革靴だった。
そこにいたのは、白と黒の服を着た、高貴そうな男だった。
布でできたお面のようなもので、顔を隠している。見たことがある。この人は、街の神父様だ。ふだんは街の南側に住んでいるけれど、儀式のある日だけ、南側からやってくる。
神父が言った。
「この子ですね」
「ええ」
父親が言った。いままで聞いたことがない、かしこまった調子だった。
神父は、ジョンの両脇をかかえて、立ち上がらせた。とてつもない力だった。あまりに力が強すぎて、抱えられたジョンは、両足が宙に浮いていた。
神父が言った。
「ただいまより、献上の儀を開始します。神の御神足に向かう巫女に、神聖なるお召物を」
ジョンは、白い絹の目隠しをされて、外に連れ出された。
抵抗できなかった。そんな気力もなかった。
献上の儀。
いままで何度も見てきたし、はじめてジェーンに街を案内したときにも見た。
街の中央の、巨大な足——あれは、化け物からこの世界を救った、神様の足だ——神様に感謝を示すため、毎年、ひとり、どこかの子どもが、神様のところに遣いに出される。神様のところに行くには、崖下の門を通らなければいけない。
でも、ジョンは知っていた。
あれは神様の足じゃない。
それじゃあ、どうしてみんな、あれを神様だって言うんだろう。
あれがただの足なら、どうして、崖から落とされるんだろう。
……どうでもよかった。
体じゅう痛くて、大人の力には逆らえなくて。
それなら、もう、抵抗しないほうが、楽だと、思った。
ジョンは目隠しをされていて見えなかったが、煉瓦通りには、ずらっと、街人が並んでいた。みんな痩せていて、襤褸を着ていて、立っているのもしんどそうなのに、今日という日が、まるで世界最良の日だとでも言うように、両足でしっかり立っていた。だれもいないと思っていた街に、こんなに人がいたのかと驚くくらい……街の中央に向けて、人垣がつづいていた。
これから、またひとり、神様の遣いに出される。
あれを神の足だと信じてやまない人々が、引きずられるように歩くジョンを、うらやましそうに、神聖なものを見ているように、拍手でもって、見送った。
空気の流れが変わった。
さえぎるものがなく、風が無造作に吹いている。
前が見えなくても、目の前に、深い断崖があることに、ジョンは気づいた。
ジョンの耳に、神父の祝詞が聞こえてくる。
なんて言っているのかわからない。
どんな意味があるのかも、わからない。
神父の祝詞は、いびつな抑揚で唱えられ、不協和音を聞いているような不安な感じが、胸をふるわせてくる。
「ああ、神よ!」
神父が大きく手を広げた。
「我ら人の子を、最悪の魔獣からお守りくださり、ありがとうございます。今年もまたひとり、貴殿の元に、人の子を献上いたします。どうか、どうか、貴殿の御心を、我らに授けてくださいますよう!」
——どんっ
背中が、押される。
ジョンの体がかたむいて、崖の縁から、足が外れた。
真っ逆さまに、落ちていく。
風をつっきる勢いで、つま先のやぶれた靴が脱げた。
目隠しも取れた。
ジョンの虚ろな目が、暗闇をとらえた。頭の上には、夜より深い闇があって、明るい空は、足の裏の向こうにある。頭上の暗闇が、両手を広げて迎え入れいるように、ジョンの体をつつんでいく。
いまさらのように、空の光が、恋しくなった。
ジョンは、暗闇の中に、まぶしい光を思い出そうとした。
そうして暗闇に映したのは——ジェーンに連れていかれた、岩山からの景色だった。
街があんなに大きくて、きれいだったなんて、知らなかった。あのときはそれが知れただけで満足だった。ジェーンといっしょにいられるのが幸せで、その心地よさに浸っていたかった。
けれど、もしあのとき、ジェーンに言われたように振り向いたなら、ジェーンの知らない、街の外の景色も、見られたはずだ。
自分が旅に出るときまで、大事に取っておくつもりだった。
(……ちゃんと見とけばよかったな)
大事だからって残しておいたら、いつか、なにかが、その機会を奪ってしまう。これまでのように——一生懸命稼いだお金を、端から端まで、おとうさんに奪われてしまうのと同じで——自分の思っていることが、思い通りにいかないことは、いくらでもある。
見られると思っていたものが、いつまでも見られるわけじゃない。
会えると思っていた人が、いつでも会えるわけじゃない。
大事なことは、大事だと思ったときに、どうにかしないといけなかった。
いまさら気づいても、もう、おそい。
光はどんどん消えていく。
ジョンの目から、涙がこぼれる。
その涙は、赤く腫れた頬をつたって、宙を舞い——さいごの手向けとばかりに、暗闇に落ちていくジョンに向けて、空の光を反射していた。
——そのとき。
眼下の崖上から、どよめきが起こった。
音は岩壁を反響し、ジョンの耳にも届いてくる。
わずかに残った心が、どよめきの正体を探ろうとする。
ジョンは、視線を下げて……ぎょっとした!
だれかが、いま、切り立った崖から飛び降りた。
氷を切ったような岩肌に、足場になるようなところは少しもない。しかしその人は、平地を走るかのように、あたりまえのように、岩肌に足をつけていた。
落下の速度と、走る速度があわさって、またたくまにジョンに近づいてくる。
だれだろう。
そう思ったけれど、こんなことができる人を、ジョンはひとりしか知らなかった。
その人は、ジョンのいる高さまで走ってくると、思いきり崖を蹴って、ジョンのもとに飛んできた。
ジョンは叫んだ。
「ジェーン!」
ジェーンは、両手をいっぱいに広げて、ジョンの体を抱きしめる。
ジョンは、ジェーンの背中に腕を回した。
「なんで? ねえ、なんで?」
なんでジェーンがここにいるの?
なんで飛び降りたの?
なんでこんなことになったの?
いくつもの「なんで」をまとめた言葉が、ジョンの口から飛び出した。
ジェーンは、どれにも答えなかった。ジェーンは、まっすぐ、頭上の暗闇を見つめて……ふっと、おだやかな笑みを浮かべた。
「そういえば、言ってなかったっけ」
こんな状況にあってなお、ジェーンの声は、いつもの会話のつづきみたいな調子だった。
ジェーンは言った。
「昨日買ってあげた靴。あれ、あなたの足に、ぴったりだと思う」
「でも、わたし、まだ子どもだよ」
「いつか必ず、大人になる」
ジェーンは、ジョンの顔を見つめて、そっと、頭を抱きしめた。
「大事にしてね。ブラシと、タオルを、忘れないように」
ジョンは、ジェーンの胸の中で、しっかりうなずいた。
暗闇がふたりを飲みこむ。
地上の光は届かない。
直後——音のない衝撃が、ふたりを襲った。
ジョンはすぐに気絶した。
暗い地底で、なにが起こったのか。
それを知っているのは、暗闇だけだ。




