8
——翌朝。
街はまだ、霧に包まれている。
家族を起こさないように、ジョンはこっそり、家を出た。
昨日はなかなか寝つけなかった。
酔っぱらった父親に殴られるのを、恐れていたせいでもある。しかし、それだけでなく、胸が高鳴って仕方なかったのだ。ジェーンがどこかに連れていってくれる。ジェーンといっしょにいられると考えただけで、口元がにやけてしまっていた。
霧でかすむ街中を、西に向けて走る。
一寸先まで白く染まっているが、ジョンの足は、これまで走り回った街中を、しっかり覚えていた。
断崖をぐるっと回って、西の通りへ。
宿の前で待っていると、ジェーンが出てきた。いつものジャケット姿に、使い古されたブーツを履いている。ブーツをよく見ると、いつもよりきれいだった。そういえば、このあいだブラシを買っていた。あれで洗ったのだろう。
ジョンの右頬は、昨日殴られたばかりで、赤く腫れていた。
なにか言われるかな、と思っていたけれど、ジェーンはなにも言わなかった。
「行きましょう」
と、ジェーンが先を歩く。
今日はジェーンが案内役らしい。
ジョンは素直に、ジェーンについていった。
ジェーンがやってきたのは、街の西の端——衛兵の詰め所があるところだった。
目の前には岩山がそびえていて、外とつながるトンネルがあいている。
ジョンは、この街から出たことがなかった。この向こうにどんな景色が広がっているのか、まったく知らない。そんなことを考える余裕がなかった。
ここに来たということは、トンネルの向こうに行くのかな。
そう思っていたら、ジェーンは、トンネルには行かず、トンネルの脇の、広場とも呼べない場所に向かった。目の前には、岩山の急斜面があるばかりで、心が躍るようなものは見つからない。
なにしに来たんだろう、と思っていると、ジェーンは岩山を見上げた。
「よし」
ジェーンは、ジョンの前でしゃがんで、背中を向けた。
「……なに?」
「おんぶしてあげる」
「そ、そんな年じゃない」
「いいから」
断っても聞いてもらえそうにない。
ジョンは観念して、ジェーンの背中にくっついて、首の前に腕を回した。
ジェーンは、ジョンを背負うと、準備体操のように、軽いジャンプを繰り返した。
そして——
「しっかり捕まってて!」
——思いきり地面を蹴って、宙に飛び上がった!
ジョンは目をむいた。
人間の、それも女性の脚力で、植木一本分も飛び上がったのだ。
とつぜん重力が襲ってきて、ジョンはぎゅっと目を閉じた。
ジェーンは、ジョンを背負ったまま、急斜面を駆けあがった。わずかに突き出した岩を、次から次に、足場にしていく。身軽なウサギが崖登りでもしているみたいに、ジェーンは軽々と岩山を上っていく。
標高が上がるにつれて、横から強い風が吹いてきた。
ジョンは飛ばされないように、しゃにむにジェーンにしがみついた。
ジェーンは横風をものともしなかった。ジェーンの体は、ごつごつとした岩のように、筋肉質で、硬かった。この程度の横風では、ジェーンを吹き飛ばすことはできない。
どのくらい時間が経っただろう。
ジョンには、一時間も、二時間も経ったように感じられた。
あいかわらず強い横風が吹いていて、ジョンは怖くて、目を開けられなかった。
しかし、あるところで、ジェーンが立ち止まった。
「……やっぱりね」
ジェーンが、満足そうにつぶやいた。
「これが、この街のほんとうの景色か……来てよかった」
ジェーンが背中をゆすった。
「ほら、目を開けてごらん」
ジョンは、ジェーンの背中に頬をはわせて、ひょこっと、ジェーンの後ろ頭から、顔を出した。
ゆっくり、ゆっくり、目を開ける。
——空が見えた。
ジョンの視界いっぱいに、早朝の、淡い青色の空が広がっていた。東の空から、まばゆい太陽がのぼっていて、東の岩山の山稜にかかっている。ジョンはいままで、排煙で曇った空しか見たことがなかった。雲ひとつない青空も、自分と同じ高さにある太陽も、はじめてだった。
早朝の空気は、街中よりずっと冷たく、澄んでいる。
いま、わたしは、どこにいるんだろう……
「ここ、どこ?」
ぼうっとしたつぶやきに、ジェーンが応えた。
「岩山のてっぺん」
ジェーンが指さす方に、ジョンは、視線を下げていく。
霧が見えた。
岩山に囲まれた街いっぱいに、霧がかかっている。
霧は、綿の海がたゆたうみたいに、もごもごとうごめいている。
しかし、東の太陽が、岩山の山稜から上っていき——
——霧が、晴れた。
白い霧に煙っていた街が、朝日に照らされてばあっと、ジョンの目の前に現れた。
青と白の光の下、色彩豊かな街並みが、輝いている。
街の西側は、色とりどりで。
東側は、煉瓦の赤色がいっぱいで。
