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9

 ——ジェーンが街に来て、五日が経った。

 当初は、足を観察したら発つ予定だったのに、気づけば長居してしまっている。

 自分で決めた予定を、自分で変える。そういうことは、これまでにも幾度となくあったけれど、今回の滞在は、いつもと趣がちがった。

「こんなの、柄じゃないんだけどなあ」

 宿の部屋で着替えつつ、ジェーンはひとりごちる。

 いくらか間があって、ジェーンは、ベッドのそばに置いていたブーツに、目を向けた。

「だってそうでしょ。私はあの子の先生じゃない。あんな年端もいかないような女の子に、人生がわかったような講釈を垂れるなんて、五十年は早いでしょ」

 また間があいて、

「……それは重々承知の上。あの子にも言ったけど、私が手ほどきするのは、あの子だけ。街の子どもぜんいんに、同じように施しを与えられないって、わかってるよ。……だからこそ危ういっていうのもね」

 ジェーンは窓辺に立って、早朝の、霧に煙る街を見つめた。

「……でも、そっか。私、いままでぜんぜん、自分のこと、見えてなかったみたい」

 ジェーンは言った。

「あの子は、どこか、昔の私に似てるんだ。生きるために必死だった。なぐられないように、殺されないように、見捨てられないように、大人の顔色をうかがっていた。でも、旅をはじめて、たくさんの人に助けられて、世界の見え方が変わった」

 ジェーンが、そっと、目を細める。

 窓ガラスに、わずかにうつった自分の顔に、やせこけたジョンの顔が、重なって見える。

 ジェーンは、ふたつに重なった顔をなでるように、窓ガラスに指を置く。

「私は、ほんとうは、あの子に旅に出てほしいんだと思う。閉じた世界の向こう側に、目を向けてほしくて。だから、私は昨日、あの子を岩山の上に連れていったんだ」

 ジェーンはしばらく、窓辺に立ち尽くした。

 朝日がのぼって、街の霧が晴れてなお、ジェーンは物思いにふけっていた。


 動き出したのは、昼前だった。

 巨大な足の調査は、今日で終わる。断崖の残り四分の一ほどを回れば、足の全体を見終えたことになる。明日には、街を発つつもりだった——その予定だけは変わらない。

 ジョンはとても悲しむだろう。

 しかし、ジェーンにはジェーンの目的がある。

 その目的にジョンを巻きこむわけには、どこまでつづくかわからない旅で、荷物を増やしたくなかった。

 慈善家のようなことをしておきながら、氷のように冷静な判断をくだしている自分が、なんだか愚かに感じて、ジェーンは自嘲的な笑みを浮かべた。

 もう少しで、崖に着く。

 工場の排煙で曇りはじめた街の向こうに、肌色の足が見えてきた。

 ——そこで。

 通りの途中に、見知った横顔を見つけた。

 ジョンだ。

 ジョンは、赤い窓枠の建物の前に立っていた。店の窓には、すりガラスがはめられていて、店内が見えなくなっている。それなのに、ジョンは、そうしていれば透視でもできるとでも言うように、じいっと、ガラスを見つめていた。

 ジョンに近づきながら、ジェーンは、頭の中で、街の地図を開いた。

 ジョンがいる店にあたりをつけて、声をかける。

「おはよう」

 ジョンが、ぱっと、うれしそうな顔をした。

「おはよ! 今日も仕事?」

「そのとおり」

 と、ジェーンはジョンの隣に立った。

「このお店に用があるの?」

「うん」

 ジョンは、うっとりした目で、すりガラスを見つめた。

「知ってる? ここ、靴屋さんなの。昔からあるお店なんだ。神様の足に近いところでお店を開いたら、お客さんがたくさん来てくれるだろうって。わたしの——ぼくのいまの靴も、ここで買ってもらったんだ」

「なるほどねえ」

 ジェーンは、ジョンの靴を見た。ジョンの靴は、使い古されて、つま先がすっかりやぶれていた。やぶれた先から、赤焼けたゆびが飛び出ている。どう考えても、いまの足にあっていない。歩くのにどうしたって地面を蹴るから、指先はかさぶただらけだった。

