↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
41/50

10

 ——夕暮れ。

 工場の排煙が、街をどんより暗くする。

 夜の闇が近づくなか、ふたりは手をつないで、街の西側を歩いた。ジョンは、さっきのスニーカーを履いていた。買ってもらったばかりの靴を履きたかったし、ジェーンに、この靴を履いているところを、見てもらいたかったのだ。

 それでも、お別れはやってくる。

 宿の前に来ると、ジョンは、ジェーンの手をぎゅっとにぎって、たずねた。

「ジェーン、言ってたよね。靴に認められたら、声が聞こえるようになるって」

「ええ」

「それじゃあ、」

 ジョンは、足元を見下ろした。

「わたしにも、聞こえるようになるかな。大事に使ってあげたら、わたしも、このスニーカーに認めてもらえるかな」

「もちろん」

 ジェーンは言った。

「この世に神様はいない。けど、靴はある。いつだって、そのスニーカーが、あなたのそばにいてくれる」

 ジョンは、「わかった」と言って、名残惜しそうに、ジェーンの手を離した。

「さようなら」

 ジェーンが、宿の扉を、開ける。

 最後の一瞬——扉の隙間が完全にしまって、ジェーンの姿が見えなくなるまで、ジョンは、真っ赤にはらした目で、ジェーンを見送った。


 不思議な気分だった。

 さっきまでずっと、悲しさで胸がはちきれそうだったのに、いまは、気持ちが晴れ晴れとしていた。いつもより視界が広かった。街中は相変わらず、灰色の煙がただよっている。それなのに、街の隅々まで見渡せているような気がした。

 足取りが軽い。

 いつもは、この時間、家に帰らなきゃいけないと思うだけで、足はずんと重くなっていた。それがいまは、びっくりするくらい、すいすいと足が前に出る。

 きっと、靴を買い替えたからだ。

 ジェーンがこのスニーカーを買ってくれたから、今日はこんなにも、気分がいいんだ。


 わたしはこれまで、おとうさんに怒られたくなくて、仕事を探していた。ふらっとやってきた巡礼者や旅人に、すりよって、お金をめぐんでもらおうとした。ジェーンには言ってないけど、すりや、泥棒みたいなことをしたこともあった。ぜんぶ、おとうさんに怒られないためで、おかあさんや弟のためだった。

 それを知ったら、ジェーンは怒るだろうか。

 でも、ジェーンになら怒られてもいいと思った。

 いつか、わたしも旅に出る。

 そしたら、きっとまた、ジェーンに会える。

 そのときに、本当のわたしを教えよう。 

 わたしはぜんぜん、きれいな子どもじゃないよ。

 そんなわたしに、こんなに良くしてくれて、ありがとう。

 ジェーンはほんと、神様みたいなひとだったよ……って。


 煉瓦通りを進んでいく。

 街はすっかり、夜の闇におおわれている。闇の中、丸い火の玉が浮かんでいるように、街灯が点々と、通りの先までつづいている。

 夜道を歩くのは苦手だった。

 けれど、ジェーンに買ってもらったスニーカーを履いているだけで、どんな夜道も、どんな崖も、怖くなった。

 見慣れた建物が見えてくる。

 五階建ての、寂れたアパート。

 ジョンは、家に帰ってきた。


 ここまで帰って、ジョンはやっと、いま履いているスニーカーをどうしよう、と考えた。

 おとうさんに見つかるわけにはいかない。

 それなら、隠しておいたほうがいい。銀貨とちがって、スニーカーは大きいから、体の中に隠せない。どこか、隠すのにちょうどいい場所は……

 ジョンは、一階の空き部屋に向かった。

 扉に手を掛けると、すんなり開いた。

 一階の住人は、肺病にかかって死んでいる。

 それでも、ジョンは念のため、一階に人がいないのをたしかめて、扉のかげに隠れて、靴を履き替えた。ぼろぼろのブーツを包みから出して、真新しいスニーカーを、包みに入れなおす。きちんとリボンを締めてから、玄関の隅に、包みを置いた。

