10
——夕暮れ。
工場の排煙が、街をどんより暗くする。
夜の闇が近づくなか、ふたりは手をつないで、街の西側を歩いた。ジョンは、さっきのスニーカーを履いていた。買ってもらったばかりの靴を履きたかったし、ジェーンに、この靴を履いているところを、見てもらいたかったのだ。
それでも、お別れはやってくる。
宿の前に来ると、ジョンは、ジェーンの手をぎゅっとにぎって、たずねた。
「ジェーン、言ってたよね。靴に認められたら、声が聞こえるようになるって」
「ええ」
「それじゃあ、」
ジョンは、足元を見下ろした。
「わたしにも、聞こえるようになるかな。大事に使ってあげたら、わたしも、このスニーカーに認めてもらえるかな」
「もちろん」
ジェーンは言った。
「この世に神様はいない。けど、靴はある。いつだって、そのスニーカーが、あなたのそばにいてくれる」
ジョンは、「わかった」と言って、名残惜しそうに、ジェーンの手を離した。
「さようなら」
ジェーンが、宿の扉を、開ける。
最後の一瞬——扉の隙間が完全にしまって、ジェーンの姿が見えなくなるまで、ジョンは、真っ赤にはらした目で、ジェーンを見送った。
不思議な気分だった。
さっきまでずっと、悲しさで胸がはちきれそうだったのに、いまは、気持ちが晴れ晴れとしていた。いつもより視界が広かった。街中は相変わらず、灰色の煙がただよっている。それなのに、街の隅々まで見渡せているような気がした。
足取りが軽い。
いつもは、この時間、家に帰らなきゃいけないと思うだけで、足はずんと重くなっていた。それがいまは、びっくりするくらい、すいすいと足が前に出る。
きっと、靴を買い替えたからだ。
ジェーンがこのスニーカーを買ってくれたから、今日はこんなにも、気分がいいんだ。
わたしはこれまで、おとうさんに怒られたくなくて、仕事を探していた。ふらっとやってきた巡礼者や旅人に、すりよって、お金をめぐんでもらおうとした。ジェーンには言ってないけど、すりや、泥棒みたいなことをしたこともあった。ぜんぶ、おとうさんに怒られないためで、おかあさんや弟のためだった。
それを知ったら、ジェーンは怒るだろうか。
でも、ジェーンになら怒られてもいいと思った。
いつか、わたしも旅に出る。
そしたら、きっとまた、ジェーンに会える。
そのときに、本当のわたしを教えよう。
わたしはぜんぜん、きれいな子どもじゃないよ。
そんなわたしに、こんなに良くしてくれて、ありがとう。
ジェーンはほんと、神様みたいなひとだったよ……って。
煉瓦通りを進んでいく。
街はすっかり、夜の闇におおわれている。闇の中、丸い火の玉が浮かんでいるように、街灯が点々と、通りの先までつづいている。
夜道を歩くのは苦手だった。
けれど、ジェーンに買ってもらったスニーカーを履いているだけで、どんな夜道も、どんな崖も、怖くなった。
見慣れた建物が見えてくる。
五階建ての、寂れたアパート。
ジョンは、家に帰ってきた。
ここまで帰って、ジョンはやっと、いま履いているスニーカーをどうしよう、と考えた。
おとうさんに見つかるわけにはいかない。
それなら、隠しておいたほうがいい。銀貨とちがって、スニーカーは大きいから、体の中に隠せない。どこか、隠すのにちょうどいい場所は……
ジョンは、一階の空き部屋に向かった。
扉に手を掛けると、すんなり開いた。
一階の住人は、肺病にかかって死んでいる。
それでも、ジョンは念のため、一階に人がいないのをたしかめて、扉のかげに隠れて、靴を履き替えた。ぼろぼろのブーツを包みから出して、真新しいスニーカーを、包みに入れなおす。きちんとリボンを締めてから、玄関の隅に、包みを置いた。