 ジョンは、窓ガラスを見つめるばかりで、いっこうに動かない。

「……入らないの?」

「入れないの。お金を持ってない人が来ると、店主さん、すごく怒るから」

 だからね、と、ジョンは笑顔を浮かべた。

「お金をためてから、ここに来るんだ。新しい靴を買って、それで旅するの。ねえ、これも、ジェーンが言ってた、目的だよね」

 ジェーンは、複雑な気持ちで胸を痛めながら、

「そういうこと」

 短く答えた——胸の痛みを、顔に出さないように。


 ふたりは断崖の前に立った。

 ジェーンは、ジョンに双眼鏡を渡した。

 これまでと同じく、ジョンとふたりで、足の調査を進めていく。双眼鏡で見えるものは、ジェーンでもジョンでも、変わりない。ジェーンがひとりでやるほうが、作業は圧倒的に速いだろう。それでもジョンに仕事を渡しているのは、仕事料を払うための、口実にすぎなかった。

「ジェーンはさ」

 ジョンはたずねた。

「なんで旅してるの? 目的があるから、旅をしてるんだよね」

「ん、ああ」

 ジェーンは我に返った。

 教えるつもりはなかったのに、つい答えてしまった。

「足を見て回ってるの。それが仕事みたいなもの」

「足って……どういうこと?」

 ジェーンは言った。

「こういう巨大な足は、世界中にあるんだ。そして、その足の麓には、たいてい、街ができている。そういう街を転々として、世界各地の足が、どういう状態なのか、調べて回る。それが、私の仕事」

 ジョンは首をかしげた。

「神様の足って、これだけじゃないの?」

 ジェーンは、手帳を閉じて、ジョンの前にしゃがんだ。

 ジョンは、無垢な瞳をしている。

 それが曇るか、曇らないか……それは、ジョン次第だ。

 ジェーンは言った。

「この世界に、神様はいない」

「……そうなの?」

「うん、そうなの」

 すぐには信じられないだろう——ジェーンはそう思った。

 しかし、ジョンは、ジェーンの言葉をちっとも疑わなかった。

 ただ、疑問が出てきた。

 ジョンは、巨大な左足を指さして、

「それじゃあ、あれは、なに?」

 人間の何百倍もの大きさの、年ごろの少女のものと思われる、白い肌の左足。

 切り立った崖の中にある、不安定な石柱のてっぺんに、片足で立っている。

 あれが神様でないのなら、いったい、なんだというのだろう。

 ジェーンは言った。

「あれは、ただの足。体がないだけで、私たちについているのと、同じ、ただの足なんだ。あの足に特別な力はない。悪いことをした人に天罰を与えることはできないし、空想の化け物を踏みつぶしたりもできない。ただそこにあるだけの足に、人間が後から、いろいろな意味をつけたの。神様っていうのも、この街の人がつけたもの……この世界に、本物の神様は、いないんだ」

 ジョンは、じっと、巨大な足を見つめた。

 しばらく口をつぐんで、小さな頭で、ジェーンの言葉を考えた。

「……よく、わかんないけど」

 ジョンは、ジェーンを見つめて、言った。

「なんとなく、わかった」

 ジェーンは、やさしく微笑んで、ジョンの頭をなでた。


 ——調査が、終わる。

 正午になる前に、ふたりは足の全貌を調べ終えた。

 ジェーンが手帳を閉じる。

 仕事は終わり。

 けれど、まだ、やるべきことが残っている。

 ジェーンは、ジョンを連れて、南区のカフェで食事をしたあと、ショッピング街にもどってきた。

「え?」

 ジョンが立ち止まる。

 ジェーンがやってきたのは、今朝、ジョンが見つめていた、赤い格子窓の靴屋だった。

 ジョンはたずねた。

「新しい靴を買うの?」

「うん」

「でも、」

 ジョンは視線を下げて、ジェーンのブーツを見た。

「それ、大事にしてるんでしょ。このあいだ、ブラシで洗ったんだよね。洗ったばっかりなのに、もう替えちゃうの」

「ちがうちがう」

 ジェーンはおかしそうに笑って、

「これから買うのは、あなたの靴」

 ジョンが、言葉をなくす。

 ジェーンは、驚いて動けないジョンの手を取って、店に入った。

 店内は、きれいに整えられていた。パステルカラーに装飾されたランタンが、店内をやわらかく照らしている。店の真ん中にも、壁際にも、いくつも棚があって、ありとあらゆる靴が売られていた。革靴、ブーツ、スニーカー……どこの国のものか、下駄と呼ばれる、木製の、特殊な靴も置いてある。