 これでだいじょうぶ。

 もうちょっといい隠し場所を見つけたら、あとでそこに持っていこう。

 一階の扉を閉めて、ジョンは、穴だらけの階段を上った。

 二階に上がったすぐそこが、ジョンの家だ。

 部屋の前に立つと、いつものように、父親の怒鳴り声が聞こえた。

 ……でも、今日はなにか、ちがう。

 耳を澄ますと、別の声が聞こえた——母親だ——いつもは泣いてばかりの母親が、今日はなにか、騒いでいる。

 不思議に思いつつ、扉を開けると、

「ふざけないでよ!」

 母親の絶叫に、ジョンは思わず、立ち尽くした。

 テーブルに座る父親に、母が、鬼の形相で詰め寄っていた。

 父親も目を丸くしている。あれほど従順だった妻が、これほどに怒鳴ると思っていなかったのだろう。ぽかんと口を開けて、言葉が出ないでいた。

 母親は甲高い声で叫んだ。

「もう、もうごめんだわ! あんたのこと、ろくでなしって思ってたけど、まさか自分の娘を売るなんて!」

「だから、売ってねえって言ってんだろ」

 父親はうんざりとした調子で、

「おめえも知ってんだろ。神様には捧げものがいるんだって。こりゃあ名誉なことだろうが。我が子が神様の遣いに出る。その祝い金を、司祭の連中がくれるって言ってんだ。なにがおかしいんだ?」

 母親は、内なる怒りをうまく言葉にできないでいるのか、薄い髪をかきむしり、地団太をふんで、狭い部屋をうつきまわった。言葉にならない言葉が、喉の奥でくすぶって、奇声に変わっている。

 ふいに、母親が止まった。

 嵐が急に鳴りをひそめるように、いびつな静けさが、部屋を満たしていく。

「たえられない」

 母親は言った。

「私、もう、出ていきます。こんな家にいられるもんですか。子どもたちを連れて、この家も、この街も、出ていきます!」

「ふざけんな!」

 父親がテーブルを蹴り倒した。

「出ていく? 出ていくだあ? んなこと許すわけねえだろ。おめえらはいま、だれの金で養ってもらってる? 俺だ、俺の金だ! 俺が毎日、採石場のクズどもと、街の南の貴族様の下で、硬い石で手を擦り切りながら、働いて、手に入れた金だ! 養われてる口で、なに生意気なこと言ってやがる。てめえはここにいろ。ガキどももいっしょだ!」

「いいえ、出ていきます! ふたりとも、私の大切な子どもです。それを、あなたみたいな薄汚れた手に、触らせるもんですか!」

 母親が、扉の前に立つジョンに気づいて、走ってきた。

 しかしすぐ、父親も動きだして、妻の薄い髪をつかんだ。力任せに、か弱い妻を、地面に引きずり倒す。つかんでいた先から、母親の髪の毛がぶちぶちと抜けた。父親は、倒れた妻を、ひたすらに蹴った。

 目の前で、母親が、苦し気にうめいている。

「やめて!」

 ジェーンは、父親の腕にしがみついた。

「おねがい、おとうさん、やめて! おかあさんが死んじゃう!」

「黙ってろ!」

 父親の拳が、ジェーンの喉を、つきあたる。

 ジョンは後ろにふっとんで、なんとか息をしようとした。喉が呼吸を思い出すまで、苦しさにあえいで、涙がこぼれる。

 父親は、動かなくなった母親から足をどけて、ジョンの髪をつかんだ。

「てめえは、明日、神様のところに行くんだよ。祝い金は、たんまりある。俺が大事に使ってやる。おめえは、安心して、神様のとこで、仕事をしてこい」

 ——数多の暴力が、ジョンに襲いかかった。

 ジョンは動く気力も出なかった。

 気絶するように眠って、目を覚ましたとき、父親はいびきをかいていた。母親は倒れたままだった。ベッドには、弟も眠っていた。あれだけの騒ぎがあってなお、たった一人の弟は、目を覚ますことがなかった。弱っていたのだ。肺病間近の病にかかっているのに、まともな食事すら与えられていなかったからだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。