これでだいじょうぶ。
もうちょっといい隠し場所を見つけたら、あとでそこに持っていこう。
一階の扉を閉めて、ジョンは、穴だらけの階段を上った。
二階に上がったすぐそこが、ジョンの家だ。
部屋の前に立つと、いつものように、父親の怒鳴り声が聞こえた。
……でも、今日はなにか、ちがう。
耳を澄ますと、別の声が聞こえた——母親だ——いつもは泣いてばかりの母親が、今日はなにか、騒いでいる。
不思議に思いつつ、扉を開けると、
「ふざけないでよ!」
母親の絶叫に、ジョンは思わず、立ち尽くした。
テーブルに座る父親に、母が、鬼の形相で詰め寄っていた。
父親も目を丸くしている。あれほど従順だった妻が、これほどに怒鳴ると思っていなかったのだろう。ぽかんと口を開けて、言葉が出ないでいた。
母親は甲高い声で叫んだ。
「もう、もうごめんだわ! あんたのこと、ろくでなしって思ってたけど、まさか自分の娘を売るなんて!」
「だから、売ってねえって言ってんだろ」
父親はうんざりとした調子で、
「おめえも知ってんだろ。神様には捧げものがいるんだって。こりゃあ名誉なことだろうが。我が子が神様の遣いに出る。その祝い金を、司祭の連中がくれるって言ってんだ。なにがおかしいんだ?」
母親は、内なる怒りをうまく言葉にできないでいるのか、薄い髪をかきむしり、地団太をふんで、狭い部屋をうつきまわった。言葉にならない言葉が、喉の奥でくすぶって、奇声に変わっている。
ふいに、母親が止まった。
嵐が急に鳴りをひそめるように、いびつな静けさが、部屋を満たしていく。
「たえられない」
母親は言った。
「私、もう、出ていきます。こんな家にいられるもんですか。子どもたちを連れて、この家も、この街も、出ていきます!」
「ふざけんな!」
父親がテーブルを蹴り倒した。
「出ていく? 出ていくだあ? んなこと許すわけねえだろ。おめえらはいま、だれの金で養ってもらってる? 俺だ、俺の金だ! 俺が毎日、採石場のクズどもと、街の南の貴族様の下で、硬い石で手を擦り切りながら、働いて、手に入れた金だ! 養われてる口で、なに生意気なこと言ってやがる。てめえはここにいろ。ガキどももいっしょだ!」
「いいえ、出ていきます! ふたりとも、私の大切な子どもです。それを、あなたみたいな薄汚れた手に、触らせるもんですか!」
母親が、扉の前に立つジョンに気づいて、走ってきた。
しかしすぐ、父親も動きだして、妻の薄い髪をつかんだ。力任せに、か弱い妻を、地面に引きずり倒す。つかんでいた先から、母親の髪の毛がぶちぶちと抜けた。父親は、倒れた妻を、ひたすらに蹴った。
目の前で、母親が、苦し気にうめいている。
「やめて!」
ジェーンは、父親の腕にしがみついた。
「おねがい、おとうさん、やめて! おかあさんが死んじゃう!」
「黙ってろ!」
父親の拳が、ジェーンの喉を、つきあたる。
ジョンは後ろにふっとんで、なんとか息をしようとした。喉が呼吸を思い出すまで、苦しさにあえいで、涙がこぼれる。
父親は、動かなくなった母親から足をどけて、ジョンの髪をつかんだ。
「てめえは、明日、神様のところに行くんだよ。祝い金は、たんまりある。俺が大事に使ってやる。おめえは、安心して、神様のとこで、仕事をしてこい」
——数多の暴力が、ジョンに襲いかかった。
ジョンは動く気力も出なかった。
気絶するように眠って、目を覚ましたとき、父親はいびきをかいていた。母親は倒れたままだった。ベッドには、弟も眠っていた。あれだけの騒ぎがあってなお、たった一人の弟は、目を覚ますことがなかった。弱っていたのだ。肺病間近の病にかかっているのに、まともな食事すら与えられていなかったからだ。