 ジョンは、胸がときめいて、しかたがなかった。

 夢の世界にいるみたいだった。

 まだお金もない、身なりも整ってない自分が、こんな世界に来ていいのか……やっぱり、ジェーンって、神様なんじゃないか。そんな思いがぬぐえなかった。

 はやる心に、体が突き動かされる。

 ジョンは、棚から棚へ飛んでいき、きれいに並べられた靴の数々に、目を輝かせた。

 ジェーンはそれを、ほほえましく見つめながら、自分も、商品をながめていく。

「安心しなって。あんたを替えたりしないから」

 と、なにやら足元に、なだめるようなことを言っていた。

 ——しばらくして。

 ジョンがじっと、棚の一点を見つめているのに、ジェーンは気づいた。

 ジョンの前には、一足のスニーカーが置いてあった。山吹色を基礎にして、薄桃色のラインが入った、かわいらしい見た目をしている。かなり精巧につくられているのか、ジェーンが軽く持ってみると、羽を持ち上げたみたいに、軽かった。

 スニーカーのそばに、値札があった。

 金貨、十枚。

 ジョンは、顔を曇らせて、けれどすぐに、近くにジェーンがいるのに気づいて、にこっと笑った。

「わた——あ、ぼく、あっちの靴がいい。あの、紐で編んだやつ。銀貨三枚だって。きょうのお仕事の分、あれで払ってよ」

 ジェーンは、それを聞き入れなかった。

「すいませーん」

 と、店主を呼んだ。

「これ、くださいな」

 ジョンがぎょっと目をむいて、あわててジェーンの袖を引いた。

「い、いいよ! 靴はほしいけど、こんな高いの、買ってもらうなんて」

「いいから、黙ってて」

 ジェーンは、ジョンの手を払って、カウンターに行ってしまう。

 金勘定はあっというま。

 ジェーンは、財布から金貨十枚を取り出して、スニーカーを買ってしまった。店主は、思わぬ大金に驚いたが、サービス精神が旺盛で、買ったばかりのスニーカーを、プレゼント用の袋に入れて、リボンまでつけてくれた。

 あぜんと立ち尽くすジョンに、ジェーンは、包みを差し出した。

 ジョンは、手を伸ばしたり、引っこめたり、せわしない。

 受け取るか。

 受け取らないか。

 でもやっぱり、受け取りたい。

 ジョンの心が、葛藤でぬりつぶされていくなか、ジェーンが告げた。

「今日で、お別れね」

「……え?」

 ジョンが不安そうにまばたくなか、ジェーンは言った。

「私の仕事が、足を見て回ることだって、言ったでしょ。今日でその仕事は終わり。だから、明日には、私は街を出る。だから、これは、餞別みたいなもの」

 ジョンは、言葉で言い表せないくらい、悲し気な目を浮かべた。

 みるみるうちに、両目に涙がたまって、ためきれなかった雫が、頬を伝っていく。

 ジョンは声を上げなかった。

 喉の奥からあふれそうな叫びを、必死でこらえて、それがしゃっくりになって出ていく。

 ジェーンは、ジョンの胸に、スニーカーの入った包みを押しつけて、ジョンの頭を抱きしめた。

「私、こういうの、慣れてなくてさ。でも、あなたとの出会いは、なにか特別なもののように感じるの」

 ジェーンは、目の奥が熱くなるのを、なんとか、理性で押しとどめた。

「今日までいっしょにいてくれて、ありがとう」

「わ、わ、わたしも」

 ジョンは、ジェーンの胸に顔を押しつけて、くぐもった声を上げた。

 ふたりはしばらくそうしていた。

 店主は、なにがなんだかわからないというような顔をしていたが、ふたりを追い出すようなことはしなかった。


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