北側は、清潔な白色が広がっていて。
南側は、石と木を合わせたような街並みで。
急斜面の岩山と、灰色の工場と煙突が、街のすべてを囲んでいる。
——長い年月。
——さまざまな文化が集まって。
——クレーターが生み出したこの地に、ひとつの、大きな街がつくられている。
ジョンは、息をするのも忘れて、朝日に照らされる街を見つめた。
街の中心には、切り立った断崖にかこまれて、巨大な左足がそびえている。巨大な足は、人間が生み出したこの街を、見渡しているようにも見えた。
ジョンは生まれてからずっと、この街で暮らしてきた。
それなのに、自分のすぐ近くに、こんなにうつくしい景色が広がっていたなんて、気づかなかった。
けれど、ジェーンはちがった。
ジェーンは、ジョンの知らないことを、たくさん教えてくれた。ジョンはごはんを食べさせてくれた。自分ひとりでは上ろうとも思わなかった岩山の上に、連れてきてくれた。
ジョンは、ジェーンの首を、ぎゅっと抱きしめた。
いまなら、ジェーンのどんな言葉も、信じられそうだった。それ以外のどんな言葉も、ジョンは信じるつもりがなかった。ジョンにとって、いまや、ジェーンが神様だった。ジェーンの言うとおり、あれはただの大きな足で、ほんとうの神様は、ジョンがいま抱きしめているのだと、そう思った。
「……きれい」
「ねえ、きれいだよねえ」
あいかわらず、山頂の風は厳しい。
しかし、ジェーンはまったく動じなかった。
ジョンはしっかり、ジェーンにつかまっていた。そうしているだけで、どんな恐ろしいことが起こっても、耐えられると思った。
ジョンはたずねた。
「ねえ……旅って、楽しい?」
「もちろん」
ジェーンは答えた。
「まあ、でも、楽しいことばっかりじゃないけどね。いやーなおっさんにからまれたり、おっかない野獣におそわれたり。でも、やさしい人に出会ったり、知らなかったことを知れたり……そういうのがあるから、やめられないのよね」
「じゃあ」
ジョンは言った。
「わたしも、旅に出たい」
そして、もしできるなら、ジェーンといっしょに旅に出たい。
この街から出ようなんて、これまでちっとも思わなかったのに、いまは、どこにでも行けるような気がした。
純粋で、真っすぐに、ジェーンの返事を待った。
……しかし、ジェーンからの返事がない。
ジョンは、急に不安になって、たずねた。
「……ダメ?」
ジェーンはわずかに首を横にふって、
「ダメ、とは言わないけど……そういうふうに、私に確かめちゃうあいだは、おすすめできないかな」
「どうして? わたしいま、こんなに、旅に出たいって思ってるのに」
「あのね」
ジェーンは、ジョンを諭すように、
「旅をしたいって言っても、いろいろ準備しないといけないの。それに、外の世界は危険がいっぱいなんだから。不安があるのは当たり前。失敗するのは当たり前。だけど、旅っていうのは、だれかの許可をもらって行くものじゃない。自分の意志で、心に決めて、行くものなの」
わかる? というように、ジェーンは肩越しに、ジョンを見た。
ジョンはうつむいた。ジェーンの言っている意味がわからなかったし、せっかく旅に出たいと思っていた気持ちが、途端に、縮こまってしまったから。
ジェーンは、おかしそうに笑って、
「じゃあ、ヒントをあげよう——」
と、色とりどりの街並みを、両目いっぱいに映した。
「——目的を作りなさい。わたしがどうとか、だれかがどうとかじゃない。あなたが、これだと思う目的を持って、旅の支度をするの。それができたら、あなたは今日にでも、旅に出られるでしょうね」
ジョンは、言葉の意味をたずねるように、ジェーンを見つめた。
しかし、ジェーンはそれ以上、なにも言ってくれなかった。朝日に輝く街を、これでもかと堪能するように、真っすぐ、前を見つめている。
ジョンもそれを真似た。
ジェーンの心意はわからない。
でも、ジェーンの真似をすれば、答えが見つかると思ったのだ。
……結局、答えはすぐに見つからなかった。
そのうち、ジェーンが、体ごと、後ろに振り向こうとした。
「さて、すごいのはこれだけじゃないよ。この後ろには、もっとすごい景色があるんだけど」
「やめて」
ジョンは、ジェーンの肩に、頬を乗せた。
「向こうの景色は、わたしが旅に出たときに、取っておくから。楽しみをぜんぶ、いま見ちゃったら、もったいないでしょ」
ジェーンは楽しそうに、「いいねえ」と笑った。
ふたりは、霧のはれた街を見つめた。
さえぎるもののない朝日が、街を照らし、ふたりの頬を温める。
ジョンは、ただ、幸せだった。頬の痛みも忘れるくらい、目の前の景色と、朝日の温かさと、ジェーンの大きな背中を、感じていた。




